『どろろ』を巡る冒険或いは私的備忘録

「どろろ」を中心に「手塚作品」の記事を掲載。カテゴリーは【書籍・舞台・表現規制・どろろのあゆみ・どろろに影響を受けた作品・「神話の法則の三幕構成」で解析する「どろろ」・ブラック・ジャック、ロボトミー抗議事件・ジャングル大帝、黒人差別抗議事件】

どろろのあゆみ【1】

どろろ』の歴史?を、私の手元にある資料や文献から考察も交えて紐解いてようと思います。 ー 定点観測も観測者と観測地点が変化すれば記録は変化する。私という観測者からの報告を楽しんで頂ければ幸いです。

 

 週刊少年サンデーで『どろろ』が執筆開始となる1967年前後は日本にとっても大きな変化の時代でした。1950年代は戦後の深い経済の谷から、戦後復興や朝鮮特需の後押しもあり脱却。「もはや戦後ではない」-戦後最も有名と言って良い、昭和31年 ( 1956 ) の経済白書にそのように書かれます。

 その後、日本経済は産業構造の転換に成功し、高度成長を成し遂げます。
 しかし1960年代には公害問題や交通戦争など科学文明の暗部が現れ、科学で人類が幸福になるという「科学の万能感」が薄れ、社会は新たな変化を迎えます。
 また、アメリカのベトナム反戦運動、中国の文化大革命、フランスの五月革命など世界的な大衆の異議申し立て運動の活発化に呼応するように、日本でも1960年代~70年代に安保闘争が起こります。この闘争はそれ以後の大衆意識に大きな影響を与え、大衆文化・創作物にもそれは波及していきます。
 高度成長の反省が語られるようになり、マンガ・映画などの創作物も未来志向の作品から前時代的な作品へと回帰の兆しが見え、マンガ作品にも時代劇が多く見られる様になります。
( 戦後、GHQが歌舞伎上演や時代劇映画の上映を規制していたのですが、この頃には規制は終了。それらの影響も薄くなり、時代が前時代的な作品を求めていた状況でした。1964年からは『カムイ伝』が連載開始。『どろろ』と同時期の作品だと望月三起也『火炎くぐり』小沢さとる丹下左膳さいとうたかを『無用ノ介』などの時代劇作品が発表されています )
 また、1960年代中頃には貸本劇画が衰退し、楳図かずお先生、水木しげる先生が週刊漫画誌で怪奇漫画家として脚光を浴び、怪奇漫画のブームが到来。
 戦後漫画・動画で成長した団塊の世代は青年層へ変化し「平凡パンチ」「プレイボーイ」などの青年誌が創刊されます。
 TVが娯楽の王様となり、週単位で放送されるドラマに呼応するように、マンガにもスピード化の波が押し寄せ、月刊紙は廃刊が続き、変わって週刊誌が台頭してくるなど、創作物を取り巻く環境も変化が激しい時期でした。
 このような時代背景で1966年には『バンパイヤ』連載開始、
 1967年より「週刊少年サンデー」で『どろろ』が、「COM」で『火の鳥』が連載開始となります。

