「どろろ」を巡る冒険或いは私的備忘録

「どろろ」を中心に「手塚作品」の記事を掲載。カテゴリーは【書籍・舞台・表現規制・どろろのあゆみ・どろろに影響を受けた作品・「神話の法則の三幕構成」で解析する「どろろ」】

ジャングル大帝、黒人差別抗議事件・③

 こうして、一年間出荷停止となっていた講談社の『手塚治虫漫画全集』も“読者の皆様へ”と解説文をつけて、1992年3月から出荷再開となり、他の出版社もその流れに追随する形で解説文・注釈をつけて出荷を再開した。多くの手塚漫画が絶版になる危機は回避されたが、しかし、黒人差別表現問題が根本的に解決した訳では無く、“黒人差別をなくす会”からは「認められない、解説文をつければそれでよいと思っておられるのか」と、この対応への抗議が届いた。また“日本アフロアメリカン友好協会”のジョン・G・ラッセル氏は【日本人の黒人観-問題はちびくろサンボだけではない-(1991年:新評論)】の中で、この解説文を『問題なのは、この注釈も、作品の中に表れている差別の存在を認識しているというよりも、むしろ、それを軽視、否定する方向に走っているということだ。つまり、手塚作品を弁解するその注釈を読んでも、彼が描いた当時の外国人」(外国を舞台にした作品の場合、登場している原住民を「外国人」と呼ぶのも変だが)のその姿は彼らの過去の正体であり、単にその「未開発国」の状態から現在の黒人その他の「外国人」の姿に変化してきただけである、という理屈で問題を片づけようとしているにすぎない』と批判した。

 これらの抗議への反論としては“マンガ記号論”が挙げられる。つまり、ステレオタイプにデフォルメされた黒人像は差別的な意図があってそのように描写されているのでは無く、マンガの中で記号的に表現されているのだ。という主張であり、講談社手塚治虫漫画全集の解説文もそれに依る部分がある。手塚治虫氏自身が自画像で自分の鼻をことさら大きく描いたように、対象の特徴を強調してデフォルメすることは漫画の基本的な表現技法であり、それが差別的であるということになれば似顔絵も描けないのではないか? というものである。

 この主張に対する反論は前述のジョン・G・ラッセル氏が、

『「週刊朝日」などに出る似顔絵は、あくまでも、ある実在している人物(芸能人、作家、政治家など)がもつ個人的な身体的特徴を誇張して描いたものである。つまり、その人の個性を特徴としているのである。しかし、ステレオタイプ化された人種的な描写は、個人の特徴を誇張するどころか、むしろ、ある固定化された形で、ある人種・民族に属している人々を描き、彼らの個性をなくし、消すものである(ステレオタイプの基本は、「みんな同じように見える」ということからはじまり、自分と違うグループに所属している人間の個性、多様性を否定することにある)。黒人ならば、分厚い唇、ギョロ目などというふうに描かなければ、固定化された「黒人」のイメージに見えない、そのように描いてこそ「黒人らしい」ではないか、という定着のさせ方である』

と述べている。

 また、大塚秀志氏も【創・1992年10月号】で、

『コミックは対象を「記号」として図形的に表現する、だから黒人の唇は厚くなってしまうが、これはいた仕方ないことだ。手塚の表現をマンガ界がそう弁明することは、実は手塚は(そして戦後のコミックは)対象を「記号」として、はなから「デフォルメ」としてとらえることを前提とし、対象そのものを直接的にとらえようという努力をしてこなかった、とそのまんが表現の救い難い限界を告白しているに等しいのだ。誤解のないようにいっておくが、それが手塚の絵が、そして戦後まんがの絵が写実的かどうかというレベルの議論をしているのではない。手塚まんがが黒人の唇をぶあつく記号化した時、それが本当に「デフォルメ」であればぼくは問題がやや異なっていたように思う。

 黒人の唇をそう表現するのは手塚治虫の創意ではなく、あくまでもそれ以前に存在した定型的描写の踏襲に他ならない。手塚に先行する何人かの描き手が、対象を自らの感覚でデフォルメすることによって、記号的な絵を創造的に描いていたのに対し、手塚は「対象」をまんが的表現にデフォルメ=変換する技術について十全ではなく、デフォルメされた絵をあくまでも形式として模倣し反復していった側面が強い。

 手塚によって提出された戦後まんがは表現としては極めて明快な限界を持った形式であり、しかしその限界はまさに「まんがだから」と許容されることで当のまんが自身にとって問題としてつきつけられることなく、ここに至っている。表現としての未熟さ、杜撰さが放置されたまま肥大し、しかも描き手も読者も無垢なままにその内部にとどまり、批評を排除することでその未熟さと限界を守り続けてきた。

 なるほどコミックが、ブームといわれながらも、結局は、子供文化として、メインカルチャーに対するサブカルチャーとして、限られた世界にあるうちはそれでもよかったのかもしれない。しかし80年代の消費社会でコミックの量的な肥大は限界値に達し、しかもメインカルチャーそのものが崩壊し見えなくなるという事情もあいまって、当のまんが界は「まんが」という閉鎖的な表現空間にとどまっているつもりであっても、否応なく、まんがは社会的存在になっていくという環境の大きな変化があった。その時、閉鎖的表現空間では問題にされなかった「黒人の唇」もある種の性的表現も、外の視線から見たときには「問題」となっていく。ぼくは手塚作品に対する「黒人」差別という批判やフェミニストたちからの「性差別」批判そのものの水準が冷静に見て批判というよりは言いがかりに近いという認識を持つ。持つがしかし、その水準の低い批判に抗せるほどにまんが表現とそれに対するまんが界内部の水準が高いとも思えないのだ』

と語っている。

 そして、竹内オサム氏は【戦後マンガ50年史】で、この一連の抗議事件に対して、この様に結んでいる。

『マンガ表現は、誇張と変形がその本領であるので、何が「差別」で何が他の絵と区別するための「変形」であるのか、その点が問われている。特に戦後の日本のマンガは、コマーシャリズムに深く根を下ろし、「風刺性」よりも「可笑生」に重きをおいてきたので、対象をおもしろおかしく変形する身振りが、無意識に身についてしまっている。七〇年代後半のマンガにおけるパロディ・ブームが、社会風刺に結びつかずに遊戯性におちいったのも、こうした体質のせいであった。その点が、今回のような事件を生むベースになっているわけだ。日々使用される言葉の背後に歴史的な差別意識がはりついているように、デフォルメされた絵にも歴史的な差別意識が潜在している。それが、ひとつの型となっている場合は確かにそうだろう、手塚マンガのある部分も、そうした類型を抜け出ているとは言いがたい。だからといって、作品そのものが全否定されることには、当然なりえない。『ちびくろサンボ』事件のあとであっただけに、関係者も相当神経を使ったものと思われるが、全集などにコメントをつけて出版することになった経過は、それはそれで評価されるべきものだと、ぼくなどは思う。わけのわからぬまま、読者の前から突然作品が姿を消す。それはもっともよくないやり方であるにちがいないからだ』

 

 

 残念ながら、30年の時を経ても、差別表現も性表現も当時より議論が深まっているとは言い難い状況が現在も続いている。

 1970年代以降、人権運動の高まりとともに黒人描写だけではなく、多くの差別的とみられる表現が批判・抗議を受けて自主規制の対象となった。マスコミも出版業界も具体的な議論を深めて有効な判断材料となる知識を積み重ねる事よりも、個々の批判・クレームに対応することに焦点を当てて、クレームにつながりそうな表現を先手を打って消すことに汲汲としているように見える。お叱りがなければそれで良い「臭いものにフタ」の風潮は今後も継続していくのだろうか?

