『どろろ』を巡る冒険或いは私的備忘録

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どろろのあゆみ【3】 虫プロの終焉

 虫プロの終焉と、その周辺

 1961年 ( 昭和36年 ) 6月に手塚治虫プロダクション動画部としてスタッフ四人で始動。その後1962年 ( 昭和37年 ) 1月に「株式会社虫プロダクション」として正式に発足。最盛期には500名以上のスタッフを擁し、日本で最初のテレビアニメ『鉄腕アトム』を始めとして、日本最初のカラー作品『ジャングル大帝』を制作、これらを含む16のテレビアニメと『千一夜物語』『クレオパトラ』『哀しみのベラドンナ』などの劇場作品、それ以外にも短編作品、PRアニメ、CF、オープニング等、数多くの作品を手がけ、テレビアニメの草分け的存在であり、当時の中核をなす大手制作プロダクションであった虫プロは『ワンサくん』を最後に12年間の活動に区切りをつけました。
 つまり、倒産によるスタジオ閉鎖です。
 

 昭和48年 ( 1973年 ) 11月6日の大手新聞各社は「虫プロついに倒産」「鉄腕アトム、劇画に敗れる」「負債四億円、手形不渡り」と大きく報じており、このニュースが世間の耳目を集めていた事が伺えます。
虫プロ」倒産の所以については様々な記事や書籍で多くの事象が語られており、興味が尽きないのですが、詳細に検証していると、このブログがその記事だけで…… 当分、殆ど、埋まりそうですので、さっくりと私見を述べさせて頂くと、
虫プロダクション」という特殊な理念を持って設立され、その為に企業としては特殊な運営形態を持つこととなった「企業」が “ 大きな時代の変化に対応しきれなかった ” 事が大きな理由の一つではないかと考えられます。
虫プロ」も企業としての存続の為、後半期からは通常の企業のような「商業ベース」を意識した運営への転換を模索していました。しかし、虫プロ構造改革を進めていた常務の穴見薫氏が1966年に急死したことにより、経営の迷走は続き、昭和48年 ( 1973年 ) 11月5日に「虫プロ」は倒産しました。
 その後、旧虫プロ労働組合が中心になって「新・虫プロダクション」が昭和52年 ( 1977年 ) 11月26日に設立されます。「新・虫プロダクション」に手塚先生は在籍されていませんでしたが、創立時に再建の支援として「旧・虫プロ」時代に制作された商業アニメーション作品の著作権が全て譲渡されました。

 

 ーで、少し『どろろ』から離れますが、

 昭和47年 ( 1972 ) に富野由悠季監督作品『海のトリトン』が放映開始となります。
 この『海のトリトン』から奇妙な現象が始まります。
 当時は、アニメ雑誌も無く、アニメファンという人たちもほぼ存在してはいませんでした。( アニメではなくテレビマンガという呼称が一般的でした )
 いろいろな名作が放映されていましたが、「テレビマンガ」は子供たちの娯楽番組というカテゴリーで捉えられており、大人の見る物ではないという認識が一般的でした。
( 一部の濃いマニアは既にいらっしゃった様ですが…… )
 その様な時期に制作された『海のトリトン』ですが、放送時から制作スタジオ・録音スタジオにファンが見学に訪れる等、積極的なファン活動が多く見られたのです。
 それ以前も制作スタジオ見学はありましたが「子供にあこがれのテレビマンガ制作現場を見せてあげる」もので、スタジオ見学に来たハイティーンの女子がうっとりと主人公の原画・セル画を眺めるような事態は『トリトン』が初めてでした。
 そして、全国にファンクラブがファン主導で設立されます。
 これらの現象は『鉄腕アトム』からテレビマンガを視聴した世代が成長し、ファンの年齢層が上がった事が理由の一つだと思いますが、何より悲劇を含んだ複雑なストーリーが従来の「テレビマンガ」を子供っぽく感じていた層に受け入れられた事と「トリトン」という悩める少年のキャラクター造型が思春期の少年少女の共感を呼び、文字通り「刺さった」と考えられます。
 こうして「キャラ萌え」の嚆矢と言って良いムーブメントが萌芽します。
 スタジオ見学、自然発生的なファンクラブ設立など、積極的に動く年齢層の高いファン誕生です。これらの流れは引き続き、その後の昭和五十年代アニメブームを牽引していく事となります。

