『どろろ』を巡る冒険或いは私的備忘録

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「神話の法則の三幕構成」で解析する『どろろ』 其の一「百鬼丸」編

 脚本術で有名な「神話の法則の三幕構成」を使って『どろろ』を解析してみようと思います。
どろろ』には手塚先生の正典 ( と、書くと何やらシャーロキアンぽいですね ) と、その後、多く書かれ作られた外典が存在します。その正典もサンデー版・冒険王版があり、コミックスになる際に多くの手直しがあり……
 最終的に長く残ることが予想されて編集されたと考えられる「秋田書店発行・サンデーコミックス全四巻」をテキストとして、サブテキストに「冒険王版」を使いたいと思います。ネタバレもございますので、原作を一読されてから内容を読んで頂きたく存じます。
 それと、言わずもがなではありますが、テキスト ( 作 品 )  の読み解き方は、人それぞれ、これが正しいというものは無いと思います。 
 これは、私の読み解き方、
 こんな考え方もあるのだなぁ、と、楽しんでいただければ幸いです。

 

どろろ』の主人公の一人である百鬼丸のストーリーラインは、ブレイクスナイダーの脚本術の「金の羊毛」に当て嵌まり、民話・神話的な枠組みと英雄譚としての側面が見られます。
 原作『どろろ』には「百鬼丸」と「どろろ」二人のストーリーラインがあり、
もう一人の主人公である「どろろ」の物語はやや筋が違っているので、二人のストーリーラインは分けて解説します。

「金の羊毛」とは、ギリシャ神話の英雄イアソンとアルゴ船隊員が、コルキスから盗み出した金の羊毛の事です。
 主人公は「何か」を求めて旅に出るが、最終的に発見するのは別のもの=自分自身というストーリーです。主人公が旅の途中で人々と出会い、多くの経験をする。それらは主人公を成長させる要素であり、最後の成長の完成 ( 金の羊毛 ) への階段になっています。最初に重要と思えたもの ( 宝物など ) より、様々な出会いや経験による変化から、最終的に個人が何かを発見することに意味を見出すストーリーです。

① 日常の世界
 主人公の一人である「百鬼丸」は父である醍醐景光の野望の為に、魔神に生贄として捧げられ、身体四十八箇所を欠損して生まれ、たらいで川に流されます。

 百鬼丸は幸運にも医師である寿海に拾われ、養育・治療を受けて成長します。
 彼の「日常の世界」は養父である寿海との穏やかな日常です。
 この穏やかな生活は怪異の出現と御堂で「声」を聞くことで終わりを告げます。

② 冒険への誘い
 これは御堂での「声」が該当します。
 サンデー版では寿海の屋敷を旅立った後に「声」を聞きますが、冒険王版では雨宿りに立ち寄った御堂で「声」を聞き、寿海に相談し、「旅にでるがいい」「四十八ぴきの魔物とたたかい、そのどろろとかいう少年とめぐりあうことがおまえの運命なのだ」と言われ旅立っています。
 旧アニメもこの流れを踏襲しています。
( 冒険王版では奪われた「百鬼丸」の体で「どろろ」の体が作られている、という設定があり、百鬼丸は「魔物」と「どろろ」を探す旅に出ます )
 旅立つ前に寿海から、「着物と刀、新しい義肢」を百鬼丸は受け取ります。
 これは寿海が作中の「賢者・贈与者」役だからです。
 また、寿海の名前は彼の属性を示しています。
 百鬼丸の元ネタは「蛭子神」と言う説があります。真偽は分かりませんが、考察で書かれているのをよく見かけます。
 恵比寿こと出雲神話事代主神イザナギイザナミに流された蛭子神とは違いますが、同一視されていることも多く、商売・航海の神様であることから関西では人気のある神様で、海に縁が深い神様です。
 百鬼丸の養父の名前は「寿」と「海」です。
 水に関係がある名前であることに注目して下さい、後にもう一人、水に関係がある名前を持つキャラクターが出てきます。
 また、寿海が百鬼丸の旅立ちに「着物」と「刀」を贈ります。着物の柄が何なのか作中では言及されませんが「錨」だと思います。
 親の呪いを受け、川に流され、生きることを許されなかった「百鬼丸」を医術の技で、この世に繋ぎとめている養父が「錨=繫ぎとめる物」の文様の着物を旅立ちに向けて贈っています。
 また、刀は侍の身分を証明するものですが、この刀は「無銘」です。寿海はわざわざ「この刀は無銘だが…」といいます。
 これは、この刀が暗喩するものは百鬼丸が生きるための技術で、百鬼丸の姿形は侍ですが「百鬼丸は侍ではない」ことにつながります。
 また、蛭子神もそうですが、民話・神話では「桃太郎」をはじめ、常ならぬ誕生の英雄は流れてくる、孤児である、ことが多く、