『どろろ』は妖怪マンガか? 【妖怪の理、妖怪の檻】

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【妖怪の理、妖怪の檻・京極夏彦著 角川書店、2007】

―本当はみんな知っている。“妖怪”とはなんなのか。

『知っているようで、何だかよくわからない存在、妖怪。それはいつ、どうやってこの世に現れたのだろう。妖怪について深く愉しく考察し、ついに辿り着いた答えとは。全ての妖怪好きに贈る、画期的妖怪解体新書』

 私たちが普段何気無く使っている“妖怪”という言葉の成立・概念について、博覧強記な著者・京極夏彦氏が、学術・伝承・美術・マンガなどサブカルチャーから民俗学鳥山石燕、井上圓了、江馬務、藤澤衛彦、柳田國男水木しげる好美のぼる、大伴昌司と、多彩に引用し“妖怪”という不確実で不定形なモノを縦横無尽に解き明かす、“妖怪”好きにはおすすめの一冊です。

  本書の構成は、

・妖怪という言葉について

 妖怪という言葉の歴史的変遷

・妖怪のなりたちについて

 現代の妖怪概念はどのように形成されたのか?

・妖怪のかたちについて

 特に、現代における“妖怪のかたち”、デザイン・キャラクター化に水木しげる氏の果たした役割は大きく、その影響と功績について詳細に語られている部分は“妖怪好き”必読。書肆一覧と妖怪年表も詳細で、文庫化され入手しやすくなっているので興味の有る方は是非、

 

【妖怪の理、妖怪の檻・P250】

『漫画の神様とまで謂われる手塚治虫にも「どろろ」(1967-1968)という傑作漫画があります。『どろろ』にも“妖怪”はたくさん登場します。さすがは手塚治虫、江戸の化け物絵などから材を採り、オリジナルながらも本物の“妖怪”を装った、いかにもなフォルムのキャラクターが登場しています。

 ただ、それでも『どろろ』はどこか“妖怪”漫画らしくない佇まいなのは、やはり作者である手塚の顔が透けてしまうこと―― テーマ性、ドラマ性が前面に押し出されていること―― 手塚作品として完結してしまっていることに由来するのでしょう。『どろろ』は手塚作品としては申し分のないでき栄えではあるのです。しかし、作者である手塚治虫は現代人です。登場する“妖怪”が、その手塚の作家性を色濃く感じさせる「手塚キャラ」であった場合、それはどうしたって前近代的ではあり得ない、ということになります。

 また、隙のない物語性は、時に作品から通俗性を剥奪してしまう場合があるのです。

 

C・妖怪は「通俗的」である。

という条件を満たすうえで、『どろろ』の物語は上手くでき過ぎているわけです。

 崇高なテーマや高尚な芸術性、カッコ良さといったものは、あまり“妖怪”と相性の良くないもののようです。水木作品の場合は「そうしたものを感じさせないようにする」という逆向きの計算が―― 作品を外に開く周到な配慮が―― なされているわけです。さらに、『どろろ』の場合、作品の舞台が戦国時代だということも考慮するべき事柄なのかもしれません。その時代に“妖怪”はいません。時代設定は戦国、デザインは江戸、概念は近代という取り合わせは、やはりちぐはぐな印象をもたらします。精密な設計で成り立っている手塚漫画において、読者は通俗的“妖怪”概念を排除せざるを得なくなるのです。

 また、戦国時代を舞台にしたせいで、

 

B・妖怪は「民俗学」と関りがある。

という条件も満たされにくくなってしまいます。

 歴史学ならともかく、民俗学は戦国時代を直接的には扱いません。加えて、いうまでもなく古過ぎる時代設定はノスタルジーを抱かせるのに相応しいものではないのです』

 

 

どろろ』は中世日本を舞台とした妖怪マンガ、だというのが、一般的な認識だと思うのですが、京極夏彦氏が語っているように、「どこか“妖怪”漫画らしくない佇まい」だと感じた読者も、私の様に少なからず存在したのではないかと思います。

 

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【アニメーションに挑戦した「どろろ」 豊田有恒

どろろ」はすぐれた伝奇文学である。

『伝奇文学という点では、「どろろ」は、もっとも早く発表されている(昭和四十二年、少年サンデー誌上)。小説のほうでは、伝奇SFが、SFのひとつのジャンルとして定着してくるのは、半村良の「石の血脈」が発表されてからであり、「どろろ」からは数年おくれている。

 小説とマンガが並行して存在し、相互に情報交換があるところが、SF界の特徴であるが、「どろろ」が現れた時点では、日本の伝奇SFは、まだ、その芽生えもなかった。国枝史郎など一時代まえの作家が、ゴシック・ロマン風に書いた伝奇小説と、現在、半村良、荒巻雅夫、山田正紀、などの作家が、SFマインドで書いている伝奇SFとは、あきらかに断絶がある。伝奇文学を系統づけるためには、小説のメディアばかりを追っていては、この断絶の説明がつかない。「どろろ」は、あきらかにこの両者の間に位置づけられるものである。奔放なイマジネーションに支えられた手塚マンガは、ここでひとつの転換点を迎えたのかもしれない』

 

  秋田文庫『どろろ』のあとがきでSF作家・豊田有恒先生が指摘している様に「伝奇SFマンガ」という性質も『どろろ』にはあり、和製サイボーグ・ミュータントとして描かれた“百鬼丸”をはじめとする、その「伝奇(時代劇)SF」のテイストが物語の大きな土台の一つになっていて、これが「妖怪マンガらしく無く」見える要因の一つだと思います。手塚マンガの「転換点」であり、実験的な作品としての側面も強かった『どろろ』は、妖怪“鵺”のようにいろんなテーマや要素を内包して、切り口・視点の変化で、千変万化の色彩を魅せる、感興尽きぬ作品であり、それらが、ほぼ破綻なく、ひとつの“成長物語”として成立しているところに手塚先生の非凡な力量が表れていると思います。

 

 

…なので、リメイク時に視点を絞ろうとすると“ズレ”が生じ違和感の原因になってしまうのも、止むを得ないんですね。アイデアやテーマの流用が、むしろ違和感なく『どろろ』らしさを感じられるのはその様なコトなのか、と改めて合点してみたり、

