『どろろ』を巡る冒険或いは私的備忘録

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悪書追放運動 その3

【東京都青少年条例制定をめぐる動き ( 1960年代~ )】

  1963年10月、台東区中学校PTA連合会から東京都議会に「少年の目に映る、誇張された性的、犯罪的社会悪を助長するような映画、その他娯楽施設の悪どい宣伝文、看板等が公然と社会の中に、ほうり出されている現在、どうしても行政の措置をまたざるを得ない。また、全国的に見て二十数府県にわたって、青少年の保護条例が設置されているという状況から見ても、この条例が如何に強く望まれているかが明確なのである」と、訴えた誓願が条例制定の契機であった。

 こうして、戦後の「悪書追放」運動の活発化とともに、東京都にも「青少年条例」制定の動きが浮上してくる事となる。さらに「東京母の会連合会」は、都知事・警視総監への陳情も行った。

出版労連の三十年史『出版労働者が歩いてきた道 高文研・1988年』では、「法務省警察庁治安関係者連絡会」なる組織が東京に条例制定を勧告した、となっている。また、同書は各地で不良図書追放に立ち上がった書店には警察の指示や府県のテコ入れがあったと述べ、甲府書籍組合の不良雑誌締め出しの報道と青少年条例制定の動きは「あまりにもタイミングが合っていた」という。

  これら警察・行政・報道・民間団体の相互連携が伺える記事から、当時の「悪書追放運動」が如何に苛烈なものであったかを伺い知ることが出来る。

 

 こうして、官民一体となった「東京都青少年条例制定」の動きにたいして、書籍協会の「出版の自由と責任に関する委員会」は1963年11月5日の会議で『東京都の青少年条例は「中央立法」につながるおそれがあり、絶対に制定を排除しなければならない』、として対策を進めることになった。そして「書籍協会」の呼びかけに呼応した「雑誌協会」「取次協会」「小売全連」を含む四団体が組織する「出版倫理協議会 ( 出倫協 )」が12月21日に発足。『われわれ出版四業者団体は、近来青少年の非行化に関連して起こった低俗出版物の追放問題に対処するため、ここに「出版倫理協議会」を結成し、それぞれにおいて従来の倫理活動を持続すると共に、さらに相たずさえて適切な対策を推進することにした ( 後 略 )』と声明を発表した。

 これらの動きのなか、都議会に提出された誓願は、同年11月の「都議会総務首都整備委員会」で採択。12月に知事が「青少年問題協議会」に条例制定の可否を諮問し、青少協は1964年の4月まで協議を行った。反対意見、消極意見も多く、条例制定には慎重な姿勢が望ましいとされながらも、最終的には「有害出版物排除の措置」を求める答申が都知事に提出された。

 

 しかし、これらの動きにより反対運動も活発化する。

 出倫協による青少協委員への陳情は「少数業者による、一部の出版物のうちに、低俗出版物があり、これらについて規制措置が問題化していることは、業者としては遺憾に思っている。これら一部僅少の出版物を規制するための措置が、全般の言論出版の自由に累を及ぼさないよう良識ある判断を懇願する」「自主規制で必ず目的は達し得るから、委せてほしい」と、当初は法的規制をやめてほしいという懇願の色合いが強かったが、条例の制定案が明確になり始めるとともに、書籍協会は「絶対反対」、東京都書店組合も「法規制に関してはあくまで反対しその削除を要求する」と、強く反対の意思を表明した。

  また、1964年1月25日には《 青少年の保護のための条例は、言論、出版、思想の自由を侵し、憲法違反につながるもので、こどもの人権をふみにじるものであるからこれを制定しないように 》と強い文言で「子供を守る文化会議実行委員会」から陳情があった。都議会に制定案が提出された6月になると反対運動はさらに盛り上がりを見せ、何度も数百人規模の陳情があったという。法律家団体、女性団体、あるいは児童文学者や研究者団体、マスコミ関連労組、教職員組合などが連名した4月3日付の「二五団体共同意見書」には悪書追放運動で活躍した「日本子どもを守る会」も名を連ねており、都議会の聴聞会で条例制定に反対を訴えた。

 そして出版業界も含むこれら団体の厳しい反対・抗議活動の中、条例は可決、成立し、10月1日からの施行が決定した。新聞各紙には『強行採決』と見出しが躍ったが「修正案で条例が骨抜きになった」とも報じられている。朝日新聞は7月29日付の社説で『( 条例は ) 気休めにすぎないとしても、気休めを必要とするのが、現在の青少年問題の実態である』と報じた。

  翌年1965年には出倫協が「不健全図書」指定に連動して帯紙措置を導入。

出版倫理協議会 ( 日本出版取次協会日本書籍出版協会日本雑誌協会・日本書店商業組合の四団体で構成 ) による自主規制の一つ。東京都青少年健全育成審議会において、連続3回または年通算5回「不健全」指定を受けた雑誌類に対し、次の号から「18歳未満の方々には販売できません」という帯紙をつけるよう通知するというもの。帯紙をつけない雑誌は取次で扱われず、たとえ帯紙がついていても販売店から注文がない限り送品されない。

  1966年には、

 ・佐藤首相が出席して「青少年育成国民会議」発足。

 ・出倫協、「要注意取り扱い誌」の公表を開始。

 ・母の会・警察署の連携で都内各所に『白いポスト』が設置。

※『朝日新聞1966年5月25日付・悪書、家へ持込まないで、追放に「白いポスト」お目見え』と記事が掲載。「二十四日、東京の国電巣鴨駅出札口に高さ一メートルほどの「白いポスト」がすえ付けられた。子どもに見せたくない雑誌や本はこのポストに」と、家庭への性雑誌持ち込みを抑止する目的で設置されたポストで、都内では巣鴨駅に設置されたのを皮切りに警視庁少年一課が東京母の会連合会と協力して都内の主な駅四十四ケ所に取り付けることとなった。Wikipediaによると1963年に尼崎市で、ドラム缶を白く塗り、有害図書を入れるように設置されたのが最初と見られている。

  東京都の青少年条例の制定後、千葉県、島根県徳島県大分県愛媛県と追随する自治体は増加、1960年代後半~1970年代には全国的に拡大され、2016年を持ってすべての都道府県で条例制定されている。こうして、青少年条例の積極活用の動きとともに「悪書追放運動」も活発化していく。

 

 しかし、この時期にはマンガ読者の年齢層も上昇し「右手に ( 朝日 ) ジャーナル、左手に ( 少年 ) マガジン」と、マンガが子どもたちだけの読み物ではなくなり、週刊少年漫画誌が大きく盛り上がりを見せていた時期でもあった。

 読者層の変化・劇画ブームとともに「性」「暴力」がマンガの中でテーマとして取り上げられるようになり、『ガロ』『COM』など作品性の高いマンガを掲載する雑誌も創刊され、マンガが発展していくとともに「子どもに悪影響」「不健全」と問題視される状況も増加し、1970年には三重県四日市市中学校校長会が『ハレンチ学園』追放を決議。その後、全国各地で次々と『アシュラ』『キッカイくん』『やけっぱちのマリア』『アポロの歌』など掲載した少年誌が有害指定される事になる。