『どろろ』を巡る冒険或いは私的備忘録

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悪書追放運動 その2

『悪書追放運動』は表現規制に向けて民間団体が主導した様に見える運動であるが、常に政府も動いており、総理府の付属機関『中央青少年問題協議会 ( 中青協 )』は1954年7月に『青少年に有害な出版物映画対策専門委員会』を設置している。これには、朝日新聞社論説委員:伊藤昇氏が委員長となり、大学教員・評論家、法務省刑事局付検事:勝尾鐐三氏、警視庁防犯部長・養老絢雄氏らも委員として参加していた。前回の “ 悪書追放運動・その1 ” で述べたが、「養老絢雄氏」は『朝日新聞』で不良出版物の取締まりを主張し、コメントを寄せていた「警視庁防犯部長」その人である。

 その後、1955年5月に中青協は『青少年に有害な出版物、映画等対策について』という答申を発表。答申内で《 戦後十年を経過した今日、言論、出版その他表現の自由に名をかりて青少年に有害な出版物、映画等が社会に氾濫し、心身ともに未発達な青少年の人格形成に悪影響を与えていることは看過できない事実である 》と、述べつつも《 現在の状況では、業者の自粛と国民の自覚に期待することとして、( 中 略 )『特別立法』はさしあたり必要ないものと認める 》と、『青少年健全育成法』のような法規制には慎重な意見を付した。

 

 出版・新聞、放送などの業界団体で構成される「マスコミ倫理懇談会全国協議会」の事務局長だった中村泰次氏は『青少年条例:清水英夫・秋吉健司編、三省堂 -青少年条例の歴史- 出版規制を中心に』の中で《 取締当局側の特別立法を急務とする主張と民間出身者のこの種立法は検閲制度の復活であるとの主張が対立、激しいやりとりの結果として上記のような答申に収まった 》と解説している。これは、出版業者の自粛が積極的に動き出したと認められた背景とともに、この “ 激しいやりとり ” が『特別立法』はさしあたり必要ないとの答申におさまった事情の一つだろうか?

 【 この時期の出版業界、自主規制の動き 】

 1954年1月、日本出版協会が『不良出版物対策特別委員会』を設置。悪書追放・良書普及の運動を各方面に呼びかけ、機関紙『日本図書新聞』に児童雑誌の実態を記事にして発表。

 日本出版団体連合会は臨時代表者会を3月末に開催、同会内に『倫理化運動対策委員会』をおくことを決定。5月23日には《 いたづらに低俗なる欲求や興味に媚びて文化を害する出版物は、われわれが組織する関連団体に属さない業者の心なき所産ではあるが、われわれもまた、自らの文化的良心に従い自粛し、不良出版物絶滅に努力を傾注したい 》という趣旨の声明書を発表。

 これらの動きに呼応して、取次業者の団体である出版取次懇話会は『悪書追放委員会』を設置。ゾッキ本屋が多く参加していた全国出版物卸商協同組合は《 発行責任者とその所在不明なものは一切取扱わない 》と宣言。

 

 GHQの占領が終了した1950年に入って、政府・民間団体・マスコミの主導による不良出版物排斥の流れがあり、それを受けて出版業界自らも機関紙『日本読書新聞』で「児童雑誌の実態」と言う特集を組み、赤本ブームで沸いていた児童マンガに対して『マンガ批判』を行った。その結果、悪書追放運動に拍車がかかり、更に運動が広がりを見せ、排斥の対象が大人向けの大衆雑誌から児童マンガにも拡大した形であろうか?  