ジャングル大帝、黒人差別抗議事件・②

封印作品の闇 -悲しい熱帯・ジャングル黒べえー 著者:安藤健二】で、当時「黒人差別をなくす会」の抗議を受けて、講談社手塚プロダクションが、どのような対応をしていたのか? が、詳細に語られていたのでご紹介します。

 

《元講談社法務部長・西尾秀和氏※、インタビュー》

(※なくす会の抗議を受けて出荷停止になっていた「手塚治虫漫画全集」を、解説文をつけて再出荷決定した当時の担当者。映倫の「青少年映画審議会」委員。『差別表現の検証:講談社』著者)

「手塚作品に抗議を受けた当初は、有田さんのバックに部落解放同盟がついているんじゃないかという錯覚を持っていたことは確かです。『ここで逆らったり、喧嘩をしたりすれば部落解放同盟がストレートに出てきて収拾がつかなくなるんじゃないか』と思っていました。それは講談社に限らず、どこの出版社もそうだったと思います。『週刊文春』に“親子三人でやっている”という記事が出る前くらいまでは、何者かわからなかったですよ。(部落解放運動が盛んな)関西で反差別運動をやってるんだから、解放同盟と無関係なわけはないだろう、と思っていました」

 1991年4月、部落解放同盟書記の坂本信義氏が立ち合い人となり、部落解放同盟大阪本部、会議室で講談社と有田氏の三時間の話し合いを行うが、議論は平行線のまま物別れに、

「当事者同士だと客観性を欠くから、解放同盟に立会人になってほしいと頼んだんです。解放同盟は話を聞いてるだけで、あくまでも有田さんとのやり取りでした。ただ私たちが最初に考えていたこととは逆に、解放同盟のほうは有田さんを遠ざけていました。反差別運動をやるんだったら自分たちと一緒に組めばいいのに単独ではね上がってやっている人、みたいな印象を持っていたようです。解放同盟は一切バックアップしていなかったんです。ただ、それは有田さんと会ったり、僕らがいろいろ調べていってわかったことです。抗議があった当時はそうしたことがわからないから、出版界全体に『「なくす会」は解放同盟とつながってるんじゃないか』という錯覚がありました。各社の自主回収には、そうした錯覚がかなり影響していますよ。ただ、それは出版社の自主的な判断です。有田さん自身は解放同盟がバックにいるとかいうことは全然におわせていない。僕らが勝手に、人権運動団体ということで、そういう憶測をしてしまったということです」

  出版界は、海外からのパッシング、1970年代~80年代の部落解放同盟の激しい糾弾運動の影に脅え、対策を急いだというのが実情の様で、1988年に各社が『ちびくろサンボ』を絶版にした時期に講談社も絶版を決定している。

「まだ法務部長になったばかりで、右も左もわからなかった。それで抗議文が来た。小学館など各社が回収絶版するというのを聞いて、『うちだけ頑張れないだろう、右にならえせざるをえない』ということで、恥ずかしながら絶版回収にしました。正直にいうと、僕の中でも『議論しなきゃダメだ』って認識がまだなかった。ただ、今から思えば、明らかに過剰な反応でしたね。そのときの反省で、手塚治虫作品に抗議を受けたときに『あれを繰り返しちゃいけない』と思ったんです」

 このとき、手塚作品を絶版にするか否かで講談社内では激しいやり取りがあった。

「議論もしないで闇雲に回収するのはまずい、と。なんとか出す方法がないかと社内で話し合いました。今だから言うけど、講談社の役員は『回収するしかないだろう』って言ったんです。それで僕は『ちょっと待ってください。回収するのは簡単だけど、手塚治虫みたいに日本を代表する漫画家の作品をそう簡単に回収絶版にしていいんですか。もうちょっと出す方法をかんがえましょうよ』という言い方で粘って……。 結論的には注釈をつける方法で出すことになりました。注釈文の素案を僕が作って、それを手塚プロ社長の松谷孝征さんにチェックしてもらいました。それで出したら各社とも同じような文章を載せるようになった。うちのがもとになったんです」

「もし役員の『回収するしかないだろう』って言葉に従っていれば、今ごろ各社の手塚作品は消えてましたよ。それは大げさな話じゃなくてね。『ちびくろサンボ』が一斉に絶版なったのと同じだよ。それと同じ倫理がはたらくと思いますよ」

 多くの手塚作品が絶版となる危機を迎えていた。

 

 1970年代~80年代は人権意識が遅れており、様々な差別が今より明確に感じられる時代であった。1960年代~70年代の学生運動安保闘争を経て、大衆の異議申し立て運動は活発化していたが、学生運動安保闘争は下火になっており、それらの運動は差別反対を推進力とした、より大きな社会運動に移行していく。その後、人権意識の高まりとともにそれら人権の問題も充分とは言い難いが改善が見られる様になってきた。

 その様な時代の流れの中で、1980年代以降はメディア上の差別表現問題が浮上してきた時代だったのだろう。「差別表現がある」と思われる作品を槍玉に挙げるのは解かり易い構図であり、大手新聞誌や週刊誌が大きく取り上げてくれるキャッチーな問題でもあったのだろう。また、マンガが常に槍玉に挙げられた「叩きやすい」出版物であったのも関係がありそうだ。

ジャングル大帝、黒人差別抗議事件・①

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【抗議事件までの経緯】

 1988年8月、関西在住の有田氏とその家族が「黒人差別をなくす会」を結成。一般に販売されている黒人のキャラクターグッズ・人形が「①まん丸で大きな目で、②大きく厚く誇張された唇、③ずんぐりと太った体型」に表現されており、黒人差別・偏見を助長するとして、製造元に抗議文を送付した。各メーカーは抗議を受けて販売中止の措置を取る所が多かったが、抗議活動は拡大し出版物にも及んだ。

 特に有名なのが『ちびくろサンボ』で、同書のタイトルや内容が黒人への偏見を助長するとして抗議を受け、各出版社が絶版を決定。図書館からも回収され、一部では家庭から本を集めて焚書にするという事例もあった。また、ダッコちゃんは販売停止となり、カルピスのロゴも「偏見につながる」として現行のものに変更された。
 灘本昌久氏(教育学者、京都産業大学文化学部教授、差別問題・近現代史を専門に研究。 2000年から2004年まで京都部落問題研究資料センター所長)は、1988年にワシントンポスト紙が日本のデパートに展示された黒人のマネキンを批判したこと、そして渡辺美智雄政調会長(当時)の発言へのバッシングが、『ちびくろサンボ』問題に波及したと語った。龍崎孝氏(ジャーナリスト、流通経済大学スポーツ健康科学部教授、元毎日新聞記者・元TBSテレビ解説委員)は日米構造協議で日米が政策上の論争をおこなっていた時だったので騒動が拡大したと見解を述べている。