 そして二年後の昭和49年 ( 1974 )『宇宙戦艦ヤマト』が放映開始。
 裏番組が『アルプスの少女ハイジ』であった事もあり、放映時には視聴率が振るわず、当初39話 ( 企画段階では51話 ) の予定が26話で打ち切り終了。しかしSFファンの評価は高く【星雲賞】を受賞するなど、大いに話題となりました。
 その後、再放送で評価が高まり ( 関東地域では再放送で視聴率20%台 ) 全国にファンクラブが設立され、ここでも主題歌のラジオ番組リクエスト、映画公開時のポスター貼りなど積極的に動くファンによる活動が『宇宙戦艦ヤマト』ブームを後押しします。そして、劇場版が公開される頃には邦画で初めて徹夜組が出る等、大きな盛り上がりを見せます。この劇場版『宇宙戦艦ヤマト』の興行的成功でハイティーンのアニメファン向けに再編集された劇場版テレビアニメ、新作長編アニメの制作が始まり、それを切っ掛けに長く低迷していた東映アニメ―ションも復活します。
宇宙戦艦ヤマト』の商業的な成功がアニメ制作とその周辺のみならず、アニメのマーケティングに与えた影響は大きく、この『宇宙戦艦ヤマト』以前と以降で日本のアニメは良くも悪くもある種の変容を遂げたことは否めません。メディアミックス的なマーケット展開は『宇宙戦艦ヤマト』が始まりといって良いと思います。
 また、当初漫画サークルが多かった同人誌即売会コミックマーケットはヤマトブームの後、アニメサークルが増加してきます。
 そして、本作のブームを引き継ぐ形で『銀河鉄道999』『機動戦士ガンダム』と話題作が制作されたことで、ハイティーンを中心としたアニメブームは本格的な潮流となって続いていきます。

 この頃『宇宙戦艦ヤマト』ブームで増加した、中高生を中心としたアニメファンをターゲットに「アニメージュ」「ジ・アニメ」「月刊OUT ( サブカル誌としてスタート1977年に『宇宙戦艦ヤマト』の特集を切っ掛けアニメ誌に、アニパロのOUTと呼ばれた)」「アニメディア」などのアニメ雑誌が相次いで創刊されます。
( 1978年5月に「アニメージュ」が創刊されるまでは「テレビランド」「テレビマガジン」「冒険王」と言った児童向けの「テレビマンガ」を扱う雑誌があるだけでした )
 ネット環境の無い当時、アニメ誌のお便りコーナーでサークル会員募集・ペンパル募集・自主イベントの告知など掲載されファンの交流の中心となりました。( 当時のサークル活動は今の様に個人サークルが主流ではなくFCが多い状態でした )
 また、これらのアニメ誌は、当時、黒子だったクリエイター達にスポットを当て、制作会社間での技術的・人的交流を後押しするなど、業界紙的な役割や、「アニメの歴史」「作品・作家論」「表現技法の検証」など批評・研究の場としても機能していました。

 アニメ雑誌の歴史は、購読者の人口や嗜好の変化を反映し、話題作・ヒット作となったアニメ作品がアニメブームを牽引している時期には新たな雑誌が発刊され、販売部数も増加しますが、ブームが去ると休刊・廃刊するといった淘汰のサイクルが見られます。その様なサイクルの中、インターネットが普及して以来、情報密度・速報性で劣る紙媒体であることに出版不況が拍車をかけ、厳しい状況は続いていますが、新たなニーズに合わせたアニメ雑誌 ( キャラクター専門誌やアニソンをJ-POPと捉えた専門誌など ) が発刊され、需要の掘り起こしも含めて模索は続いているようです。

 

 虫プロの倒産と、その前後のアニメのエポックメイキングな事象をまとめてみました、どろろのあゆみ④に続きます。