 そのような民話は「通過儀礼」的な枠組みを持っており、この物語も「百鬼丸どろろ」二人のビルドゥングスロマン ( 教養小説と訳されているが直訳すると「成長物語」となる ) です。

☆賢者 ( メンター ) とは、
 主人公に見知らぬ世界と直面するための準備をさせるキャラクターで、主人公を教育し、守護し、案内や手引き、重要な助言、何か価値ある贈り物、手助けとなる道標、移動手段を提供します。

③ 冒険への拒絶
 旅に出た百鬼丸は盲目の琵琶法師に出会います。「俺には何にもできない」と嘆く百鬼丸、断崖の厳しさに竦む彼の姿が、今後の旅路の困難さを示しています。
 この部分が「冒険への拒絶」に該当します。
 法師が先導して崖道を二人が渡っていく場面は「賢者は移動手段を与える」からで、琵琶法師が百鬼丸を導き、助言を与える「賢者」役であることがわかります。

④ 賢者との出会い
 百鬼丸には三人の「賢者」となるキャラクターがいて、
 これは、寿海 → 身体・養育・刀・着物を与える
     法師 → 助言・移動手段を与える
     みお → 母性
 と、なります。
「みお」は、やや分かりにくいのですが、彼女が「人間の心をふきこんでくれた」と百鬼丸が語るように、彼の求めている母性を補完するキャラクターです、男の子の成長の過程で初めての恋人は母なのです。
 また、「みお」と書かれている彼女の名前も彼女の属性を表しており、漢字で書くと「水脈・澪」となるのでしょう。
 これは川・海の中で船の通行する底深い水路、航跡を言います。寿海とみおは名前でその役割、百鬼丸を導くキャラクターであることを表されており、彼女はその死をもって彼を導くのです。
( ほかの美しい女性登場人物はお自夜、お米、お須志と、別の系統で名付けされています )
 また「法師・みお」は寿海の屋敷を旅立ち、不安定な「分離不安」の状態にある百鬼丸の「移行対象」と、見ることもできそうです。

⑤ 第一関門突破
 百鬼丸は「法師」に導かれ、「みお」に出会い、武術の修業をはじめます。
 しかし、侍に廃寺で共に暮らしていた浮浪児とみおが殺され、彼は怒りから侍を切り伏せます。
 このエピソードで彼は侍と対峙する理由を得、再び旅に出ます。
 そして彼が旅に出て、初めて切ったのが妖怪でなく「侍」であることが、後に琵琶法師のいう「生きがい・農民を弾圧している侍との闘い」につながります。

⑥ 仲間・敵対者 / テスト
 百鬼丸の仲間 ( 助手 ) は一緒に旅するもう一人の主人公「どろろ」で、彼女はトリックスター ( いたずら者 ) としての役割も果たしており、ともすれば、暗くなりがちなこの話を明るくする役割を担っています。
 百鬼丸の敵対者は彼が戦っている「妖怪・侍」が外的な敵対者であり、彼の内的な目的である自身の獲得 ( 成長 ) を阻むものは「醍醐景光」となります。
 主人公の目的、特に「内的な 目的」の達成を阻害する障害が「敵対者・影 ( シャドウ )」で、主人公と別の方向に「自己実現」したキャラクターです。
 人に失望し冷笑的になっている「しらぬい」、自分自身を手放し、妖刀の言いなりになっている「田之介」など、水木しげる先生の描く妖怪と違って人間臭い妖怪と、それに操られた人たちは「自分自身の人生」を生きることが出来なかった者たちのカリカチュアです。これらと戦って倒すことがテスト・試練となります。
「最大の敵対者」である「醍醐景光」については後述します。

⑦ 最も危険な場所への接近
 百鬼丸は、ばんもんで家族と再会し、それと知らず弟と戦うことになり、弟である多宝丸を殺します。
 多宝丸は父に似ており、百鬼丸は母に似た容姿に描かれています。
 ここで、貴種流離譚でいう「父王への復讐」が父の代わりに弟の殺害というかたちで果たされます。
 この行為で彼は「ばんもん」を越えたのです。門については後述します。