 また、灘本氏は「黒人差別をなくす会」の抗議を受けて『ちびくろサンボ』などの出版物・キャラクターが一斉に消えた理由を「部落解放運動がやっていた差別表現告発の運動のピークが、ちょうどこの時期だったんです。国会議員もやっていた小龍龍邦さんが、1985年ごろから10年近く、部落解放同盟の書記長をやっていて、差別表現の摘発路線を最も過激にやった時代なのです。その結果『もの言えば唇寒し』といった雰囲気が、ぱぁっと広がったとき、それを後ろ盾にしてやったのが有田さんたちの運動だったんです」と語っている。

  これらの活動を受けて、アパルトヘイトに反対する理念を掲げてきた南アフリカ共和国の政党「アフリカ民族会議」の日本駐在代表が、活動への支援を表明。そのため各出版社は『ちびくろサンボ』絶版を決定したという。『ちびくろサンボ』については、各国が問題視した点に相違があり、アメリカでは主人公の名前が、インドではタイトルの原題が、アフリカではホットケーキを169枚食べた表現がダメだったという。龍崎孝氏は「それぞれの立場で考え方が違う。絶版については政治利用されてるよなあ、という思いが拭えない」と語った。

 また、「日本アフロ・アメリカン友好協会」のメンバーであるジョン・G・ラッセル氏は『日本人の黒人観-問題はちびくろサンボだけではない-(1991年:新評論)』内で手塚作品の黒人描写には問題があるとしている。1991年、毎日新聞は11月3日(手塚氏の誕生日なのは偶然?)の紙上で「米で手塚マンガ絶版・改定要求」と手塚マンガの黒人描写がアメリカで問題視されていると報道。また、毎日新聞・大阪版は宝塚市の記念館がオープンした4月25日の前日に同様の記事を掲載している。

 

【黒人差別問題の発端・「黒人差別をなくす会」結成までの経緯】

・1988年7月22日 ワシントンポストが、東京特派員の報道として「日本で黒人差別的な人形やマネキンが流行している」と伝えた。この時、問題とされたのがサンリオのキャラクター「サンボ・アンド・ハンナ」とヤマトマネキン製の黒人のマネキンで、これらを買い物途中に発見した記者が「アメリカではもう姿を消したものが…」と驚き、記事とした。

・1988年7月23日「日本人だと破産は重大に考えるが、クレジットカードが盛んなむこう(米国)の連中は、黒人だとかいっぱいいて、『うちはもう破産だ。明日から何も払わなくていい』。ケロケロケロ、アッケラカンのカーだよ……」と渡辺美智雄政調会長(当時)が失言。この発言が米紙に大きく取り上げられ、問題化。発言はすぐに撤回されたが日本大使館には多くの抗議が寄せられた。米議会の黒人議員連盟会長・ダイマリー下院議員が、竹下首相に渡辺発言と黒人キャラクターの抗議を行い、日本製品不買運動も示唆する書簡を提出した。当時、日本はバブル景気で米国との貿易摩擦が深刻化し、反日感情が高まっている時期で、「日本人が黒人差別キャラクターを商品化している」という報道は米国内で大きく問題とされた。

・1988年7月28日 朝日新聞夕刊に【渡辺氏『アッケラカのカー』発言 在米日本大使館に抗議殺到】と、記事が掲載。当時、被差別部落史の学習施設「堺市立舳松資料館」に勤めていた有田氏が記事に目を留め、「黒人もぼくらもみんな同じ人間なのに、これはひどすぎる。お父さん、僕らで黒人差別をなくす会をつくろう」と息子さんの発案で「黒人差別をなくす会」を家族三人で結成。

 

 この様な流れの中で、黒人描写への抗議活動はキャラクターグッズ、企業広告から創作出版物・漫画へと拡大。1990年9月下旬、手塚作品に黒人差別を思わせる表現があるとして「黒人差別をなくす会」が手塚プロダクションと手塚作品を出版していた出版社数社に内容証明郵便を送付した。この経緯は「週刊文春:1990年10月25日号」に『ジャングル大帝は黒人差別か』と大きく掲載され、世間の衆目を集めることとなった。同記事によると「ジャングル大帝」内での黒人描写が「ステロタイプで差別と偏見を助長している」のだという。各社とも内容証明郵便の内容が異なっていた為、記事内の各出版社の反応は様々。

 特に問題が深刻であったのは、当時『手塚治虫漫画全集』300巻を発行、全集第四期100巻の刊行を企画していた講談社で、抗議を受けた作品は「ふしぎ旅行記」「レモン・キッド」「鳥人体系」「やけっぱちのマリア」「新寶島」「紙の砦」など21点に及ぶ。この抗議をうけて、全集第四期の刊行は一時停止となる。また、小学館も『手塚治虫初期傑作集』から5か所に問題があると指摘を受けた。

 

 手塚プロ代表・松谷孝征氏のインタビュー【誌外戦(1993年:創出版)】によると、

 1990年9月に「黒人差別をなくす会」から初めて「手塚プロダクション」に抗議の手紙が届き、同時期「講談社」「小学館」「秋田書店」「角川書店」「大都社」「学研」などの出版社にも同趣旨の手紙が届く。「手塚マンガの黒人の書き方は、黒人の姿を誇張しステレオタイプ化した表現で、これは黒人に対する差別を助長するものだ、このような作品での営利行為は停止し、問題を改善するように」との内容で、具体的に作品の一部をコピーしたものも同封されており、出版社毎に内容証明郵便の内容が異なっていた。

 手紙が届いた出版社以外の手塚作品を出版している社も含めて、問題とされた箇所について、手塚プロダクションと話し合いが持たれた。「手塚作品が追及していたテーマやストーリーを抜きにして絵柄だけで差別だとされ、改訂、あるいは絶版というのではいまひとつ納得がいかない。だからといって、こうした絵柄に不快感を覚え、侮辱されたと感じる人がいる以上、真剣に、私たちは考えなければいけないのではないか。改訂に関しては著作者が故人になってしまったので不可能です」「かといって第三者が故人の作品に手を加えるというのは、著作者人格権上の問題も出てきますし、この問題を考えてゆく上で決して適切な処置とは思えない。絶版ということでは、手塚作品を継承した当社もまた出版社も日本の文化的遺産と評価されている作品を守る責務がある、等々、何度も話し合いをいたしました。一応の結論は、手塚作品を絶版にしてしまうのでなく、こういう指摘があるのだという解説文をつけて、出版を続けよう、ということでした」

 話し合いの内容は、10月末に「黒人差別をなくす会」へ伝えられるが、同会の返答は「認められない、解説文をつければそれでよいと思っておられるのか、解説文をつけるというならそれを見せてほしい」であったため、再び各社が話し合うとともに、手塚プロと各社間で具体的な解説文の文案を作成。たたき台を「黒人差別をなくす会」に送付、文書でのやり取りを一年間継続。

