『どろろ』を巡る冒険或いは私的備忘録

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どろろのあゆみ【2】「どろろ」旧アニメ、1969年4月~放映開始

どろろ』旧アニメは、出崎哲氏が杉井ギザブロー監督に「面白い、これアニメになりませんか」と原作を勧めた事がきっかけで、虫プロに企画が提出され、1967年に企画スタートとなりました。
 その後はパイロットフィルム完成が1968年1月29日、テレビシリーズの第一話完成が10月2日、放送開始は翌年の4月6日と、それぞれにブランクが見られ、スムーズな制作ではなかった様子が伺えます。
どろろDVDボックス」封入冊子の【 どろろ回想録 】杉井ギザブロー監督インタビュー記事には下記の様な記述があり、当時の混乱した製作現場の苦労が偲ばれます。
パイロットの完成の後、いきなり放映予定が延びたんですよ。それで大騒ぎになって。アートフレッシュは全員他の仕事を空けて『どろろ』体制にしていたのに、富岡厚司さんがやってきて「延びちゃった」と… 》《 スタジオも待ってるわけだからお金が回らないのは困る。Aプロの楠部さんにお金を貸してほしいと泣きついたんです ( 中 略 ) アートフレッシュのメンバーは『どろろ』が動き出すまでの間『巨人の星』作画下請けをすることになった 》

 また、文化通信・昭和43年7月19日付の記事によると、
《『妖怪人間ベム』との競合の結果「どろろ」の10月編成は見送りとなり、翌年4月からの放送となりました 》
と、テレビ局の編成の都合で延期になったとの記述が見られ、これも製作遅延の要因のようです。
 その後、1968年の夏頃より旧アニメ『どろろ』の製作は本格的に始動し、スポンサーもカルピスに決定。こうして『どろろ』はカラーテレビが急速に普及し始めた時期の「虫プロ」最後期白黒制作作品となりました。

 

 当時の『どろろ』企画資料には作品のコンセプトが以下の様に記載されています。
・異色時代劇である作品『どろろ』新しい時代劇の登場
 単なる「剣豪もの」でも「戦記もの」でも「武者修行もの」でもなく、また「天下取り」や「宝さがし」ものでもなく、「出世もの」「歴史もの」「伝記もの」の類でもなく「仇討ちもの」「またたびもの」( 道中記もの )とも言い切れず、ましてや「用心棒もの」「隠密もの」でもない文字通り異色な新しい時代劇、それが『どろろ』であります。
・作品『どろろ』の時代背景
 戦国時代幕開けの頃、時代は室町時代の中頃、応仁・文明の大乱を経た1470年代の出来事。舞台は北陸路から能登半島をかけて、丁度、100年後には織田信長が入京し、それより数10年後には秀吉により天下統一がなされる前の最も混沌とした時代の物語である。
・誰もの興味をひく「奇怪な物語」
「手」もなく「足」もなく「耳」「口」「目」「鼻」など身体の48ケ所がなく、人間とは言い難い主人公が、造りものの身体で、自分の分身とも言える48匹の妖怪と闘って、身体を 取り戻すという奇々怪々な物語は、その「異様さ」と「奇怪さ」とで総ての人の心を魅了せずにはおきません。
( 虫プロダクション資料集・1962~1973より抜粋 )

 

 1966年には『ウルトラQ』が放映開始、アニメ以外にも子供番組の選択肢が増え、虫プロが満を持して発表した『W3』の視聴率は『ウルトラQ』に圧倒される等、手塚テレビマンガ人気のピークは過ぎ始めていた頃でした。
鉄腕アトム』製作から6年を経て、虫プロの「手塚治虫の人気漫画を次々とテレビマンガ化する」という他の製作会社にはなかったアドバンテージも失われつつある厳しい状況の中で『どろろ』は製作される事となります。

 また、この時期には時代劇作品への回帰が見られるようになり、1964年から1971年にかけて『カムイ伝』が「月刊漫画ガロ」に連載され、この連載中不定期に「週刊少年サンデー」で連載されていた『カムイ外伝』が『どろろ』と同時期にアニメ化放送開始になっています。
 そして、『どろろ』放映前年の1968年には『佐武と市捕物控』が放映開始となります。この作品は内容・表現ともに大人を意識した作品で、斬新な映像表現とともに大きな反響を呼びました。
 この流れを汲んで『どろろ』も大人びた雰囲気の挑戦的な作品となります、
どろろDVDボックス」封入の冊子にも、
《 子供って結構、大人の横から大人のドラマを見てたりするわけで、この番組は思い切って子供たちにちょっと背伸びをさせてみようと思っていた 》
と、当時の心境を杉井ギザブロー監督が語っておられます。

 また、講談社手塚治虫文庫全集のあとがきに
《 テレビの「どろろ」は、パイロットフィルムを見るかぎり、すばらしいカラーでみごとなアニメでしたが、予算の関係で白黒の本編になってしまったことが、かえすがえすも残念でした。演出は杉井ギザブロー氏で、音楽の冨田勲氏が最高の曲をつけてくれたのです。これはカルピスのアニメ劇場の第一回めの提供です。しかし、視聴率がよくなかったために、二十六回で打ち切られました 》
と書かれていますが、
どろろ』が白黒製作作品となった理由は、スポンサーであるカルピスから、
「人を斬るシーンが気持ち悪い、なんとかならないか」
「夕食をみんなで食べようというときに、真っ赤な血が画面にバーッというのは気持ちが悪いでしょう」等の意見が出た結果、モノクロでの製作、とスポンサーの事情が大きかったようです。
 杉井ギザブロー監督は「『どろろ』は人を斬れば血の出る作品ですから、それならモノクロにすれば文句ないだろうと ( 笑 )」と、むしろカラーでやる必要は無く、アニメの方も少し大人っぽい視線で通していく意図があった為、喜んでモノクロにした。との発言をされています。
( 同時期にカラーで製作された『カムイ外伝』もこれらの演出には苦労した様子で、人を斬る瞬間に画面がモノクロになったり、血飛沫を黒く表現したり様々な斬新な演出が試みられていました )

 しかし、放送開始後の『どろろ』は、その挑戦的で大人びた内容と描写がスポンサーからのクレームに結び付き、原作者である手塚先生が、杉井ギザブロー監督に「連載やってても、暗い、難し過ぎると編集者に言われている。僕も原作を路線変更しようと思うんで、ギっちゃんも番組を明るくして」と申し入れたこともあり、14話以降は児童向けに路線を大きくテコ入れ、タイトルも『どろろと百鬼丸』に変更を余儀なくされます。
 この辺りの経緯は「どろろDVDボックス」封入の冊子に【 どろろ回想録 】として書かれており、Wikipediaどろろ・アニメ」にも詳しく纏められていますので、詳細はそちらをご覧頂くとして …
 テコ入れ後、どろろを主人公としてユーモラスなタッチを加味して再開した『どろろ』ですが、視聴率は振るわず26話で終了となります。
 脚本家の辻真先先生が、令和元年7月10日発行のアニメージュのインタビューで、
《 ( 旧 ) アニメは4月から1年間放映するはずだったんですよね。だから、倒すべき魔人 ( 今回のアニメで言う鬼神 ) も48体で考えられていて。それが視聴率が振るわず半年で終わることになり、小説版も前倒しになったんです 》
と語っており、企画時は一年間の放映期間で予定されていた様子です。

 こうして旧アニメ『どろろ』は「差別用語」「百鬼丸の身体表現」「モノクロ作品」等の問題が有り「お蔵入り」も同然の状態となります。

 

 

 第3回は、その後のファン活動など、まとめたいと思います。

 

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