『どろろ』秋田文庫2巻 : 解説 ー 錨模様、勝手にメッセージ ー 出崎統
醍醐景光の存在のたしかさはどうだ。彼は自分が何も持っていない事をしっかりと自覚している。だけど欲望には逆らえない。その確かな「弱さ」は真実の様に僕には思えたのだ。
― 彼はこの世のものとは取り引きが出来ない。つまり、うんとプライドは高いか、あるいはうまく世渡りする術を持っていないのだ。そんな男が、自分のまだ生まれて来てない子供を差し出す。生まれて来てからでは、そんなことは痛々しくて、多分出来っこないことを知っていたからだ。
そうして、罪を犯していく。自分の心に罪を犯していく。許しがたい自分へ自ら落としていく。そして、物語は始まっていくのだ。
悲しくて、醜いけれど、それもあるんだよ ……
かも知れないよ、と。
前回「寿海」について書いたので、もう一つの物語の発端「景光」という父親についてです。『どろろ』秋田文庫2巻の出崎監督の解説が全ての様な気がするので、後は、蛇足というか、いつもの私の私見 … 「理屈と膏薬は何処にでもくっつく」です。
原作、旧アニメでも ( 舞台の新浄瑠璃『百鬼丸』・人形劇『どろろ』も )「醍醐景光」は人としての弱さをもった男として描かれています。その弱さを受け入れ、誠実に現在を生きて行けば良いのですが、景光は己の弱さや現実を受け入れることもできず、我が子を犠牲にします。ダメすぎですが、物語の外にもそのような人は多くいます。ある意味、手塚先生の描いた「醍醐景光」という虐待親 ( ハラッサー ) はとてもリアルです。
さて、PS2版ゲーム、映画、新アニメ等の「魔神に誘惑された為 ( 惑わされた=本来の状態ではなかった ) 実は悪人じゃなかった」「民、百姓の為やむなく自分の子どもを犠牲にした」、百鬼丸の「光の子」設定。
等は、
「貴種流離譚」「英雄譚=ヒーローズジャーニー」として『どろろ』という物語の一層目を成立させるためには有効な設定だと思います。しかし、その設定は『どろろ』という物語の層になっている「厚み」を削ります。
『どろろ』という物語は【 神話の法則の三幕構成で解析する『どろろ』】で書いたように表層ストーリーの神話的構造「貴種流離譚」を三層目の「反戦・反体制」テーマが裏返す、ねじれ構造を持っていて、私はこれがこの作品の胆であると思っているのですが、これらの設定を採用すると、この三層目とともに反戦・反体制のテーマも薄まります。
また、これらの設定は物語を「英雄譚=ヒーローズジャーニー」として固定する以外にも「プレイヤー・視聴者」を安心させる働きをします。( リメイク時の創作者自身が安心したいという心理もあるのでしょうか?)
その様な心理的な動きも、『どろろ』のリメイク時に、これらの設定が採用されている要因の一つではないでしょうか?
子供にとって、両親・家庭は安心できる対象・場所であるのが普通ですが、毒親育ち・被虐待児とって、家庭は「戦場」です。
いつ弾丸が飛んでくるか分からない場所。
いつもびくびくと親の顔色を伺っていなければならない「戦場」
これは、経験したことが無い方には、想像する事は出来ても、共感し辛い世界だと思います。NHKで『毒親特集』が放映されると、多くの被虐待児で有った方たちの共感の声とともに「育ててもらった親に向かって毒親とは失礼ではないか」と、お叱りの投書も多く届くそうです。また、被虐待児の方が成長し、友人・知人に意を決して悩みを打ち明けても、「気のせいでは …」「愛情が強すぎたのでは …」と窘められ、かえって気落ちするなどの話も良く聞きます。
何故そうなるのかを考えると、
これは単に自分の経験したことが無いものは想像することも、共感することも難しいという以外に、安全地帯であるはずの家庭に ( 他家であっても ) そんな惨状が存在するという事実 ( ストレス・不安感 ) に耐えられない人も多くいるからでは無いかと思います。
なので、
「お父さんは悪い人じゃなかった、魔神に誑かされていたんだ」
「民百姓の為、国の為に仕方がなかった」
は、戦場になっている家庭がある、毒親がいるという現実を見ることが辛い方には、心的ストレスなく物語を楽しめる良い設定、落とし所になっているのではないでしょうか?
でも、その設定を採用すると『どろろ』という物語の発端がひとつ無くなり、
三層目のテーマや暗喩 ( 反戦・反体制 ) は御座なりになって、
一層目の貴種流離譚・英雄譚の成立に焦点を絞ることになるので、
作劇的には楽だと思うのですが、『どろろ』という物語の持つテーマからは外れていきます。また、新アニメの様に「子供一人と国一つは釣り合わない」と、強者の倫理でハラスメント容認を言い出されると、もうそれは手塚先生の『どろろ』では無いのでは? 構成する要素とテーマが削られ過ぎて? と思うんですよね、私は。
また、景光と寿海の着物の柄が作中で被っていて、
寿海が医師になる以前に侍であった事を匂わせる台詞もあるので、寿海さんは景光父と同じ家中にいたのかな? その家の家紋かな? とか、醍醐の領地でこの様な柄が流行っているのかな? と、思ったのですが、 … 物語終盤、景光の文様に縁取りがあるように見えて、私の気のせいかもしれませんが、この文様はあれに似ています。
ナチスドイツの「鉄十字」
装飾的なギリシャ十字にも見えますが、この文様をシャープにしてみると何となく形状が似ているような気がします。寿海も景光も侍、侍が着ている着物に「鉄十字」?
軍人であった二人の男がこの柄を着ている。
侍をストレートに現代の職種で考えると「職業軍人・官僚」ですから、そう考えると面白い文様です。
まぁ、偶然、この様な文様になっただけで、特に意味は無いのかもしれません。序盤の文様は十字ではありませんし …
しかし、この物語を描いているのが「手塚治虫」その人であることを考えると、ついつい、アレコレ推理してしまいますね。
さて、
景光が百鬼丸の「影 ( シャドウ )」であり、最後に対峙する敵であることは【 神話の法則の三幕構成で解析する『どろろ』】で書きましたが、この物語の景光という男の「コインの裏」は寿海です。虐待して子供の生を奪う親と、慈悲の心で慈しみ育て、手放し成長を促す親、という構図です。
また、物語の外にも意外な比較対象が有って「景光」の裏と言っていいキャラクターが、「目玉おやじ」
そう、『ゲゲゲの鬼太郎』のお父さんです。
有名なキャラクターで説明も今更なので省きます。
( 鬼太郎を育てたのは水木さんと水木さんのお母さんだけども … )
病で身体が崩れて目玉だけになりながら鬼太郎を育てて?いる彼が見守るための「目」だけになっているのが象徴的だと思うのですが、
目玉のお父さんの場合は、
親が身体を失う → 子供は生きながらえる ( 生を得る )
醍醐景光の場合は、
親が栄誉、富を得る ( ために ) → 子供は犠牲となって生 ( 身 体 ) を失う
と、きれいにひっくり返った構造になっています。
洋の東西を問わず、昔話にも多い物語構造で、お金・土地や名誉を手放すが子供 ( 子宝 ) を得る。その反対に栄誉や富に執着した為、子や妻など暖かい関係性を失い、結果として没落する。などの物語構造です。
後者は、大体、最後に己の欲心で破滅するんですよね。