『どろろ』を巡る冒険或いは私的備忘録

「どろろ」を中心に「手塚作品」の記事を掲載。カテゴリーは【書籍・舞台・表現規制・どろろのあゆみ・どろろに影響を受けた作品・「神話の法則の三幕構成」で解析する「どろろ」・ブラック・ジャック、ロボトミー抗議事件・ジャングル大帝、黒人差別抗議事件】

ジャングル大帝、黒人差別抗議事件・③

 こうして、一年間出荷停止となっていた講談社の『手塚治虫漫画全集』も “ 読者の皆様へ ” と解説文をつけて、1992年3月から出荷再開となり、他の出版社もその流れに追随する形で解説文・注釈をつけて出荷を再開した。多くの手塚漫画が絶版になる危機は回避されたが、しかし、黒人差別表現問題が根本的に解決した訳では無く、“ 黒人差別をなくす会 ” からは「認められない、解説文をつければそれでよいと思っておられるのか」と、この対応への抗議が届いた。また “ 日本アフロアメリカン友好協会 ” のジョン・G・ラッセル氏は【 日本人の黒人観-問題はちびくろサンボだけではない ( 1991年:新評論 ) 】の中で、この解説文を《 問題なのは、この注釈も、作品の中に表れている差別の存在を認識しているというよりも、むしろ、それを軽視、否定する方向に走っているということだ。つまり、手塚作品を弁解するその注釈を読んでも、彼が描いた当時の外国人」( 外国を舞台にした作品の場合、登場している原住民を「外国人」と呼ぶのも変だが ) のその姿は彼らの過去の正体であり、単にその「未開発国」の状態から現在の黒人その他の「外国人」の姿に変化してきただけである、という理屈で問題を片づけようとしているにすぎない 》と批判した。

 これらの抗議への反論としては “ マンガ記号論 ” が挙げられる。つまり、ステレオタイプにデフォルメされた黒人像は差別的な意図があってそのように描写されているのでは無く、マンガの中で記号的に表現されているのだ。という主張であり、講談社手塚治虫漫画全集の解説文もそれに依る部分がある。手塚治虫氏自身が自画像で自分の鼻をことさら大きく描いたように、対象の特徴を強調してデフォルメすることは漫画の基本的な表現技法であり、それが差別的であるということになれば似顔絵も描けないのではないか? というものである。

 この主張に対する反論は前述のジョン・G・ラッセル氏が、

《「週刊朝日」などに出る似顔絵は、あくまでも、ある実在している人物 ( 芸能人、作家、政治家など ) がもつ個人的な身体的特徴を誇張して描いたものである。つまり、その人の個性を特徴としているのである。しかし、ステレオタイプ化された人種的な描写は、個人の特徴を誇張するどころか、むしろ、ある固定化された形で、ある人種・民族に属している人々を描き、彼らの個性をなくし、消すものである ( ステレオタイプの基本は、「みんな同じように見える」ということからはじまり、自分と違うグループに所属している人間の個性、多様性を否定することにある ) 。黒人ならば、分厚い唇、ギョロ目などというふうに描かなければ、固定化された「黒人」のイメージに見えない、そのように描いてこそ「黒人らしい」ではないか、という定着のさせ方である 》

と述べている。

 また、大塚英志氏も【 創・1992年10月号 】で、

《 コミックは対象を「記号」として図形的に表現する、だから黒人の唇は厚くなってしまうが、これはいた仕方ないことだ。手塚の表現をマンガ界がそう弁明することは、実は手塚は ( そして戦後のコミックは ) 対象を「記号」として、はなから「デフォルメ」としてとらえることを前提とし、対象そのものを直接的にとらえようという努力をしてこなかった、とそのまんが表現の救い難い限界を告白しているに等しいのだ。誤解のないようにいっておくが、それが手塚の絵が、そして戦後まんがの絵が写実的かどうかというレベルの議論をしているのではない。手塚まんがが黒人の唇をぶあつく記号化した時、それが本当に「デフォルメ」であればぼくは問題がやや異なっていたように思う。