⑧ 最大の試練
 百鬼丸は醍醐の砦に赴き、両親との対決を果たします。
 ここまでに、百鬼丸の親への心情が吐露される場面が何度かあります、
 鯖目の巻で子供を捨てようとしていた親たちに、
 ばんもんでの母との再会時、
 そして、ここ砦での母との再会・最後の両親との対峙です。
 ばんもんで百鬼丸は縫の方と再会した後、
「俺に母さんが居たら捨てるなんてするもんか」と荒れるのですが、これは、流され捨てられたことを寿海から聞いて、知っていたであろう百鬼丸が、それでも何かの手違いで、捨てられたのではなく親と生き別れたのではないかと思っていたかったから ( 現実の否定 ) と考えられます。
 被虐待児が親から虐待を受けていることを否定する心理です。
 子供にとって親に愛されなかったことを受け入れるのは、それほど耐え難いのです。
 しかし、彼は家族と再会し「捨てられた」ことを確信して荒れるのです。
 二度目の母との再会は醍醐の砦で「禁忌の部屋」を思わせる部屋で行われ、百鬼丸は「俺の親はな、寿海といってえらい医者だったんだ…」と縫の方を拒絶します。
 自身を捨てた親への拒絶・反抗であり、現実の親に幻滅し、彼の思う「しあわせの国=理想の両親」は無いのだと現実を受け入れ、両親との分離を果たす場面です。
 子供にとって「親に捨てられた」と言う受け入れがたい現実を受容している場面です。
 その後、彼は鵺と戦って倒し、村人の蜂起で、砦に群衆が押し寄せる中、
「おまえさんたち、とっととここを出て行きな…」と両親に促します。
 旧アニメでは父が最後の妖怪になり、それを倒し乗り越える形を取りますが、原作では父殺しは果たされません。
 正しく親に幻滅し、距離を取る形となります。
 親殺しでもなく、ご都合主義の和解でもなく、一番現実的な結末となります。
 ここで百鬼丸の「成長」は果たされます。
 彼は親の現実、自分の現実を受け入れ「諦念」したのです。

☆禁忌の部屋とは、民話の「つる女房」で鶴が籠る部屋など「見るなの禁」がかけられた部屋です。
「入ってはいけない禁忌の部屋」が主人公の日常から最も遠い場所に設定されるのは当然、「見てはいけない部屋」の物語は、子と母が一体となった甘美な関係が子の成長によって破綻を迎えるからです。
 この部屋で、子は母の「目を覆うような現実」を直視し「母」に正しく幻滅していくことで母子分離を果たします。
「つる女房」であれば優しく母性を持ったキャラクターである「つう」が鶴であったという現実を見てしまうわけです。

⑨ 報酬
 最後に「どろろ」に約束の刀を渡し、「百鬼丸」は門から旅立ちます。
 門は赤門が女陰を意味するように、それを超えることで、再び誕生することを意味します。
「ばんもん」を越え、両親と対峙し、百鬼丸の少年の時代は終わり、彼は内的に成長しました。
 どこか寂しくすっきりした笑顔でどろろに別れを告げて、彼は門を越えるのです。
 この場合の「報酬」は戻ってきた身体よりも、内的な成長となり、失ったものは「しあわせの国」つまり、「理想の両親」を現実の両親に正しく幻滅して失ったことで、百鬼丸は自分自身の現実を受け入れ、自身の人生を生きられるようになった、ということになるのでしょう。

⑩ 帰路
⑪ 再生
「帰路・再生」は描かれませんでしたが、一つ仮説を立てることは出来そうです。
 侍 ( この劇中では「民衆」を虐げる敵役として描かれています ) を嫌い、しかし、手に刀を持つ ( 手に技術を持つ ) 彼を暗喩する職業は養父寿海と同じ「医師」でしょう。
 作中でも薬品を調合し、どろろの看病を慣れた様子で行うなど、医術の手ほどきを寿海から受けていたことが察せられるエピソードがあります。
 彼が「生きがい」を得、再生するための職業として最適な「道」の様に思われます。
 また、冒険王版では「奪われた百鬼丸の体でどろろは作られており、どろろを殺すことで、魔物と戦わなくても体を取り戻すことが出来る」という設定があり、百鬼丸どろろを殺すことが出来ずに苦しむ場面が描かれます。
 我が子を魔物に捧げることが出来た「醍醐景光」とは正反対の心情を彼は持っています。