 大きく変わって行く世相と呼応するように、戦後の漫画が青年劇画の影響を強く受けて、1960年代に表現・様式ともに大きな変容を遂げていった中で、
 手塚先生のマンガ表現・手法は、
手塚治虫は日本的な風土にたいして異文化的な存在として登場してきて、マンガの手法をぬりかえてしまった。若いマンガ家がそれに引き寄せられて、戦後マンガの様式が成立した。それが、だいたい50年代の話です。でもそのときには逆に手塚マンガは、規範とすべき制度になってしまって、今度はそれを破っていく表現が出てくる。そのもっとも大きな流れが劇画で、これが60年代です。そして『火の鳥』連載開始の60年代後半には、手塚マンガはその根底を問われるような危機に見舞われている 》《 いくら手塚が昔の様式のなかで深淵なテーマを書いたとしても新しい表現には勝てないという部分がある。そういう悲劇が50年代から60年代の手塚を襲うことになります 》
《 手塚マンガが50~60年代に戦後マンガの制度だったという前提を受け入れるなら、60年代までの手塚治虫を扱うことは戦後マンガ全体を扱うことと、ある程度同じことになります ( 中 略 ) ところが手塚は自分が制度になってしまうことにものすごく苛立つんです。古くなったってことですから、彼はそこで安住できない。昔のファンから見放されても新しい表現をとり入れようとする 》
と、【 手塚治虫の冒険・夏目房之介著 】に書かれたように、手塚マンガは表現の変容を模索して苦闘の時代を迎えます。
 同書の第五講【 60年代手塚マンガの変容『どろろ』】には『どろろ』が水木しげる先生、白土三平先生からどのように影響を受けたのか、そして、その結果、どのような試行錯誤が成されたのか、詳しく解説されています。
 細かい点は同書をご参照頂くとして、青年文化・劇画表現との邂逅の結果。
 歴史概念の取り入れ、表現の変容が試みられた『どろろ』は夏目先生のご指摘にある様に何処かアンバランスでちぐはぐな作品となりました。
( 私は、そのアンバランスさもバロックで良いな好きだなと思っている信者なのですが )
 そして、そのような手塚作品の変容が受け入れられなかった為か『どろろ』は、連載当初から厳しい批評に晒された様です。
 昭和42年12月号の「COM」で評論家の佐野美津男氏に《 あのおもしろさは、手塚治虫のものではない。他人さまからの借りものだ。あんなものに手塚治虫は手を出すべきではないよ 》と批評され、
 昭和42年10月25日・朝日新聞 (夕刊) の家庭欄【 こどもジャーナル 】で、中川正文教授 ( 京都女子大 ) に《 薄よごれた妖怪が登場するだけで、かつての手塚氏の面影はなく、もはやダ作というほかない 》と酷評されています。これには手塚先生も昭和42年11月14日・朝日新聞 ( 夕 刊 ) で《 批評は全部終わった後に 》と中川教授の批評に反論しました。
 この記事の内容で気になるのは《『どろろ』は妖怪漫画ではない、加賀一揆という歴史を舞台にした時代漫画である 》との反論。やはり初期の構想では妖怪退治を横軸に加賀一揆を舞台にした歴史ものを縦軸に、多層的な時代劇の構想が有ったのかもしれません。また《 いまの子どもは初期のアトムを読む気がしないという。ジャングル大帝も面倒だという。こうした子どもたちに密着するために、私自身も変身せねばならない。昔の私の漫画がよかった、ということは過去の亡霊を求めているようなものだ 》《 いまの十七・八歳の人たちは新しい漫画で育ってきた。漫画のおもしろさを十分知っている世代だ。やがて、あらゆる分野で漫画的感覚を生かしてゆくことだろう 》
と、戦後マンガ世代の成長とともに、手塚先生が作風の変化を意欲的に模索していたことを思わせる記述もあります。
 こうして、
《 ーぼくも本心からこの作品にのってしまったのです。珍しく時代もの、それも中世を舞台にした因果応報もの、ということが意欲をかき立てました。主人公の二人に自分ながら惚れぬいたのも、めったにないことでした 》
と、手塚治虫文庫『どろろ』のあとがきにあるように手塚治虫の新境地になるはずであった『どろろ』ですが「週刊少年サンデー」1968年7月21日号で打ち切り終了となります。

 文庫版のあとがきには《『どろろ』は週刊少年サンデーの連載中は人気がなく、物語途中で打ち切りとなった。しかし単行本になってから人気を博し…… ( 手塚プロダクション資料室長の森晴路氏 ) 》と記述があるのですが、連載当時の扱いを見ていると、カラーページ、折り込み口絵、人気作家によるどろろ特集、別冊の発行、後のアニメ化等々、不人気作品として扱われていた様には見えず、他にも連載終了の要因はあるように思えます。
 以下、当時の状況から考えられる幾つかの理由を考察してみたいと思います。

【 こどもジャーナル 】の記事、その他の批評から分かるように、変容しつつある手塚作品に違和感を覚え、受け入れられなかった方たちの批判の声に晒されたことが、サンデー版『どろろ』の連載終了の一因となったのではないかと思います。この様な批判的な評論は手塚先生だけでなく、新しい表現を模索する他の作家にも向けられていた様です。