 1990年暮れの段階で手塚プロから各出版社へ、「両者納得がいかないまま出版を継続するのではなく、問題とされた手塚作品については、いったん出荷停止し、協議を継続したい」と提案があり。これにより、手塚作品のかなりのものが出荷停止になり、講談社の『手塚治虫漫画全集』既刊分300巻は全巻出荷停止となる。

  手塚プロダクション側は「黒人差別をなくす会」に、直接会っての話し合いを提案したが、それは実現せず、その後も手紙のやり取りでの協議は続いた。しかし、解説文を付けての出版という提案は「黒人差別をなくす会」側が納得せず、協議は平行線のまま、1991年秋に手塚プロダクション側が「解説文をつけて出版するという方法をとります」と同会に文書で説明。1992年春頃から、出版各社が解説文をつけて出荷の再開となる。「黒人差別をなくす会」と交渉している過程で、他の個人や団体、さらに海外からも抗議の手紙が届き、その数は数十通にも及んだという。

 手塚プロダクション・松谷氏は、「抗議の手紙に対して返信はできるだけ書くようにし、断片的な一コマだけの絵をみて手塚治虫のマンガの全て判断しようとするのではなく、ぜひ作品自体を読んでほしいとお願いもした」と、語っている。また、「日本アフロ・アメリカン友好協会」関西支部との定期的な話し合いも継続しており、抗議に対して、手塚プロダクションが真摯な対応を行っていた様子が伺える。

 

②に続きます。

ブラック・ジャック、ロボトミー抗議事件・④

封印作品の謎 -禁じられたオペ- 著者:安藤健二】より、

 《手塚プロダクション:松谷孝征社長、インタビュー》

― 二作品が未収録となっている理由はなんでしょうか?

「生前、手塚治虫は単行本収録作品は自分で選んでいました。ですから、残った作品がなぜ収録されなかったのか、その理由ははっきりしません。アシスタントが『面白くない』と言ったことがきっかけになった場合もあるそうですが、何かしら本人にとって気になることがあったのかもしれません。でも、なぜかは定かではありません。中には、問題があって描き直して収録したものもあります」

― ロボトミーの件で抗議を受けたこととは関係ありませんか?

「『ある監督の記録』のロボトミー手術のことですね。たしかに省かれている作品に脳外科の関係がありますね。でも、そういうこともあるかもしれませんが、それは推測で、今となってはわかりません……」

― 手塚先生と、その辺の話をされたことは?

「残念ながらありません。担当者は若干あるようです。特に『ブラック・ジャック』は三〇年前の作品ですから、手塚が亡くなるまでの間に、何度も形を変えて単行本化されてますので、本人がそのつど選んでいました。私との間では、なぜ省かれたのかというやり取りはほとんどなかったですね。前述したように、周りの人が面白くないと言って躊躇したというのは実際あったようですが」

― 「ある監督の記録」については改作されたうえで掲載していますね。

「そうですね。当時、本人も完全にロボトミー手術を誤解していたと言っています。ですから、その部分を問題のないよう変更して描き直されています。描いているときに、もう少し時間があればきちんと調べて描くのでしょうが、いつものごとく、明日の朝一番で原稿を渡さなければいけないという状況でしたから。でもそれが後に、大変に大きな問題だと指摘され、ご迷惑をおかけするという結果になってしまったわけです。もっとも手塚の場合、改作はこの問題だけに限りませんが……」

― でも、封印されていた作品の一部は最近では文庫などに再収録されていますよね。

「僕個人としては反対しているんですよ。『何も手塚が省いたものを追加収録する必要はないんじゃないか?』って。だけど、頻繁に編集者や読者からの要望の声があったものですから、何度か打ち合わせをしました。そして一度見直してみようということになったんです。そこで、単行本化するとき、担当していた人たちに話を聞いて当時の情報を収集したり、作品をみんなで読み返し話し合い、そして判断したわけです。もし手塚が生きていれば、そのまま出したのではと思えるものを拾ったつもりです」

ー では「快楽の座」や「植物人間」といった現在残されているものは……。

「本人の意思表示があったかどうかわかりませんし、難しい判断ですが、僕の立場としては、先ほども申し上げたように、何も手塚が省いた作品をあえて入れる必要はないんじゃないかと思ってます。『ブラック・ジャック』に関していえば一話一話完結した物語形式ですから、そういった作品をわざわざ入れなくても、手塚治虫が『ブラック・ジャック』に託したメッセージ、訴えたいことは十分に伝わっていると思います。二百何十話もあるんですから……。あえて収録することはないんじゃないかと思っています。それに、もし本当に興味があって読みたいと思えば、読む機会はいくらでもありますし」

 《手塚プロダクション:森晴路資料室長、インタビュー》

― 現在は未収録となっている二つの話は、ロボトミーの描写で抗議を受けたことを考慮して、収録を見送っているんでしょうか?

「そうですね、ロボトミーの件を考えてです。抗議を受けたときに僕が手塚プロにいたわけではないので詳しい状況は知りませんが、現代の医学の基準の中での、脳手術の問題はよくわからない。それで、やめたほうがいいと判断しました。こちらも専門家じゃないので、どういうのが悪いのかがわからないんですよ」

― 今後、文庫などで復活する可能性はありますか?

「それもわからないですね。現在ではとりあえず収録は見送っていますが、収録される可能性がないわけではありません。今後、専門家に相談して再検討する可能性もあるとは思います」

― やはり手塚先生が亡くなっていて内容の修正が利かないというのも大きいですか?

「それは大きいですね。ただ、今は最終的に二つになりましたけども、もっとたくさん未収録の話が残っていたんです。『できるだけ、たくさん文庫にしたい』という出版社の意向を受けて、こちらで『問題がない』と判断した話については収録することにしました」

― BJの未収録作品について、手塚先生に収録しない理由を聞いたことはありましたか?

「それはまったくないです。どうして未収録なのかという理由は、一度も聞いたことがないです。ただ、(第二〇九話の)『落下物』は、僕が手塚先生に『出来がよくないので、入れないほうがいいんじゃないですか』と言ったら、そうなりました。先生はたくさん書いて、その中からいいものを選んでいく感じでした。だから、将来はどうなったのかというのはわからないです。早くお亡くなりになったので、自分でももうちょっと長生きすると思っていたのではないでしょうか。これが未収録になるとか、後にそれで話題になるとは、本人も考えてなかったと思います」

 

 インタビューでも、はっきりとは言及されていませんが、

 やはり、「植物人間」「快楽の座」の二作品が、現在もコミックス・文庫に収録されないのは、「ある監督の記録」への各団体からの抗議事件が影響しているようです。三十年以上前の抗議事件とはいえ、手塚先生の人気漫画『ブラック・ジャック』への抗議ということで、大手新聞で大きく報道され衆目を集めていた事もあり、手塚プロダクションをはじめ出版社など関係各社への影響が今日も続いている様子が伺えます。

