『どろろ』を巡る冒険或いは私的備忘録

「どろろ」を中心に「手塚作品」の記事を掲載。カテゴリーは【書籍・舞台・表現規制・どろろのあゆみ・どろろに影響を受けた作品・「神話の法則の三幕構成」で解析する「どろろ」・ブラック・ジャック、ロボトミー抗議事件・ジャングル大帝、黒人差別抗議事件】

どろろ草紙縁起絵巻

 

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 【 どろろ草紙縁起絵巻 1996年6月22日発刊 フィルムアート社 武村知子

  帯に、

手塚治虫原作、幻の怪奇TVアニメ『どろろ』― 27年後のいま、その封印をついにこじ開ける ホゲタラ・メランコリック・メタフィクション ― 480枚 》

 と、有る様に、

 独特の文体で語られる “ ホゲタラ・メランコリック・メタフィクション ” です。

 “メタフィクション ” とは、それが作話であるということを意図的、あるいは自己言及的に読者に気付かせることで、虚構と現実の関係について問題を提示する作劇法で、「劇中劇 ( 作中作 )」「作品の創作者やスタッフが作品内に出演するもの」「登場人物が作品から逸脱して動き出すもの」等があります。この『どろろ草紙縁起絵巻』は「登場人物が作品から逸脱して動き出す」に該当するでしょうか、

 本書後半には “ 原作:百鬼丸 ” “ 旧アニメ:百鬼丸 ” “ ブラックジャック ” “ 百鬼博士 ” と多数のキャラクターが登場し、脚本形式で『どろろ』に関連する作品を考察し語って ( 愚痴って? ) います。

 また、

メタフィクション」とは “ 第四障壁の突破 ” であり「フィクション」が「ノンフィクション」を「フィクション」に見立てる表現方法。転じて、読者 ( 観客 ) を巻き込んで言及する皮肉・婉曲表現を言う、ー 書いていてなんだか混乱しますが、

 この「第四障壁」で隔てられた “ 現実 ” と “ 作品世界 ” は、お互いに影響を与えることが出来ない関係ですが、作中でフィクション側から現実への干渉が演出手法として行われることがあり、このような演出を「第四の壁を破る」と呼称します。( 例えば、登場人物・演者が突然、読者・観客に話しかけるなどの演出 )  

 なので、本書は単なる「どろろ解説本」ではなく物語として機能しています。「旧アニメ・どろろ」の資料も多く掲載され、博覧強記な著者の注釈も魅力。

 メタフィクションの手法で観客を揺さぶり干渉し続けてきた寺山修司作品のような読後感も有り、読み手を選ぶ一冊だと思いますがオススメです。

 手塚先生も「メタ」的な表現形式を作品で多用していたので “ メタフィクション ” はメッセージ性の強い手塚作品を語るのに向いている手法だなあ と、再読して思いました。

 < どろろ草紙縁起絵巻、P15 - “ 百鬼丸草紙縁起 ” > より

安保闘争学園紛争の熱さめやらぬ六〇年代末の世に盥に乗って川を下った百鬼丸が、本懐とげたあかつきにぬくぬくと「出世」して国守におさまるはずもなかろうというものだが、それはそれ、御伽草紙というよりむしろ今昔物語ふうになってしまった<百鬼丸草紙>は、「こうはならなかった」百鬼丸の物語、裏百鬼であり、いわば「どうすれば二人の主人公を向かい合わせにしてやれるか」という問題を解くためにあえて引いた、いずれ不要になるはずの補助線であった。この問題をぜひとも解きたく、かつ解答はかならず「画面から背を向けて去ってゆく百鬼丸とこちらを向いて駆けているどろろとは、実は向かい合っている」というものでなければならなかった。そうでないと、桐の箱のなかで背中合わせのかれらが居心地わるげにカタコトと立てる音が次第に五山鳴動を呼んでわたしを地に打ち倒すからである。いわばこの疑似草紙は、つくりもののくせにひとを喰らおうとするこの作品、<どろろ>という化けものを退治するためのはかりごとであった 》

 と、

 武村知子氏の「どうすれば二人の主人公を向かい合わせにしてやれるか」という思いの昇華、二次創作として捉えると本書の内容はしっくりくるような気がします。

 物語の外へ旅立った “ 百鬼丸 ” への「魂呼ばい」

 そんな一冊です。