 また、昭和37年に虫プロが創立し『鉄腕アトム』が放送され、本格的に虫プロが稼働し、先生の仕事が動画制作中心に動いていた時期と『どろろ』連載時は重なります。
 動画制作により、時の人と成った手塚先生ご本人のTV等メディアへの出演も増加していました。慣れない社長業も多忙さに拍車をかけていた事と思われます。

 1967年当時の手塚先生の執筆枚数は月産250枚、
 一位は石ノ森章太郎先生・570枚、二位さいとうたかを先生・330枚、『巨人の星』で人気の絶頂だった川崎のぼる先生が八位で270枚、それらに次いで九位の月産枚数でした。
 連載も1966~1968年にかけて、
鉄腕アトム』『火の鳥』『マグマ大使』『W3』『バンパイヤ』『フライングベン』『人間ども集まれ』『ノーマン』等、驚くべき執筆量ですが、これでも全盛期に比較して執筆枚数は減少している様です。そのような中で実験的な作品の発表の場として【 C O M 】の創刊。
 想像するに余りある多忙さであった事が伺えます。

 手塚先生の創作意欲が『ノーマン』連載に向いた。
【 ノーマン・あとがき 】
《 当時、六〇年安保から七〇年安保へかけてのはざまで、社会は大きくゆれ動いていました。暗い激動の時代でした。当然、漫画界にもその影響がおよんで、少年週刊誌にも暴力やセックスを肯定して、はみ出し人間を主人公にした作品がしだいに出始めていました。このような時期に「ノーマン」のようなSF冒険ものに手を染めたのは、少年漫画界全体がリアルで生ぐさいドラマ偏重に向かいつつあることへの反発だったかもしれません。
( 中 略 )
思い出すのは、「ノーマン」の最終回の前の回のしめきり日に、ソ連が初めて月ロケットを打ち上げたことです。このニュースは衝撃的で、それまでの宇宙もの-荒唐無稽という観念を一掃しました。そして、ぼくもそれを記念した一コマを「ノーマン」のラストに加えることにしたのです 》
どろろ手塚治虫文庫あとがき 】
( 前 略 )
《 そして、まずいことに「ノーマン」の新連載が始まってしまったせいもあって、「どろろ」への意欲も半減して、編集部の要請で、大急ぎで大団円にしなければなりませんでした。本当は、百鬼丸が四十八体の魔物とたたかうエピソードを残らず出したかったですが、滑稽にも、残った魔物を全部いっしょくたにした「ぬえ」などという怪獣を出したりして、あっさりかたづけてしまったのです 》

【 神様の伴走者・手塚番13+2 ー神様の孤影を見た男・黒川拓二ー 】 
《 一応、毎週火曜日に手塚番が集まって、マネージャーを中心にして1週間の締め切りスケジュールを組むんです。でも、これは儀式みたいなもので、要はマネージャーのつるしあげ大会ですね ( 笑 )。当時、週刊誌連載が3本。『人間ども集まれ!』の「漫画サンデー」が月曜日発売。『どろろ』の「少年サンデー」と『ノーマン』の「少年キング」が水曜日発売。この3本の締め切りがほとんど重なっちゃうんです 》


上記の事から、『週刊少年サンデーどろろ』は
① 手塚作品の新しいスタイルに賛否両論の声が上がり、厳しい批評に晒された。
虫プロ設立、手塚先生のメディアへの出演増加。
③ ②とともに慣れない社長業が多忙さに拍車をかけた。
④ 執筆量・連載ともに全盛期より減少したものの、月産枚数250枚。
⑤ COMの創刊。
⑥ 『ノーマン』連載開始、週刊誌連載が3本重複。

など、これ以外にも様々な要因が絡み「週刊少年サンデー」での連載は一時終了 ( 打ち切り ) となった。
と、考えられます。
上に挙げた理由をまとめると、
「① 『どろろ』への厳しい批評の声・②~⑥先生の仕事量の増加」
二つの大きな理由に集約されると思います。

 このようにして打ち切りとなった『どろろ』ですが、二年後の1969年アニメ放映とともに冒険王で連載が開始となります。