この『どろろ』という物語は「寿海」という一人の男の慈悲から始まった物語。
そんな切り口で一節、
百鬼丸の養い親である「寿海」は、
棄てられ水に流された赤子を拾う
⇓
養育する
⇓
信じて? 出発を見送る ( 刀を贈る )
上記の行動を取るのですが、養父の行動を養い子である「百鬼丸」も準えます。
簀巻きにされ水に流されかけた浮浪児 ( どろろ ) を助ける
⇓
何くれと世話をやく
⇓
信じて? (刀を手渡し ) 別れる
この物語の舞台となった乱世は、浮浪児も捨て子も珍しいものではなく、障害のある子供は出生時に流されたり、間引かれていた筈です。そんな時代に育つかどうか分からない「百鬼丸」を拾って養い育てることが出来た心情 “ 慈悲 ” を持っている男が「寿海」です。
そして、彼の養い子である「百鬼丸」も養父「寿海」の行動を準えた動きを作中で取っています。
寿海が百鬼丸を助けたことがどろろを助けることに繋がり、どろろが百鬼丸とともに旅をしたことが、この『どろろ』という物語の第二部「虐げられた百姓の蜂起」に繋がって行くー
一人の男の「慈悲」が、この物語の発端です。
また、冒険王版で追加された《 百鬼丸の奪われた身体でどろろはできている 》と言う設定は、魔神 ( =運命 ) が百鬼丸に仕掛けた誘惑で、これに応じたら百鬼丸は実父「景光」と同じになります。( 魔とは直接悪を成すのではなく、誘惑し人を堕落させるものです )
これは、作中での関門で「寿海への道」を進むのか「景光」の様になるのか、百鬼丸の選択が問われているシーンなのです。
伝説マガジン№7:手塚調査ファイル第2回での二階堂氏の御指摘、
《 あとから付加した設定は、どちらも相当に無理がある。前者は、百鬼丸とどろろとの関係に緊張感を持ち込む効果はあったが、百鬼丸が体の一部分を取り戻す度に、今度はどろろの体が少しずつ失われるはずである 》
ですが、
表層上のストーリーでは辻褄が合わなくても「人になる ( 人でなしにならない )」という本作のテーマに沿った場面で、百鬼丸の成長を描く興味深いシーンだと思います。
旧アニメが第二部から『どろろと百鬼丸』になり、冒険王で再開した第二部で百鬼丸に物語の焦点が移動した為と思われますが、それに沿って上記のエピソード ( 百鬼丸の成長の関門 ) とライバル「賽の目の三郎太」が追加されています。
打ち切りで連載終了にならなければ、これらの設定が生きた世界線が描かれたのか?
歴史に「if」は無いので、描かれたかもしれない物語については想像力を逞しゅうするしかないのですが……
ネットで、原作の寿海は怪異が出現したからと百鬼丸を追いだしてひどい。という意見を拝見したのですが、
百鬼丸が旅に出ないと話が始まらないというのは置いといて、
むしろ、自分の育て上げた養い子が必ず百鬼に打ち勝ち帰還する、と信じて出立させることが出来た「自立した大人」が寿海と捉えていた私にはこの感想は意外でした。
信じているから手放せる、そんな慈悲の心を持った人に育てられたから、
四肢は欠損していたかもしれませんが、彼はこの作中で誰より「人間性」豊かに描かれています。彼の最後の試練がその旅路であり、その旅路が第二部の主人公どろろの旅路を照らし導く展開になったのではないかなと、時々夢想するのですけれども、
いつものことですがオチないままでごめんなさい。
子供を「手元におく、一緒にいる」こと以上に「自立させる、旅立たせる」
ことが成長には重要だと思うんですよ。
一緒にいることが依存になってしまうと成長を阻んでしまうわけですから、
まあ、旅立つことが出来るから「再会」もできるわけで、
「好きな人をずっと好きでいるためにその人から自由でいたいのさ」
は至言。