「どろろ」を巡る冒険或いは私的備忘録

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ブラック・ジャック、ロボトミー抗議事件・②

《抗議事件に至るまでの背景》 

ロボトミー手術とは?】

 統合失調症など精神疾患の治療に用いた外科的手技の一種。脳の前頭葉白質の一部を切除して神経経路を切断する外科手術、前頭葉白質切截術。統合失調症双極性障害をはじめとする精神疾患をもつ重篤な患者に対する抜本的な治療方法として実施されていた。1935年にジョン・フルトンとカーライル・ヤコブセンチンパンジーにおいて前頭葉切断を行ったところ性格が穏やかになったと国際神経学会で発表。同年にポルトガル神経科医アントニオ・エガス・モニスがリスボンのサンタ・マルタ病院で外科医のペドロ・アルメイダ・リマと組んで初めて施術した。

 当初、モニスは精神病患者に反復的な思考パターンを引き起こすと思われる神経回路を遮断するため、前頭葉前皮質に高純度のエチルアルコールを注入する手術を行っていたが、後に、脳内白質を切断する専用の器具を開発し、前頭前野視床をつなぐ神経線維の束を物理的に切り離す術式となった。術後の経過にはばらつきがあったが、当時は興奮状態・幻想・自己破壊行動・暴力などの症状を抑える治療方法が他に殆ど無かったことから、広く行われるようになった。1936年にはアメリカ合衆国神経科医ウォルター・フリーマンとジェームズ・ワッツが改良を加え、1940年代には短時間に行える術式が開発され、多くの患者に施術された。ロボトミー手術を受けた患者の大部分は、緊張・興奮などの症状は軽減したが、けいれん発作・無気力・受動的・意欲の欠如・集中力低下・全般的な感情反応の低下など、多くの症状が現れた。しかし、これらの重篤な副作用は当時報じられず、長期的な影響も不明だった。その後、抗精神薬の発達とともにロボトミー手術は行われなくなる。また、ロボトミーの予測不可能で重篤な副作用、人権蹂躙批判により、精神医学でロボトミーは禁忌と見做され廃止となった。

 日本では1942年、新潟医科大学で初めて行われ、第二次世界大戦中及び戦後しばらく、統合失調症を主な対象として各地で施術された。しかし、1975年に『精神外科を否定する決議』が日本精神神経学会で可決され、それ以降は行われていない。この決議でロボトミー手術の廃止が宣言されたことから日本の精神神経科において精神疾患に対してロボトミー手術を行うことは禁忌となった。しかし、精神障害者患者会のひとつ、『全国「精神病」者集団』の声明(2002年9月1日)では「厚生省の『精神科の治療指針』(昭和42年改定)はロボトミーなどの精神外科手術を挙げており、この通知はいまだ廃止されていない」と主張されている。

 1935年        ポルトガルのモニス博士がロボトミーを発明

1938年        新潟大学ロボトミー開始

1940年代には、ロボトミーが精神病の画期的な治療法として世界中に広まる。

1947年        東京都立松沢病院東京大学医学部でロボトミー開始

1949年        モニス博士がノーベル医学賞を受賞

1950年        臺弘(うてなひろし)の研究でロボトミー(臺実験)

1950年代には、向精神薬の発達でロボトミーが下火になる。

1968年        アメリカでデルガド博士がスチモシーバーの人体実験

1969年10月    東大精医連が“赤レンガ病棟”の自主管理を開始

1970年代 最初に東大精医連が「ロボトミー」を問題視、廃絶に向けた運動を展開。

1971年3月27日 東大精医連の石川清講師が臺弘東大教授の手術を告発

1973年7月     ロボトミー被害者による「北全総合病院事件」の裁判開始

1978年9月29日 北全病院事件判決、院長と執刀医に賠償金支払い命令

 

精神病者 実験台に? 20年前の手術 石川東大講師 臺(うてな)東大教授を“告発”・朝日新聞1971年3月27日夕刊】

 東大精神科の石川講師が上司の臺東大教授を「明白な人体実験だ」と、日本精神神経学会に告発。27日東京で開催された同学会理事会で取り上げられた。この手術について、臺教授は「ロボトミーによって将来機能を喪失する運命にある部分をとったまでで、こういうことまでとやかくいわれては、医学の進歩は止まってしまう」と反論。この告発でロボトミー批判は再燃する。

