『どろろ』を巡る冒険或いは私的備忘録

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ジャングル大帝、黒人差別抗議事件・①

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【 抗議事件までの経緯 】

 1988年8月、関西在住の有田氏とその家族が「黒人差別をなくす会」を結成。一般に販売されている黒人のキャラクターグッズ・人形が「①まん丸で大きな目で、②大きく厚く誇張された唇、③ずんぐりと太った体型」に表現されており、黒人差別・偏見を助長するとして、製造元に抗議文を送付した。各メーカーは抗議を受けて販売中止の措置を取る所が多かったが、抗議活動は拡大し出版物にも及んだ。

 特に有名なのが『ちびくろサンボ』で、同書のタイトルや内容が黒人への偏見を助長するとして抗議を受け、各出版社が絶版を決定。図書館からも回収され、一部では家庭から本を集めて焚書にするという事例もあった。また、ダッコちゃんは販売停止となり、カルピスのロゴも「偏見につながる」として現行のものに変更された。
 灘本昌久氏 ( 教育学者、京都産業大学文化学部教授、差別問題・近現代史を専門に研究。 2000年から2004年まで京都部落問題研究資料センター所長 ) は、1988年にワシントンポスト紙が日本のデパートに展示された黒人のマネキンを批判したこと、そして渡辺美智雄政調会長(当時)の発言へのバッシングが、『ちびくろサンボ』問題に波及したと語った。龍崎孝氏 ( ジャーナリスト、流通経済大学スポーツ健康科学部教授、元毎日新聞記者・元TBSテレビ解説委員 ) は日米構造協議で日米が政策上の論争をおこなっていた時だったので騒動が拡大したと見解を述べている。

 また、灘本氏は「黒人差別をなくす会」の抗議を受けて『ちびくろサンボ』などの出版物・キャラクターが一斉に消えた理由を「部落解放運動がやっていた差別表現告発の運動のピークが、ちょうどこの時期だったんです。国会議員もやっていた小龍龍邦さんが、1985年ごろから10年近く、部落解放同盟の書記長をやっていて、差別表現の摘発路線を最も過激にやった時代なのです。その結果『もの言えば唇寒し』といった雰囲気が、ぱぁっと広がったとき、それを後ろ盾にしてやったのが有田さんたちの運動だったんです」と語っている。

  これらの活動を受けて、アパルトヘイトに反対する理念を掲げてきた南アフリカ共和国の政党「アフリカ民族会議」の日本駐在代表が活動への支援を表明。そのため各出版社は『ちびくろサンボ』絶版を決定したという。『ちびくろサンボ』については、各国が問題視した点に相違があり、アメリカでは主人公の名前が、インドではタイトルの原題が、アフリカではホットケーキを169枚食べた表現がダメだったという。龍崎孝氏は「それぞれの立場で考え方が違う。絶版については政治利用されてるよなあ、という思いが拭えない」と語っている。

 また、「日本アフロ・アメリカン友好協会」のメンバーであるジョン・G・ラッセル氏は【 日本人の黒人観 - 問題はちびくろサンボだけではない  ( 1991年:新評論 ) 】内で手塚作品の黒人描写には問題があるとしている。1991年、毎日新聞は11月3日 ( 手塚氏の誕生日なのは偶然?) の紙上で《 米で手塚マンガ絶版・改定要求 》と手塚マンガの黒人描写がアメリカで問題視されていると報道。また、毎日新聞・大阪版は宝塚市の記念館がオープンした4月25日の前日に同様の記事を掲載している。

 

【 黒人差別問題の発端 「黒人差別をなくす会」結成までの経緯 】

・1988年7月22日 ワシントンポストが、東京特派員の報道として《 日本で黒人差別的な人形やマネキンが流行している 》と伝えた。この時、問題とされたのがサンリオのキャラクター「サンボ・アンド・ハンナ」とヤマトマネキン製の黒人のマネキンで、これらを買い物途中に発見した記者が《 アメリカではもう姿を消したものが… 》と驚き、記事とした。

・1988年7月23日「日本人だと破産は重大に考えるが、クレジットカードが盛んなむこう ( 米国 ) の連中は、黒人だとかいっぱいいて、『うちはもう破産だ。明日から何も払わなくていい』。ケロケロケロ、アッケラカンのカーだよ……」と渡辺美智雄政調会長 ( 当時 ) が失言。この発言が米紙に大きく取り上げられ問題化。発言はすぐに撤回されたが日本大使館には多くの抗議が寄せられた。米議会の黒人議員連盟会長・ダイマリー下院議員が、竹下首相に渡辺発言と黒人キャラクターの抗議を行い、日本製品不買運動も示唆する書簡を提出した。当時、日本はバブル景気で米国との貿易摩擦が深刻化し、反日感情が高まっている時期で《 日本人が黒人差別キャラクターを商品化している 》という報道は米国内で大きく問題とされた。

