『どろろ』を巡る冒険或いは私的備忘録

「どろろ」を中心に「手塚作品」の記事を掲載。カテゴリーは【書籍・舞台・表現規制・どろろのあゆみ・どろろに影響を受けた作品・「神話の法則の三幕構成」で解析する「どろろ」・ブラック・ジャック、ロボトミー抗議事件・ジャングル大帝、黒人差別抗議事件】

悪書追放運動 その8

手塚治虫、斯く闘えり】

『ガラスの地球を救え』 著:手塚治虫 発行:光文社

「思えば、『鉄腕アトム』を描きはじめた昭和二十六、七年ころは、ものすごい批判が教育者や父母から集中し、「日本に高速列車や高速道路なんて造れるはずがない」とか、「ロボットなんてできっこない」とか、「荒唐無稽だ」などと大いに怒られ、「手塚はデタラメを描く、子どもたちの敵だ」とまで言われたほどでした」

  昭和22年に酒井七馬氏と共著で育英出版から発行された『新寶島』、これが累計40万部(80万部とも)の大ヒットとなり、赤本マンガブームが到来。終戦直後の東京は焼け野原で物資の不足もあり、都内の大手出版社が思うように出版活動が出来ない中、『新寶島』の大ヒットで大阪・松屋町問屋街には、にわかに赤本の出版書店が建ち並び、隆盛を誇っていた。戦後のマンガ批判はこの頃から見られたが、戦前・戦中の言論統制で娯楽に飢えていた子供たちに歓迎され、赤本は飛ぶ様に売れていた。

 そして、戦後間もない、(1949年)昭和24年4月、手塚先生が発表した『拳銃天使』に児童漫画初のキスシーンが有ったことが議論を呼び、マンガ批判は過熱する。

 

『拳銃天使・講談社版全集あとがき』

「京都のPTAの会長のような人から手紙で『こんなハレンチな漫画を描く手塚という男は、子供に害毒を流す敵である』という、激しい抗議を受けた。又、共産党員と称する読者から、『売国奴、すぐ処罰すべし』という脅迫文も受け取った」

 

『ガラスの地球を救え』 手塚治虫 発行・光文社

「ぼくは、昭和二十三年でしたが、そのころ流行していたいわゆる赤本漫画 ―赤本というのは、低俗な本、という代名詞で当時マンガはすべて赤本でしたー の中に、初めてキスシーンを描いてみたのです。そのころ、マンガといえば、子どもの読むものと相場がきまっていましたから、キスシーンのマンガを見た親や教育者の反響はすさまじいものでした。新聞に非難は書かれるわ、お怒りの手紙は来るわで、とうとうぼくは亡国主義者だということになってしまいました」

 

日本読書新聞 -おそるべき児童読物- 』 1956年10月15日号付

 記事内で『虹のとりで』を取り上げ、

「この人らしい特色を出しており、一応読めるものだが、九月号で宮沢賢治の詩をもじって、盗賊たちに『雨にもまけず、風にもまけず、人にめいわくをかけ、たらふくのみ、ごちそうをたべ、おれのものはおれのもの、ひとのものもおれのもの、そういうひとに、わたしはなりたい、ギッチョンチョン』と歌わしているのは悪趣味」

 と粗探しめいた批判をされた。

 

『ライオンブックスシリーズ・複眼魔人』 1958

 作中で登場人物の“シャンハイ・ローズ”がスラックスを脱いで、椅子に座って足を組んでいる場面がいかがわしいとして糾弾された。

『ぼくはマンガ家』 発行・大和書房 著:手塚治虫

「Ⅰデパートの書籍売場には、評論家や児童文学者でつくられた良書推薦委員会のようなものがあり、ここで『悪書』の烙印を押されると、たとえ有名出版社のものでも、槍玉にあがるのだった」

 これも、『拳銃天使』のキスシーンも、微笑ましいというか、現在では何ということも無いシーンだが、「悪書追放」運動盛んであった当時は排斥の対象となり、『複眼魔人』は、Iデパートで販売禁止となる。

 

手塚治虫全史-その素顔と業績-』

 編集・手塚プロダクション 発行・秋田書店 平成10年8月10日

 コラム・担当編集者が語る手塚治虫の素顔

【吊し上げられた手塚先生 元・講談社「少女クラブ」編集長:丸山昭

「(前略) しかし、原稿取りの苦労よりも、当時の児童誌全体を震え上がらせていたのは、悪書追放運動の大嵐でした」

「1950年代も後半のことでした。「漫画は子供の思考力を阻害する」という、いわゆる「進歩的識者」の発言にPTAばかりか政府やマスコミ・警察関係の団体までが声を合わせて“俗悪マンガを載せる悪書追放”運動に発展していったのです。たしかに問題の多い漫画もあったことは事実です。しかし、それは小説や映画の世界でも状況はまったく同じなのに、児童漫画だけが槍玉に挙げられ、内容の如何を問わず漫画を載せた雑誌は全て悪書であると断罪されたのです。追及は厳しく、児童漫画を糾弾する集会が頻繁に開かれ、関係者はパネリストとして壇上に立たされました。中でも手塚先生は漫画界のリーダーと目され、矢面に立たされました。子供を迷わせる荒唐無稽な漫画を描く張本人として吊し上げられたのです」

 

『虫ん坊:手塚マンガあの日あの時・第10回:手塚マンガが悪書だった時代』

-手塚はあえて火中に飛び込んだ-

「―では当時、手塚治虫はどうしていたのか。福本さんは言う。

「手塚先生はそれはもう立派でした。誰からどんな風に批判されても、逃げるどころか自分から前へ出て行って、はっきりと意見を述べておられましたからね。PTAの集会なんかにも、つるし上げられると分かっているのに、必ず出席して壇上に上がりマンガの魅力を力説していましたよ」