 また、出版社・手塚プロダクション側が、手塚先生自身の御意志を尊重されていることも二作品の封印に大きな影響を及ぼしているようです。

 

 続きます。

ブラック・ジャック、ロボトミー抗議事件・③

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 抗議記事が朝日新聞に掲載された約3週間後の1977年2月10日に、手塚プロダクション秋田書店、連名での謝罪文が大手各新聞誌に掲載された。

 

『おわび:秋田書店発行の週刊少年チャンピオン(一月一日号)に掲載された、手塚治虫作『ブラック・ジャック』第一五三話「ある監督の記録」で描かれたロボトミー手術は、人格を破壊する危険な手術であり、日本精神神経学会で禁止された手術です。このような脳性マヒ者、精神障害者に有害、かつ無益な同手術を肯定したこと。いわば人体実験として行われてきたロボトミー手術を美化し、脳性マヒ者等障害者(精神障害者身体障害者)を健全者に同化すべきものとして描き、障害者差別を助長したこと。ひいては保安処分を導入する刑法改正を肯定したこと。

 右内容により、脳性マヒ者を含む障害者の方々、及び、ご抗議を受けた「青い芝の会」等関係団体各位に、ご迷惑をおかけしたことを深く反省し、おわび申しあげます。尚今後、障害者差別をなくしていく立場で行動していく所存でございます。

 一九七七年二月一〇日  株式会社 秋田書店 手塚プロ 手塚治虫 』   

 

 謝罪内容から、ロボトミーを美化して描いた点だけで無く、障害者を健全者に同化すべき者として描いた点についても、各団体から抗議が寄せられていたことが分かる。つまり、「ロボトミーを美化している」「障害者を健全者に同化すべきものとして描いた」という二点について各団体から異議申し立てが行われたということである。

 ロボトミーを美化しているという抗議は、手塚氏本人も「作中でのロボトミー」は「頭蓋開頭術」の誤用であることを認めており、美化しているという批判は当を得ているとは言い難いと思う。しかし、もう一つの「障害者を健全者に同化すべきものとして描いた」という指摘は如何だろうか?

 

 この点については、『マンガ環境・現代風俗’93 発行:リブロポート』の【マンガと差別】で、灘本昌久氏が、

『…青い芝の会の人たちが指摘する第二の点、すなわち手塚が「障害者を健全者に同化すべき者として描」いたということが、問題の指摘としては重要である。つまり、「ブラック・ジャック」の筋書きが、障害者はかわいそうな存在で、治療することでその境遇から抜けでられると考えているというのだ。障害問題になじみのない読者には、治療することのどこがいけないかわからないかもしれないが、青い芝の会の会の存立を支える重要な思想が、この「障害」をどうとらえるかということにある。従来の障害者運動は障害を健常な状態からの欠損とみなし、治療を当然のこととしてきたが、青い芝の会は、一九七〇年以来の、親による重症身体障害者殺しに対する告発運動などを通じて、脳性マヒ者を「本来あってはならない存在」として見る見方に重大な意義申し立てをしてきた。この内容には、私自身は異論がないわけではないが、ここでは立ち入るのをやめよう。しかし、この障害者はあってはならない存在なのかという問いかけは、十分尊重に値すると思う』

『手塚の本心はこんな感じではなかっただろうか。 ー ロボトミー精神障害者の「興奮性」を除去するために、本人の意志に反して強制されるようなものであったなら私は反対だし、「ブラック・ジャック」で描こうとしている近代医学に対する批判の内容とも違背するので、「ロボトミー」という言葉の使用には今後気をつけよう。また、脳性マヒ者を治療すること自体は差別とは思わないが、一五三話では、子どもが脳性マヒであることをかわいそうな存在としてのみ扱ったことは確かだ。しかし、脳性マヒ者自身の話を聞いてみれば、「あってはならない存在」としてしか位置づけられないということがどれほど彼らの生きる上での重荷になっているか、少しはわかるようになってきたし、そうした価値観で塗り固められている今の社会にも問題が多いかもしれない。そのことをよく心にとめて、今後、自分の作品の中で、新しい障害者像をさぐっていきたい』

『実際、手塚がこんなふうに考え、行動したなら、なされた問題提起も無駄ではなかったろう。しかし、追及する側はそれではあきたらず、自分たちの土俵に引き込んで、全面降伏にもちこんだ。こういうと、抗議した人たちは「いや、自分たちはそんなことはしていない。手塚氏は、我々の指摘を了解して反省したのだ」というかもしれない。しかし、手塚が意図してもいないのに、描いてもいないのに、障害者切り捨てとしてのロボトミーを「美化」しただの、「保安処分を導入する刑法改正を肯定した」だのと並べ立てているあの反省文からは、手塚たちが心からそう思ったという実感がとうてい感じとれないのだ。そして、むしろ一連の抗議は、手塚の創作活動に否定的影響を与えたのではないだろうか』

と、述べている。

 

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  また、「月刊:障害者問題」編集長の本間康二氏は、「ブラック・ジャック」を障害者の立場から肯定的に捉えて、この様に語っている。

『このブラック・ジャックの出現は僕を大いに驚かせ、いたく感激させた。いろいろな身障者が初めて、それも前向きの形で漫画の世界に取り上げられたからである。血友病の少女が恋をしたり(サブタイトルは「血が止まらない」)、人間社会に絶望した女性が鳥になって空へ飛び去ったり(「人間鳥」)、サリドマイドの少年が舌を使って珠算大会で優勝したり(「何という舌」)する。僕は車イスや松葉杖が登場するたびにうれしくなってしまった。ドラマの中に障害者が何げなく登場するのも、今までに障害者が望んでいた事なのだ』

『それにも増して素晴らしいのは「ブラック・ジャック」に流れている安楽死否定思想である。「植物人間」では、誰もが見放してしまった患者の母親と、母親と話がしたいと希望する息子の意識をつなぎ、植物人間が生ける屍でない事を証明する。また、物語の中でしばしばドクターキリコと名乗る人物を登場させ、安楽死を遂行しようとする彼と対決させて生命の尊さを訴えている』

 

 そして、本間氏は「ブラック・ジャックロボトミー手術抗議事件」直後に、手塚治虫氏にインタビューを行っている。以下は【封印作品の謎 -禁じられたオペ- 著者:安藤健二】での、本間氏のインタビュー抜粋。

―インタビューに至る経緯、

『有名人に突撃インタビューするって企画だったんです。それで、ちょうど、「ブラック・ジャック」への抗議が話題になった後だったので、それにかこつけて取材してみたんです。手塚さんは頭の低い方でね。育ちのよさそうな方に見えましたけど、普通の人です。本当にこの人が、あの手塚先生なのかと思いましたね。トレードマークのベレー帽をかぶっているので、確かに手塚さんに間違いはないんですが』