 この告発から2年後の1973年5月、日本精神神経学会は総会で臺実験を「医学実験として到底容認しえないものである」と決議。1975年5月には、脳外科的な手術で精神病の回復をはかるロボトミーなど「精神外科」を否定する決議が採択された。向精神薬による治療がメインになり、ロボトミーはほとんど施術されなくなっていたが、この決議を受けてロボトミー・精神外科は「禁忌」となった。

 その後、ロボトミー手術を受けて術後の後遺障害に悩んでいた患者が各地で病院相手に訴訟を起こす事態となった。その一連の流れの中、「北全病院事件」が問題として浮上。週刊誌・大手新聞社が大きく取り上げた。

 

 【東大精神科医師連合(東大精医連)とは?】

 1968年1月の安田講堂攻防戦。学生活動家と包囲した機動隊が激しく衝突、3日間の攻防の末に安田講堂は解放、その後、紛争は沈静化し、占拠されていた教室、施設も次々解放される中、医学部の精神神経科では、同年10月に医局員が「精神神経科医局解放」を決議し、「東大精医連(東大精神科医師連合)」が結成。

 1969年10月には医学部のスト解除・授業再開に対抗して、精神神経科病棟(赤レンガ病棟)を東大精医連が占拠して自主管理。以来10年間にわたり東大精神神経科は分裂したまま東大精医連に対立する医師・大学当局を締め出した。病棟内での入院患者の治療はこの「自主管理」された病棟の中で行われていた。

 1978年サンケイ新聞が上記の事件を大きく報道、糾弾した。これにより、国会議員の調査団が派遣され、東大総長が国会に参考人招致されるなどの騒動となったが、事件が明るみになったことで和解はすすみ、1994年12月に東大精神科の診療は一本化され、東大精医連の活動は終了となった。

 【青い芝の会とは?】

 脳性マヒ者による障害者差別解消・障碍者解放闘争を目的として組織された日本の障害者団体。1960~70年代に盛んであった新左翼運動とも結びつき、神奈川県川崎市横浜市を中心に全国的に活動を展開、各地に地方組織も結成された。社会運動色の強い急進的な活動で知られ、1977年の「川崎バス闘争」で広く知られるようになった。

 1957年に東京都大田区で発足。当初は脳性マヒ者の交流や生活訓練、障害児教育などを目的としていたが、次第に社会運動色を強め、障害者の福祉・賃金などの生活問題、生活保護問題で厚生省などの官公庁、各政党への陳情や交渉を行うようになった。

 1960年代からは社会への問題提起も強め、主要メンバーが安保闘争に参加、60年代後半からは新左翼党派との結びつきも強まった。1970年代には優生保護法(現在は母体保護法)改正案反対運動、養護学校義務化反対運動なども行った。

 

 当時の、精神医療の人権意識は現在想像するよりも、はるかに立ち遅れており、前近代的なものであった。重篤な後遺症が予測できないロボトミー手術は人体実験のような側面もあり、それらへの糾弾運動が激しくなったのも、悲惨で前時代的な医療現場への批判と、人権運動の高まりとともに障害を持つ人たちが『わたしたちも人間です』と、声を上げやすくなってきた時代背景が有ったからだろう。東大精医連の医師たちは、その様な医療現場・体制への批判・異議申し立て運動とともに、患者からの相談を受けるなど過激な運動だけではない地道な活動も行っていた。

 

 【封印作品の謎-2004年10月発行・太田書店 著者:安藤健二】で、長嶋医師※は「反対運動がちょうど盛り上がっていたときに、手塚さんはロボトミーという言葉を使ってしまったんです。手塚さんに抗議してマスコミに取り上げられれば、『ロボトミーは悪い手術だ』と広くアピールできるんで、非常にタイミングがよかったというのもあったと思います。誰でも知っている漫画家の手塚治虫が間違った表現をしたということであれば、今までロボトミーを知らなかった人たちにも、その問題点をPRできるわけですから」と語っており、この様な経緯で、「東大精医連」や各団体から『ブラックジャック』への抗議がなされるのも当然の成り行きであったと言える。

 ※整形外科医、『ブラックジャック症例検討会』発起人、『ブラックジャック・ザ・カルテ・ファイナル(海拓舎)』で封印作品特集を担当するなど、幅広く活動。

 

③に続きます。