・1988年7月28日 朝日新聞夕刊に【 渡辺氏『アッケラカのカー』発言 在米日本大使館に抗議殺到 】と、記事が掲載。当時、被差別部落史の学習施設「堺市立舳松資料館」に勤めていた有田氏が記事に目を留め、「黒人もぼくらもみんな同じ人間なのに、これはひどすぎる。お父さん、僕らで黒人差別をなくす会をつくろう」と息子さんの発案で「黒人差別をなくす会」を家族三人で結成。

 

 この様な流れの中で、黒人描写への抗議活動はキャラクターグッズ、企業広告から創作出版物・漫画へと拡大。1990年9月下旬、手塚作品に黒人差別を思わせる表現があるとして「黒人差別をなくす会」が手塚プロダクションと手塚作品を出版していた出版社数社に内容証明郵便を送付した。この経緯は「週刊文春:1990年10月25日号」に【 ジャングル大帝は黒人差別か 】と大きく掲載され、世間の衆目を集めることとなった。同記事によると『ジャングル大帝』内での黒人描写が「ステロタイプで差別と偏見を助長している」のだという。各社とも内容証明郵便の内容が異なっていた為、記事内の各出版社の反応は様々。

 特に問題が深刻であったのは、当時『手塚治虫漫画全集』300巻を発行、全集第四期100巻の刊行を企画していた講談社で、抗議を受けた作品は『ふしぎ旅行記』『レモン・キッド』『鳥人体系』『やけっぱちのマリア』『新寶島』『紙の砦』など21点に及ぶ。この抗議をうけて、全集第四期の刊行は一時停止となる。また、小学館も『手塚治虫初期傑作集』から5か所に問題があると指摘を受けた。

 

 手塚プロ代表・松谷孝征氏のインタビュー【 誌外戦 ( 1993年:創出版 ) 】によると、

 1990年9月に「黒人差別をなくす会」から初めて「手塚プロダクション」に抗議の手紙が届き、同時期「講談社」「小学館」「秋田書店」「角川書店」「大都社」「学研」などの出版社にも同趣旨の手紙が届く。「手塚マンガの黒人の書き方は、黒人の姿を誇張しステレオタイプ化した表現で、これは黒人に対する差別を助長するものだ、このような作品での営利行為は停止し、問題を改善するように」との内容で、具体的に作品の一部をコピーしたものも同封されており、出版社毎に内容証明郵便の内容が異なっていた。

 手紙が届いた出版社以外の手塚作品を出版している社も含めて、問題とされた箇所について、手塚プロダクションと話し合いが持たれた。

《 手塚作品が追及していたテーマやストーリーを抜きにして絵柄だけで差別だとされ、改訂、あるいは絶版というのではいまひとつ納得がいかない。だからといって、こうした絵柄に不快感を覚え、侮辱されたと感じる人がいる以上、真剣に、私たちは考えなければいけないのではないか。改訂に関しては著作者が故人になってしまったので不可能です 》《 かといって第三者が故人の作品に手を加えるというのは、著作者人格権上の問題も出てきますし、この問題を考えてゆく上で決して適切な処置とは思えない。絶版ということでは、手塚作品を継承した当社もまた出版社も日本の文化的遺産と評価されている作品を守る責務がある、等々、何度も話し合いをいたしました。一応の結論は、手塚作品を絶版にしてしまうのでなく、こういう指摘があるのだという解説文をつけて、出版を続けよう、ということでした 》【 誌外戦:創出版】松谷孝征氏インタビュー

 話し合いの内容は、10月末に「黒人差別をなくす会」へ伝えられるが、同会の返答は「認められない、解説文をつければそれでよいと思っておられるのか、解説文をつけるというならそれを見せてほしい」であったため、再び各社が話し合うとともに、手塚プロと各社間で具体的な解説文の文案を作成。たたき台を「黒人差別をなくす会」に送付、文書でのやり取りを一年間継続。

 1990年暮れの段階で手塚プロから各出版社へ「両者納得がいかないまま出版を継続するのではなく、問題とされた手塚作品については、いったん出荷停止し、協議を継続したい」と提案があり。これにより、手塚作品のかなりのものが出荷停止になり、講談社の『手塚治虫漫画全集』既刊分300巻は全巻出荷停止となる。

  手塚プロダクション側は「黒人差別をなくす会」に、直接会っての話し合いを提案したが、それは実現せず、その後も手紙のやり取りでの協議は続いた。しかし、解説文を付けての出版という提案は「黒人差別をなくす会」側が納得せず、協議は平行線のまま、1991年秋に手塚プロダクション側が「解説文をつけて出版するという方法をとります」と同会に文書で説明。1992年春頃から、出版各社が解説文をつけて出荷の再開となる。「黒人差別をなくす会」と交渉している過程で、他の個人や団体、さらに海外からも抗議の手紙が届き、その数は数十通にも及んだという。

 手塚プロダクション・松谷氏は《 抗議の手紙に対して返信はできるだけ書くようにし、断片的な一コマだけの絵をみて手塚治虫のマンガの全て判断しようとするのではなく、ぜひ作品自体を読んでほしいとお願いもした 》と、語っている。また、「日本アフロ・アメリカン友好協会」関西支部との定期的な話し合いも継続しており、抗議に対して、手塚プロダクションが真摯な対応を行っていた様子が伺える。

 

②に続きます。