ロボトミーに関して、

『「自分は免許は持っているけれども、医者としての実績はない。ああいう知識で描いちゃったということでお叱りを受けることになった」と、大変、謙虚におっしゃってました。その謙虚さが、こちら側としては申し訳なかったです。手塚さん自身はものすごくいい方で、そういう人を委縮させるような動きと言うのは、どうかと思いました。確かに、メディア上で権力を持っているような人たちには気をつけてもらわなきゃいけないという点はあります。しかし、行き過ぎた抗議活動というものが、自分たちの土俵まで狭めてしまうことに気がつかなくてはいけない。それは今、結果的に現れてますからね。メディアを過度に委縮させちゃっているんです。このとき抗議した人たちも、きちんと「ブラック・ジャック」を読んでなかったのではないでしょうか。生命の尊厳をうたった作品群をきちんと読んでたら、こんな抗議なんかしませんよ』

「ある監督の記録」は脳性マヒの患者を扱っていたこともあり、「青い芝の会」の抗議は「本来治る見込みのないはずの脳性マヒ患者が『ブラック・ジャック』の手術で完治するのはおかしい」というものだったという。これを受けて、手塚は『ブラック・ジャック』の中で障害者を描くことも自粛してしまっていた。「身障者の気持ちは健康体の者にはわからない」というのがその理由だった。

『それは間違っていると、はっきり伝えました。確かに障害者の気持ちは障害者にしかわかりませんが、そしたら障害者は健常者の気持ちがわからないから、健常者のことは何も描けないとなってしまう。僕は、手塚さんの描いた障害者の物語を読みたかったんです』

 

 

④に続きます。

ブラック・ジャック、ロボトミー抗議事件・②

《抗議事件に至るまでの背景》 

ロボトミー手術とは?】

 統合失調症など精神疾患の治療に用いた外科的手技の一種。脳の前頭葉白質の一部を切除して神経経路を切断する外科手術、前頭葉白質切截術。統合失調症双極性障害をはじめとする精神疾患をもつ重篤な患者に対する抜本的な治療方法として実施されていた。1935年にジョン・フルトンとカーライル・ヤコブセンチンパンジーにおいて前頭葉切断を行ったところ性格が穏やかになったと国際神経学会で発表。同年にポルトガル神経科医アントニオ・エガス・モニスがリスボンのサンタ・マルタ病院で外科医のペドロ・アルメイダ・リマと組んで初めて施術した。

 当初、モニスは精神病患者に反復的な思考パターンを引き起こすと思われる神経回路を遮断するため、前頭葉前皮質に高純度のエチルアルコールを注入する手術を行っていたが、後に、脳内白質を切断する専用の器具を開発し、前頭前野視床をつなぐ神経線維の束を物理的に切り離す術式となった。術後の経過にはばらつきがあったが、当時は興奮状態・幻想・自己破壊行動・暴力などの症状を抑える治療方法が他に殆ど無かったことから、広く行われるようになった。1936年にはアメリカ合衆国神経科医ウォルター・フリーマンとジェームズ・ワッツが改良を加え、1940年代には短時間に行える術式が開発され、多くの患者に施術された。ロボトミー手術を受けた患者の大部分は、緊張・興奮などの症状は軽減したが、けいれん発作・無気力・受動的・意欲の欠如・集中力低下・全般的な感情反応の低下など、多くの症状が現れた。しかし、これらの重篤な副作用は当時報じられず、長期的な影響も不明だった。その後、抗精神薬の発達とともにロボトミー手術は行われなくなる。また、ロボトミーの予測不可能で重篤な副作用、人権蹂躙批判により、精神医学でロボトミーは禁忌と見做され廃止となった。

 日本では1942年、新潟医科大学で初めて行われ、第二次世界大戦中及び戦後しばらく、統合失調症を主な対象として各地で施術された。しかし、1975年に『精神外科を否定する決議』が日本精神神経学会で可決され、それ以降は行われていない。この決議でロボトミー手術の廃止が宣言されたことから日本の精神神経科において精神疾患に対してロボトミー手術を行うことは禁忌となった。しかし、精神障害者患者会のひとつ、『全国「精神病」者集団』の声明(2002年9月1日)では「厚生省の『精神科の治療指針』(昭和42年改定)はロボトミーなどの精神外科手術を挙げており、この通知はいまだ廃止されていない」と主張されている。

 1935年        ポルトガルのモニス博士がロボトミーを発明

1938年        新潟大学ロボトミー開始

1940年代には、ロボトミーが精神病の画期的な治療法として世界中に広まる。

1947年        東京都立松沢病院東京大学医学部でロボトミー開始

1949年        モニス博士がノーベル医学賞を受賞

1950年        臺弘(うてなひろし)の研究でロボトミー(臺実験)

1950年代には、向精神薬の発達でロボトミーが下火になる。

1968年        アメリカでデルガド博士がスチモシーバーの人体実験

1969年10月    東大精医連が“赤レンガ病棟”の自主管理を開始

1970年代 最初に東大精医連が「ロボトミー」を問題視、廃絶に向けた運動を展開。

1971年3月27日 東大精医連の石川清講師が臺弘東大教授の手術を告発

1973年7月     ロボトミー被害者による「北全総合病院事件」の裁判開始

1978年9月29日 北全病院事件判決、院長と執刀医に賠償金支払い命令

 

精神病者 実験台に? 20年前の手術 石川東大講師 臺(うてな)東大教授を“告発”・朝日新聞1971年3月27日夕刊】

 東大精神科の石川講師が上司の臺東大教授を「明白な人体実験だ」と、日本精神神経学会に告発。27日東京で開催された同学会理事会で取り上げられた。この手術について、臺教授は「ロボトミーによって将来機能を喪失する運命にある部分をとったまでで、こういうことまでとやかくいわれては、医学の進歩は止まってしまう」と反論。この告発でロボトミー批判は再燃する。

 この告発から2年後の1973年5月、日本精神神経学会は総会で臺実験を「医学実験として到底容認しえないものである」と決議。1975年5月には、脳外科的な手術で精神病の回復をはかるロボトミーなど「精神外科」を否定する決議が採択された。向精神薬による治療がメインになり、ロボトミーはほとんど施術されなくなっていたが、この決議を受けてロボトミー・精神外科は「禁忌」となった。

 その後、ロボトミー手術を受けて術後の後遺障害に悩んでいた患者が各地で病院相手に訴訟を起こす事態となった。その一連の流れの中、「北全病院事件」が問題として浮上。週刊誌・大手新聞社が大きく取り上げた。

 

 【東大精神科医師連合(東大精医連)とは?】

 1968年1月の安田講堂攻防戦。学生活動家と包囲した機動隊が激しく衝突、3日間の攻防の末に安田講堂は解放、その後、紛争は沈静化し、占拠されていた教室、施設も次々解放される中、医学部の精神神経科では、同年10月に医局員が「精神神経科医局解放」を決議し、「東大精医連(東大精神科医師連合)」が結成。