 またこのころの手塚は、『冒険ダン吉』などで戦前から活躍する児童マンガの大御所・島田啓三をかつぎあげ、馬場のぼる、福井英一らとともに「児漫長屋」という、児童マンガ家だけのグループを結成している。福元さんによれば、これも単なる親睦団体ではなくて、子どもマンガの地位向上を目指して内外に発信するメッセージのひとつだったのだという。“内外”というのは、当時はマンガ家同士の間にも差別意識があって、子どもマンガ家は大人向けの社会風刺漫画を描く漫画家とくらべて一段低い存在と見られていたということだ。つまりこれは、そういった同業者に向けてのアピールでもあったというワケ

 

 手塚先生が「関西長者番付:画家の部」でトップとなり、『週刊朝日』 1954年4月11日号で「知られざる二百万長者 児童マンガ家・手塚治虫という男」と記事になり、手塚氏は人気漫画家として、マンガに興味のない世代にも注視されることになる。

 これも、先生が矢面に立たされた理由の一つだろうか、「出る杭は打たれる」、

 残念ながら、今も昔もこの辺りは変わっていない。

 

『ぼくはマンガ家』 発行・大和書房 著:手塚治虫

「“悪書追放運動”は、おもに青年向きの三流雑誌が対象だったが、やがて矛先が子供漫画、に向けられてきた。それがどうも、さっぱり要領を得ないつるし上げであった。たまたま、アメリカのジャーナリスト、A・E・カーン氏が「死のゲーム」という本を出し、日本にも紹介された。それによると、「漫画の影響は冷たい戦争の必要によく合致している。なぜならば、何百万というアメリカの子供たちを、暴力・蛮行・突発死という概念に慣らしているからである」というのだが、それは、たしかに同意できるとしても、PTAや教育者の子供漫画のいびり方は、まるで重箱の隅をせせるようなやりかたであった。

「一ページのなかにピストルが十丁、自動小銃が二丁も出てきた」

「文字がほとんどない。あるのはヤーッ、キェーッ、ドカーンといった音や、悲鳴ばかりである。これでは、読書教育上まったく有害無益である」

「絵が低俗で、色も赤っぽい。こういうものを見せられた子供は、芸術感覚が麻痺し、情操が荒廃する」

「うちの子供は、漫画の××××を読んでそのセリフを真似し、主人公になったつもりでへんな遊びをします」

「漫画は退廃的だ。追放せよ」

「漫画を子供からとりあげ、良い本を与えよう」

「漫画を出している出版社に抗議文を手渡し、漫画家に反省を求めよう」

これらの論旨は、いちいちごもっともである。だが、なにか根本的な問題の検討が欠けている。それは、現象面のさまざまな批判より、「なぜ、子供は漫画を見るのか?」という本質的な問題提起である。しかも、それは戦後、アメリカや資本主義国家だけでなく、ソ連などにも通用する傾向である」

 

 そして「東京児童漫画会」誕生。

『読売運動』1955年4月12日付

「ひろがる悪書追放運動 マンガ家も起つ 少年雑誌 十社代表と懇談」                     

「同会は十一日午後講談社秋田書店など少年児童雑誌約十社の代表者たちの出席を求め「『マンガをなくす会』を開いた。作家側からは手塚治虫、うしをそうじ(うしおそうじ)氏らの売れっ子十数人が参加、マンガ家の実情やこんごの正しいあり方について真剣な論議がくり展げられたが、こんご定期的にこうした会合を開き、悪いマンガの追放からさらに前進して明るくて魅力にとんだ児童マンガ創作へ向かってふみ出す方針をきめた」

 

『ボンバ!』 あとがき

「なによりもやりきれなかったのは、“新左翼”支持を表明する一連の漫画・劇画評論家があらわれて、無知なくせに独善的な漫画評論をやたらに発表していたことです。これらの偏狭な自称評論家が、白土三平つげ義春水木しげる氏らの仕事を袋小路に迷いこませてしまったのだと、ぼくははっきり信じています。名まえはさしひかえますが、彼らの勝手きわまる無礼な解釈のために、実力ある劇画家の何人かは、せっかく脂がのっていたのに、考えこんでかけなくなってしまいましたし、ぼく自身も一方的な中傷だらけでまったく弱りきってしまったのです」

 

 

 子ども漫画批判の渦中にあえてキスシーンを描く。永井豪先生の『ハレンチ学園』が物議を醸してPTAにパッシングされていた時期に、『やけっぱちのマリア』を描いたのも含めて、手塚先生は、あえて火中の栗を拾うというか、マンガで「戦う人」な部分も多く、マンガの地位の向上に、常に気を配って下さっていたのと併せて、私たち「漫画・アニメなどのサブカルチャー」を愛する者の恩人なんですよね。

 このブログを書くためにアレコレ調べていて、いろんな場所に先生の足跡を発見したんですけども、先生は、常に低く見られていた「マンガ」の地位向上のために様々な形で活動を行っていらっしゃって、本当に「はっ」とすることが多いです。

「マンガは愛妻、アニメーションは愛人」発言も「最後まで添い遂げる愛妻はマンガ」で、病床で「トイレのピエタ」の構想を練っていたエピソードと併せて、最後まで愛妻と添い遂げたのだなあと、思ったりします。

 

「虫ん坊・手塚マンガあの日あの時 第10回:手塚マンガが悪書だった時代」はチーフアシスタントの福元一義氏のエピソードを始め、とても良かったので、氏のエッセイとともにオススメしておきます。

 

f:id:moke3:20210531135525j:plain