『どろろ』を巡る冒険或いは私的備忘録

「どろろ」を中心に「手塚作品」の記事を掲載。カテゴリーは【書籍・舞台・表現規制・どろろのあゆみ・どろろに影響を受けた作品・「神話の法則の三幕構成」で解析する「どろろ」・ブラック・ジャック、ロボトミー抗議事件・ジャングル大帝、黒人差別抗議事件】

ジャングル大帝、黒人差別抗議事件・⑤ 雑感まとめ

 今回、『ジャングル大帝』黒人差別表現問題について調べていたので、『ちびくろサンボ』絶版についての記事も多く拝見しました。黒人差別表現問題といえば『ちびくろサンボ』というぐらい、当初問題になったサンリオのキャラクター「サンボ&ハンナ」やヤマトマネキンよりもこちらが有名で記事も豊富です。

 その一つに【 差別っていったい何だろう 京都部落史研究所月報『こぺる』165号、1991年9月 】という記事がありました。

 京都部落史研究所の灘本氏が『ちびくろサンボ』問題をテキストに、現在の差別問題の扱われ方、差別的な表現があるとされた途端に議論もされず、何が問題の本質なのかわからないうちに、その作品や出版物が消えていく、「見ぬ物清し」的な問題解決方法に、疑問を投げかけ、本当にこれが差別問題なのか、差別の本質とは何か、これらの問題にどのように「問いをたてるのか」氏が語られた公演のまとめです。興味の有る方は【 差別っていったい何だろう 京都部落史研究所月報『こぺる』165号、1991年9月 】で、ググって御一読ください。解りやすいだけでなく、今までこの問題で何か引っかかって「もにょもにょ」していたことが腑に落ちます。

 以下、抜粋ですが、

 

ステレオタイプの克服 】

《 ある民族を思い浮かべれば、ある特定の映像のイメージというのが、喚起されますね。アメリカン・インディアンを思い浮かべれば、羽根の飾り物をつけたインディアンが思い浮かぶだろうし、エスキモーだったら、毛皮を着た、犬ぞりに乗っているような、寒いところにいるエスキモーを思い浮かべます。たとえば、弓矢を引き、犬ぞりに乗って雪の上を走っているようなエスキモーの絵を描いたとします。それがエスキモーにとって、いかなる意味を持っているかということは、絵だけからは客観的にはわかりません。エスキモーが、自分たちの文化に対して、どういう考え方、感じ方を持っているかによるわけです。たとえば、エスキモーが機械文明・工業文明に侵略されて、徹底的に文化を破壊され、お前たちの文化は、劣っているんだ、犬ぞりをひいて狩りをしているような人間は劣った人間だということを、文化的に強要されたとします。エスキモーがそれを受け入れれば、自分たち自身の生活なんていうのは、全く否定的なものとして、自分たち自身にもイメージされるわけですね。そういう状況におかれたとしますと、我々がエスキモーを思い浮かべて、犬ぞりに乗って、弓矢を引いているエスキモーの絵を描いたとしますと、それは当然、怒りの対象になってくる。「昔はどうか知らんけど、今はこんな格好はしとらへんぞ。スノーモービルに乗って、ライフル撃っとるんや」という怒り方が出てきて不思議ではありません。

ですから、ステレオ・タイプといった場合、ある民族からある特定のイメージを思い起こすということ自体が、悪いわけではなく、それにどういう価値づけを行っているかということが、問題にされなきゃいけないわけです。黒人の絵が決まりきったパターンである。唇が分厚くて、色が真っ黒で、目が大きいというのがけしからんのではなくて、それにマイナスの価値づけがされているということが、問題だと思います。かつ、黒人がそういうものをマイナスとして受け入れていることも、克服の対象とされなければなりません。ブラック・ピープルという呼ばれ方をされるのがいやな間は、黒人はどういうふうに描かれても、やっぱり、黒人にとって、いやな描かれ方だろうと思います 》

【 被差別者の被差別感情 】

《 自分が何か不快だというふうに思った時に、「不快だからけしからん」とは結論づけられないということです。例えば、「エタ」という字を全部消してしまいたいというような感情に襲われているとしたら、その人自身の中に、克服すべき課題が山積みしているということを指摘できると思います。「エタ」という言葉が嫌いで、それに墨でも塗りたいと思っている部落出身者がいたとします。その友人は、この部落民に対してどういうことを言うべきか。一緒に本から文字を消すのを手伝ってあげるのが、本当の友人であるのか。あるいは、彼の、彼女の話をよく聞いて、言うべきことは言うのが、本当の友人であるかは、よく考える必要があることです。

繰り返しになりますが、「差別語問題」を考えるとき、言葉はでなく、言葉に含まれている差別的内容のみを問題にするべきであるというのが、ぼくの考えです。言葉だけを切り取って論じるということは不毛であって、その言葉をはさんでいる人間関係を検討し論じるべきと思います。これは「言うは易し、行うは難し」ですけれども、そう問題をたてるべきなんです 》

 

ちびくろサンボ』も、発表当初から1960年代までは黒人のイメージを良くする良書として扱われていました。1930年代後半から1940年代に、黒人のステレオタイプ化された描写に対する抗議が起こりますが、この時期のサンボは他の否定的な書籍と比較して「幸福な黒人」を描いた良書・推薦図書として扱われています。しかし、次第に『ちびくろサンボ』は問題のある図書として取り扱われるようになります。

 その批判の一つが、

 ジェシ・バーサ《 もし、この種の話が黒人と白人の両方がいるお話の時間や教室で読まれることがあれば、黒人の生徒たちにいやな思いをさせ、さらには劣等感までいだかせるようにようになる。なぜなら、白人のクラスメートが黒人の友人を見てニヤニヤし、サンボと呼んでいじめるからだ。ある本がどんなに面白かろうと、一部の人々の気持ちを踏みにじってまで、その本を楽しむ権利は誰にもないのである 》という、「この作品で ( 教室・学校内の ) 差別がつつき出されるのではないか」という批判。