 この『どろろ』という、親に呪われた子供の再生・成長物語で百鬼丸の「最大の敵対者」は魔神ではなく父である「景光」です。
「敵対者」とは主人公と別の方向に「自己実現」したキャラクターです。
 被虐待児がいじめを行うことが往々にしてあるように、自身が呪われたら、人はその呪いを他の人に押し付けようとします。
 百鬼丸が自身の呪われた身の上に挫折し、どろろに呪いを背負わせたら ( 殺したら )、彼は景光と同じになってしまうのです。
 この作中で、「敵対者」である景光が魅力的な「巨悪」ではなく、自身の理想である「天下を取れる人物になりたい」がその実力はなく、現実を受け入れ諦めることもできず、我が子を差し出してしまう弱い人に描かれるのはそのためです。
 では、「魔神・妖怪・死霊」と様々な呼び方がされるものは何なのか、
 それは「運命」であろうと思います。
 景光が取引する地獄堂での場面、百鬼丸が御堂で不思議な声を聞く場面、どちらも運命が動くときの暗喩「雷」が鳴っています。
 どちらも大きく物語が動き出すシーンです。
「運命」は誰の敵でもなく、また味方もしません。
 主人公の二人が乱世に生を受けたのも、百鬼丸景光の子として生まれ、生贄とされたのも「運命」で、作中では動かしがたい現実です。
 そして、冒険王版と違い、サンデー版の「声」は短く「…おまえのからだはなみの人間にもどれるかもしれぬ」と告げます。
「もどる」とも「もどれる」ともいいません。
 身体が戻ってきたとしてもそれだけではない「人は人に成り続けなくてはならない」という主題が隠されている様に思います。
 また、雷ではないのですが、どろろのバックストーリーの後に「おいらだって人間だ」と彼女が叫ぶシーンの風の音 ( =死霊 ) もそうです「運命が彼女の身の上を嘲笑して」いるのです。
 最後に「地獄堂」が 五十年の後、戦火に焼失したことを伝えて物語は終わります。
 この五十年は多分、「百鬼丸」が生きた年月です。体を取り戻しても、彼の「人である為」の戦いは続いていたでしょう。

景光」の様に身体に欠損がなくとも、己の欲望のために子や他人に呪いをかけてしまい魔物に堕ちる人でなしはいます。
「生きがい」をもち、人を呪うことなく自身の人生を彼が全うすることで「百鬼丸」は魔神に打ち勝ち、その結果、地獄堂は燃え落ちたのです。

⑫ 帰還
 上記の事から推察して、百鬼丸が「帰還」した場所は「寿海の屋敷」とすると筋が良い様に思います。
 旅立った場所と同じ場所への帰還、しかし、どこかに漠然と「しあわせの国」があると考えていた少年時代は終わり、寿海の下での修行の日々が始まります。
 また、「百姓の為戦う」と言うのは「どろろの両親の夢・希望」であり、彼のものではありません、彼は彼自身として自立して生きるために、他人の夢に依存する甘さも捨てたのです。


 多くの物語が、欠落したものが回復するというプロセスの上に成立しています。
 この『どろろ』という物語の「百鬼丸」のストーリーもそうです。
 そしてもう一つ、主人公に原始的な動機はあるか? は物語にとって重要です。
 人間は本能的で原始的なものに心を動かされ共感するからです。
 生き延びること、餓え・苦痛に打ち勝つこと、愛する者を守ること、死の恐怖に打ち勝つこと、こうした感情移入できる根源的欲求は、多くの読者の共感を得る力があります。
 本作の主人公は生まれてすぐに呪われ、捨てられ、生きることを否定されています。「生を取り戻す」「親に傷つけられた自己の回復」という根源的な欲求がそこにはあります。
 親が「虐待をする毒親」でなくとも「子供」は絶対弱者で、子供ゆえの己の小ささ弱さに傷付くことなく大人になった人はいないのではないでしょうか?
 本作が長く愛され、映画やゲーム・小説と、多くリメイクされている理由のひとつでしょう。

 次は、もう一人の主人公「どろろ」のストーリーラインを辿ってみたいと思います。