『悪書追放運動』も、もともとは大人が「悪書 ( カストリ雑誌など )」を家庭に持ち込み、子供同士が回し読みして教育上よろしくない、という理由から運動の対象は大人向けの「性雑誌」であったのだが、1955年前後から「マンガ」批判へ矛先が変化している。これは『貸本』についても言えることで、もともとは『貸本』は「誰が触ったか分からない本を子供同士が回し読みしているのは問題がある」と、衛生上の問題が母親たちの間で取り沙汰されていたのが発端である。その後、内容・ストーリーへの批判が増加。『貸本』には当時人気が高かった『劇画』が多く掲載されており、その内容が「暴行・障害・殺人など人権を軽視している」と批判の対象になった。1950年代後半から60年代前半にかけて『貸本劇画』も受難の時代であり、各地で排斥運動が起こっていた。この流れで貸本屋は衰退するが、少年マガジンは『貸本』で人気が高かった「水木しげる」「楳図かずお」「さいとうたかを」を起用して部数を伸ばし、劇画ブームが到来した。

 

 1955年、国は『青少年健全育成法案』の制定を見送り。しかし、中青協は1955年10月『青少年に有害な出版物、映画等の排除に関する条例についての参考意見』を各都道府県に送付し、これが『青少年条例』の制定を後押しする形となった。

  1959年、文部省が『図書選定制度』を構想。文部大臣が「健全な青少年の育成に寄与すると認められる」図書を選定するという構想で、1959年4月に『青少年の読書指導のための資料等の作成に関する規程』という省令を出し、同日『図書選定申請要領」』という告示を発した。   

 しかし、5月の総会で書籍協会が全会一致で反対声明を発表。「図書の選定は国家の行政機関が行うべきではなく、言論出版統制につながりかねない」との総会決議声明を出した。図書館・子どもを守る会なども反対したため、文部省は書籍協会との話し合いの結果、図書選定制度を『図書目録制度』と変更して9月30日に目録第一集が発行されたが、目録に登載された41冊のうち、登載意志の無い書籍協会の書籍が20冊含まれていたことから、書籍協会・関係出版社は無断登載された図書の削除を要求。しかし、翌年3月には第二集が発行された。この時は無断登載された図書の著者や出版社編集部が抗議文をだすという事態に発展する。こうした激しい反発から、文部省は第三集以降の目録を出すことが出来ず、制度は頓挫することとなった。

  また、1959年に貸本屋の団体である「山梨読書普及協会」が甲府警察署少年課と協力して貸本漫画の実態調査を施行し、その結果、問題の漫画を店頭から排除。特に問題があるとされたのが『顔』『街』などの劇画誌で、白土三平氏の『忍者武芸帳』も排除の対象となった。その後1963年には同じ甲府で、新刊書店による有害雑誌排除の動きが見られ、1963年10月3日付『朝日新聞』は「有害雑誌締出し、甲府の本屋さん 青少年への影響考えて 発送中止申し入れ 東京の四販売会社へ」と報じた。山梨県青少年対策本部 ( 県知事が本部長 ) が青少年に有害な雑誌を店頭から締め出すための協力を甲府書籍雑誌商組合に呼びかけ、組合は対象とされた雑誌の販売を中止し、取次に送本を止めるように要請。これにより書店主導の悪書追放運動が始まる。

 その後、全国組織の日本出版物小売業組合全国連合会 ( 小売全連のちの日書連 ) も不良雑誌の排除に乗り出し、青少年に有害と認められる不良出版物の販売は拒否することを決定、不良出版物として二十一種の週・月刊誌を選定した。

『1963年10月29日付 読売新聞 “ 不良雑誌 売りません 本屋さん七千軒が取り扱い拒否決議 ”』《 リストを下部組織である各都道府県の組合に送り、組合員である各書店がそれらの雑誌の仕入れ、販売を拒否するよう強く指導するほか、出版側には内容の自粛を求め、また出版物の取り次ぎ会社にはこれらの不良出版物の取り扱い中止を要請するという 》また、同日の『読売新聞』は「静岡県書店組合」の動向についても報じている。《 同組合は昨年一月一日県青少年環境整備条例が施行されたのをきっかけに県教委とも連絡をとり “ 有害図書 ” は店頭陳列を遠慮するよう指示してきた 》

 これらの記事で、書店による悪書追放運動は青少年条例の制定と常にリンクしていた様子が伺える。

 その後も書店主導の悪書追放運動は各都道府県で継続。これらの動きに「言論の自由を侵す」と県議会などで反対論も挙がった ( 神奈川県 ) が、青少年条例を利用した「官民一体の悪書追放運動」は、その後も全国に波及していく事になる。