大塚英志氏が名付けた “ アトムの命題 ” という呪いがあります。
成長しない体を持つ「アトム」と言うキャラクターが持つ「呪縛」です。
( アトムは天馬博士の亡くなった息子の代わりに作られたロボットなのですが、アトムが成長しないと怒った博士に疎まれ、ロボットサーカスに売られてしまうのです )
手塚作品には、この “ アトムの命題 ” を背負ったキャラクタ―が多く見られます。
本来の性を生きることが出来ない『リボンの騎士』のサファイヤ、『ブラック・ジャック』のピノコ、『どろろ』の百鬼丸とどろろもそうです。
成長できないというよりも、成長を阻まれているキャラクターでしょうか、
『ブラック・ジャック』と『どろろ』という二つの物語が似ているという事は、コンビニ版のコミックスをはじめ、多くの指摘がなされているのですが、
「次号こうご期待」の長期連載であった『どろろ』と短編連作の『ブラック・ジャック』は物語の組み立ては違います。
似ているのはキャラクターの持つ性格と属性であるように思います。
・ブラックジャックこと間黒男は爆弾で体がバラバラになり、恩師である本間医師により一命をとりとめ、みずからも医者になる。
・ピノコは「奇形嚢腫」でばらばらの体をブラックジャックに組み立てられ、自由に動ける体を得た。
・また、ブラックジャックの父は不自由な身の上になった母と彼を見捨て、彼と父との関係性には相克がある。
他にもありますが、これらのキャラクターの持つ性格や属性が、どのように物語に影響しているのか?
これらが二つの作品に「共通したもの」を感じさせている様に思います。
さて、ピノコはブラックジャックが彼女の姉から摘出した奇形嚢腫である。
そうでしょうか? むしろ、
ブラックジャックがピノコから彼女の「影」である姉を切り離し、彼女は自由を得た。
ーと、捉えたほうが良いような気がします。
高貴な身の上で、最後まで本名を明かさず、顔を隠したままの女性は、
自由に跳ね回り、先生大好きと感情を隠す必要もない「ピノコ」の、別の形の自己実現 ( 女性性の抑圧 ) ではなかったでしょうか?
ブラックジャックとピノコは町から離れた「海岸近くの丘」という境界を思わせる場所に住み、やはり短編連作の時間の止まった世界にいますが、ブラックジャックは成長し、自身の手技を持って「世界に自分自身を問うて」共同体に受け入れられているし、ピノコは成長しない体を持つ?が、成長 ( 女性性の獲得 ) は成され、フリルのスカートを履き、リボンをつけ、何より自由な感情で大好きな先生を翻弄しまくっています。
この二つは、全く別のお話ではあるのですが「どろろ」も彼女の背中にあるものを切り離せるのは彼女自身か、そうでなければ「百鬼丸」だと思います。
偶然か、意図してか、PS2のゲーム版『どろろ』も彼女が背負っているものを「百鬼丸」が切り離して、エンディングを迎えます。
「ピノコ・どろろ」の「姉・背負った地図(影)」は「BJ・百鬼丸」によって切り離される。
希望も含む一つの仮説ですが、二人は再会し、どろろを親の呪縛から切り離すのは成長した百鬼丸、というのはストーリーとして筋が良いかもしれません。
また、寿海が渡した刀は百鬼丸の手を経て、どろろに手渡されました。
ばんもんの巻で百鬼丸に、何故刀が欲しいか問われたどろろが、
「…刀持ってりゃ安全だし、将来に自信が持てらあ」と返答する場面があります。
武器と言うより、自身の将来に役立つ技術か、あるいは何かについて語っている様にも思えます。
親に呪われた子供を寿ぐことが出来た「寿海」という医師が手渡したものが、百鬼丸を再生に導き、次はどろろを再生させるのかもしれません。
成長したどろろも、また誰かを再生させる力を持つ女性になっている。
そんな物語もありそうです。
最後に、蛇足の蛇足ですが、
『ブラック・ジャック』には「百鬼丸」と「どろろ」の二人が登場します。
「ミユキとベン」「灰とダイヤモンド」などが有名ですが、他にも登場しており、気になるエピソードが二編あります。
一つは秋田書店・文庫版9巻『ある教師と生徒』
これにどろろが久男という少年役として出ています。
彼は担任の教師にプレッシャーをかけられ学校に行くのが嫌になり、登校中に車に飛び込み、手足を切り取らなくてはならない程の大怪我を負います。
担任の先生も悪意ではなく、むしろ本人のためと厳しくしていたのですが、行き過ぎた指導が裏目に出たのです。
久男の母から連絡を受けた担任はブラックジャックに連絡し「なんとしても手術代は支払います」と告げ……
といったあらすじで、最後に先生と久男は和解します。
教師は火袋こと「丸首ブーン」ではないのですが、父=男性教師とすると、過剰な期待をかけた親との和解とも捉えることが出来るエピソードで、何かを示唆しているようにも思います。
もう一つは少年チャンピオンコミックス・13巻『最後に残る者』です。
これにはニッシェ先生として寿海が出ています。
( ニッシェとはドイツ語で「胃の内側の壁に出来た窪みに溜まったバリウム像」を意味し、胃潰瘍が存在するときに見られるものです。胃潰瘍ができるほど悩み続けた医師ということでしょうか )
あらすじは、六つ児が生まれたものの、皆、未熟児で予後が不良な状態で保育器に入っており、手当ての甲斐も無く、次々と亡くなる中、
最後に生まれた子は元気でしたが、重度の障害児でした。
その子を生かしておいて良いものか、思案と苦悩の末、ニッシェ医師は安楽死を選び、Drキリコに仕事を依頼します。
そこにブラックジャックがキリコの仕事の邪魔をするために登場、奇形児を手術、めでたく成功して物語は終わります。
最後のページの包帯でぐるぐる巻きの新生児の姿が、たらいの中の布でくるまれた百鬼丸を思わせます。
この赤ちゃんは水に流され、生きることを否定され、バケモノと、どの共同体にも受け入れられなかった百鬼丸とは違い、多くの人の温かい声援を受けています。
何処か、この二つのエピソードが『どろろ』という物語の何かを補完している様に思います。
「成長物語」の最後、主人公が成長して物語の外に去る時、物語が良質な「成長物語」であるほど、それを追うことが出来ない読者の胸には、言いようのない寂寥感が去来するものです。
『どろろ』という物語への没入感が強いほど、百鬼丸の旅立ちを見送ることしかできない読者は、もう一人の主人公どろろに気持ちが転移して、遣る瀬無い気持ちになってしまうのでしょう。
仲間を得ることはできる、誰かと寄り添うこともできる、
でも、最後の成長、飛翔の時は一人、
『どろろ』とは、そんな物語だったのだと思います。