 これは、筒井康隆先生の短編『無人警察』が “ 日本てんかん協会 ” に、作中に出てくる「てんかん」という言葉の扱われ方が差別を助長するとして抗議された事件 ( 1993年 ) と似ています。後に、“ 筒井康隆断筆宣言 ” にまで発展した差別表現への抗議事件ですが、これも、筒井先生に差別的な意図があって「てんかん」という脳疾患の名称が作中で使用されたとは思えません。

 この抗議事件の発端は「高校教科書に掲載された」ことで「隠されていた差別がつつき出される」ことが問題の一つとされた点など、『ちびくろサンボ』への抗議・批判と類似していると思います。つまり、その小説が授業で使用された時に、クラスに「てんかん」患者の生徒がいたらどう思うか? が問題とされたのです。

 これは、上記のエスキモーの例のように「言葉」が問題なのではなく、

《 ステレオ・タイプといった場合、ある民族からある特定のイメージを思い起こすということ自体が、悪いわけではなく、それにどういう価値づけを行っているかということが、問題にされなきゃいけないわけです 》と、灘本氏が語ったように、「サンボ」も「てんかん」も言葉や作品を問題として、それらを消して行けば良い、ものではなく、その言葉を使っている人が「どの様な価値づけを行って、どのような場面で使用しているか」が問われなくてはいけないのだと思います。

 クラスメイトをからかうために、「サンボ」「てんかん」などの言葉に差別的な意味を含ませて使用している人に問題があるのであって、問題とされる言葉や表現を作品から消しても、その様な人たちは新しいスラングを考え出して隠れてハラスメントを行うでしょうし、根本的な解決にはなりません。これは “ 性表現 ” にもいえることで、性的な漫画や創作物が悪いわけではなく、ハラスメントをする人の心の問題だと思います。

 また『蘭学事始』の現代文でも、差別的とされた言葉・文字が消去されています。杉田玄白たちが「骨が原」の「青茶婆」の腑分けを見学、穢多の老人が数々の腑分けを行い人体の構造を熟知・精通していることに驚愕し、医学者として恥じ入っている場面で「穢多」「老屠」などの言葉は「丈夫な老人」「こういう人たち」に変更されています。( 岩波書店から1984年に『蘭学事始・現代文』が発行されているので、時代背景を考えると腰が引けてしまった理由も分かるのですが※ )「穢多」という言葉は差別的な言葉で現在では殆ど目にすることもありませんが、このような「歴史」まで遡って改変してはアカンのではなかろうか( 小並感 ) と思います。

 結局、過激な抗議活動は、表現者・創作活動だけでなく、様々な問題の検証・議論も畏縮させて、被差別者の方たちにも益の無いことなのではないかと思います。

 

※灘本氏は「黒人差別をなくす会」の抗議を受けて『ちびくろサンボ』などの出版物・キャラクターが一斉に消えた理由を「部落解放運動がやっていた差別表現告発の運動のピークが、ちょうどこの時期だったんです。国会議員もやっていた小龍龍邦さんが、1985年ごろから10年近く、部落解放同盟の書記長をやっていて、差別表現の摘発路線を最も過激にやった時代なのです。その結果『もの言えば唇寒し』といった雰囲気が、ぱぁっと広がった」と、語っており、1980年代半ば、創作物への差別表現抗議が多岐に渡って、厳しく行われていたことが、『解体新書・現代文』などの歴史的な著作物からも「穢多」などの言葉が消された原因のひとつではないか? と思います。

 

 最後に、これはLGBT差別の問題ですが、

【 封印漫画大全 著:坂茂樹 発行:三才ブックス 】で、紹介されていた『オカマ白書』というオカマをネタにしたギャグ漫画への抗議事件。

 1991年に同性愛者に対する偏見が描かれているとして小学館に “ 動くゲイとレズビアンの会 ” から抗議があり、3巻の発売が白紙となりますが、復刊に向けて小学館は協議を続け、同団体は指摘した箇所を削除しても、絶版にしても根本的な解決にはならないとして、判断を出版社に委ね、同書は1997年に復刊。この様に差別表現を当事者間で協議を重ね、安易に謝罪・絶版としなかった例もあります。

 

 私見ではありますが、今後も、抗議 ⇒ 謝罪 ⇒ 削除 ( 絶版 ) の流れを続けていたら出版業界が畏縮して、創作物から性的マイノリティといわれる人たちの姿やLGBT問題が消えてしまう。しかし、性的マイノリティへの理解が深まったわけでも、社会からLGBT問題が無くなったわけでもなく、ただ、クレーム・抗議が来ないように消しただけで、その結果、議論の余地すらなくなることの不毛さに “ 動くゲイとレズビアンの会 ” が気づいて下さったのではないかと思います。

 創作物の差別表現問題は性差別・LGBT問題と裾野は広がり、今後も無くならない問題ですが、《 わけのわからぬまま、読者の前から突然作品が姿を消す。それはもっともよくないやり方であるにちがいないからだ 》と竹内オサム氏が語ったように、安易に作品を消すのではなく、真摯に議論を重ねて、経験と知識を積み重ねていくことが、今後も大切だと思います。

 

 

 今年のオリンピックで民族衣装で入場された選手がいらっしゃいました。「腰ミノ」「黒い肌」で上半身裸のステレオタイプが悪いと消すのではなく、誇らしく胸を張って民族衣装を着ることが出来るようにする事が素敵なんだと思います( 小並感 ) 。