 黒人の唇をそう表現するのは手塚治虫の創意ではなく、あくまでもそれ以前に存在した定型的描写の踏襲に他ならない。手塚に先行する何人かの描き手が、対象を自らの感覚でデフォルメすることによって、記号的な絵を創造的に描いていたのに対し、手塚は「対象」をまんが的表現にデフォルメ=変換する技術について十全ではなく、デフォルメされた絵をあくまでも形式として模倣し反復していった側面が強い。

 手塚によって提出された戦後まんがは表現としては極めて明快な限界を持った形式であり、しかしその限界はまさに「まんがだから」と許容されることで当のまんが自身にとって問題としてつきつけられることなく、ここに至っている。表現としての未熟さ、杜撰さが放置されたまま肥大し、しかも描き手も読者も無垢なままにその内部にとどまり、批評を排除することでその未熟さと限界を守り続けてきた。

 なるほどコミックが、ブームといわれながらも、結局は、子供文化として、メインカルチャーに対するサブカルチャーとして、限られた世界にあるうちはそれでもよかったのかもしれない。しかし80年代の消費社会でコミックの量的な肥大は限界値に達し、しかもメインカルチャーそのものが崩壊し見えなくなるという事情もあいまって、当のまんが界は「まんが」という閉鎖的な表現空間にとどまっているつもりであっても、否応なく、まんがは社会的存在になっていくという環境の大きな変化があった。その時、閉鎖的表現空間では問題にされなかった「黒人の唇」もある種の性的表現も、外の視線から見たときには「問題」となっていく。ぼくは手塚作品に対する「黒人」差別という批判やフェミニストたちからの「性差別」批判そのものの水準が冷静に見て批判というよりは言いがかりに近いという認識を持つ。持つがしかし、その水準の低い批判に抗せるほどにまんが表現とそれに対するまんが界内部の水準が高いとも思えないのだ 》

と語っている。

 そして、竹内オサム氏は【 戦後マンガ50年史 】で、この一連の抗議事件に対して、この様に結んでいる。

《 マンガ表現は、誇張と変形がその本領であるので、何が「差別」で何が他の絵と区別するための「変形」であるのか、その点が問われている。特に戦後の日本のマンガは、コマーシャリズムに深く根を下ろし、「風刺性」よりも「可笑生」に重きをおいてきたので、対象をおもしろおかしく変形する身振りが、無意識に身についてしまっている。七〇年代後半のマンガにおけるパロディ・ブームが、社会風刺に結びつかずに遊戯性におちいったのも、こうした体質のせいであった。その点が、今回のような事件を生むベースになっているわけだ。日々使用される言葉の背後に歴史的な差別意識がはりついているように、デフォルメされた絵にも歴史的な差別意識が潜在している。それが、ひとつの型となっている場合は確かにそうだろう、手塚マンガのある部分も、そうした類型を抜け出ているとは言いがたい。だからといって、作品そのものが全否定されることには、当然なりえない。『ちびくろサンボ』事件のあとであっただけに、関係者も相当神経を使ったものと思われるが、全集などにコメントをつけて出版することになった経過は、それはそれで評価されるべきものだと、ぼくなどは思う。わけのわからぬまま、読者の前から突然作品が姿を消す。それはもっともよくないやり方であるにちがいないからだ 》

 

 

 残念ながら、30年の時を経ても、差別表現も性表現も当時より議論が深まっているとは言い難い状況が現在も続いている。

 1970年代以降、人権運動の活発化とともに黒人描写だけではなく、多くの差別的とみられる表現がクレームを受けて規制の対象となり消えていった。マスコミも出版業界も議論を深めて建設的に知識を積み上げる事よりも、個々の批判への対応に汲々とし、クレームにつながりそうな表現を先手を打って消す事ばかりに腐心している様に見える。クレームが無ければそれで良い「事勿れ主義」の風潮は今後も継続していくのだろうか?