 1969年10月には医学部のスト解除・授業再開に対抗して、精神神経科病棟(赤レンガ病棟)を東大精医連が占拠して自主管理。以来10年間にわたり東大精神神経科は分裂したまま東大精医連に対立する医師・大学当局を締め出した。病棟内での入院患者の治療はこの「自主管理」された病棟の中で行われていた。

 1978年サンケイ新聞が上記の事件を大きく報道、糾弾した。これにより、国会議員の調査団が派遣され、東大総長が国会に参考人招致されるなどの騒動となったが、事件が明るみになったことで和解はすすみ、1994年12月に東大精神科の診療は一本化され、東大精医連の活動は終了となった。

 【青い芝の会とは?】

 脳性マヒ者による障害者差別解消・障碍者解放闘争を目的として組織された日本の障害者団体。1960~70年代に盛んであった新左翼運動とも結びつき、神奈川県川崎市横浜市を中心に全国的に活動を展開、各地に地方組織も結成された。社会運動色の強い急進的な活動で知られ、1977年の「川崎バス闘争」で広く知られるようになった。

 1957年に東京都大田区で発足。当初は脳性マヒ者の交流や生活訓練、障害児教育などを目的としていたが、次第に社会運動色を強め、障害者の福祉・賃金などの生活問題、生活保護問題で厚生省などの官公庁、各政党への陳情や交渉を行うようになった。

 1960年代からは社会への問題提起も強め、主要メンバーが安保闘争に参加、60年代後半からは新左翼党派との結びつきも強まった。1970年代には優生保護法(現在は母体保護法)改正案反対運動、養護学校義務化反対運動なども行った。

 

 当時の、精神医療の人権意識は現在想像するよりも、はるかに立ち遅れており、前近代的なものであった。重篤な後遺症が予測できないロボトミー手術は人体実験のような側面もあり、それらへの糾弾運動が激しくなったのも、悲惨で前時代的な医療現場への批判と、人権運動の高まりとともに障害を持つ人たちが『わたしたちも人間です』と、声を上げやすくなってきた時代背景が有ったからだろう。東大精医連の医師たちは、その様な医療現場・体制への批判・異議申し立て運動とともに、患者からの相談を受けるなど過激な運動だけではない地道な活動も行っていた。

 

 【封印作品の謎-2004年10月発行・太田書店 著者:安藤健二】で、長嶋医師※は「反対運動がちょうど盛り上がっていたときに、手塚さんはロボトミーという言葉を使ってしまったんです。手塚さんに抗議してマスコミに取り上げられれば、『ロボトミーは悪い手術だ』と広くアピールできるんで、非常にタイミングがよかったというのもあったと思います。誰でも知っている漫画家の手塚治虫が間違った表現をしたということであれば、今までロボトミーを知らなかった人たちにも、その問題点をPRできるわけですから」と語っており、この様な経緯で、「東大精医連」や各団体から『ブラックジャック』への抗議がなされるのも当然の成り行きであったと言える。

 ※整形外科医、『ブラックジャック症例検討会』発起人、『ブラックジャック・ザ・カルテ・ファイナル(海拓舎)』で封印作品特集を担当するなど、幅広く活動。

 

③に続きます。

 

ブラック・ジャック、ロボトミー抗議事件・①

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 【手塚マンガにクレーム「ロボトミーを美化」 (朝日新聞・1977年1月17日付夕刊)】

少年マンガの第一人者といわれ、医学博士でもある手塚治虫氏の医学SFマンガが、障害者団体や支援グループから厳しい批判を受けている。問題になっているのは週刊マンガ雑誌少年チャンピオン」一月一日号に載った「ブラック・ジャック」第百五十三話「ある監督の記録」で、脳性マヒの青年を脳手術で治す場面。障害者グループは「障害者に対する偏見から、生体実験として学会でも否定されているロボトミーを美化している」という。この批判に対して、手塚氏も非を認めており、「近くなんらかの措置をとりたい」としている』

  報道によると、抗議したのは、脳性マヒの障害者による「全国青い芝の会」、ロボトミー被害者の支援団体「ロボトミーを糾弾しAさんを支援する会」などで、両会の抗議内容は、「ロボトミーには喜怒哀楽などの感情が失われるなど、深刻な後遺症があり、悲惨な結果が相次ぎ、強い批判があり、日本精神神経学会も“医療としてなされるべきではない”と決議している」「(このマンガ内で)ロボトミーを美化している」等、「支援する会」の佐久間氏は「このマンガは、こうした野蛮な生体実験を、あたかも障害者にとって福音であるかのように美化しており、障害者差別を助長するものだ」と、語っている。

 問題とされ、抗議を受けたのは、『ブラック・ジャック:第百五十三話「ある監督の記録」』

 以下は、あらすじと抗議を受けて変更された内容について、

 

【「ある監督の記録」 あらすじ】

 映画監督「野崎舞莉」が、ブラック・ジャックの家を訪問、脳性マヒである息子の手術を依頼する。野崎監督は、息子の闘病の記録映画を製作中で、その映画のラストをブラック・ジャックによる手術のシーンで、と考えていた。ブラック・ジャックは「くだらんですなぁ」と依頼を断り、気が進まない様子を見せるが、「治せるアテのない手術」として、手術料五千万円、知人の医師を助手につけることを条件に依頼を引き受ける。一般には、外科手術で治癒の見込みのない脳性マヒをブラック・ジャックは過去に手術・治療した経験があり、「脳性マヒははっきりと運動中枢の異常なんだ。現在の治療法では症状にあった治療しかしていない、だがこの中枢にロボトミーで刺激を与えれば機能が正常にもどるきっかけになる……」と、頭部に二か所の穴を開け、患者の脳に電流刺激を与えて「脳性マヒ」を治療、撮影は無事に終了する。

 後日、試写会が公開され、多くの観客から好評を得るが、日本医師連盟会長は、ブラックジャックが無免許医であることを理由に映画は公開できない失敗作だと批判。しかし、批判を予想していたブラック・ジャックは、知人の医師のみ映るように編集したもう一つのフィルムを用意しており、ブラック・ジャックは監督に映画の成功を祝福する言葉を残して会場を去る。

 抗議を受け、単行本収録時に内容は修正され、「ある監督の記録」では、監督の息子は脳性マヒという設定だったが、「フィルムは二つあった」ではデルマトミオージスに変更。手術の内容も脳外科手術から、直腸や腎臓の外科手術になった。

 

「ある監督の記録」が掲載された1976年末に、『少年チャンピオン』の出版元である秋田書店に抗議文が送付されたことが事件の発端。翌年1月23日に『全国青い芝の会』『ロボトミーを糾弾しAさんを支援する会』の二団体と『東大精医連』の代表が参加して、関係者の話し合いが行われた。手塚氏は「私が医学を学んだのは学生時代だけで、その後の医学の進歩、問題点についてはまったくといっていいほど知らない。とくにロボトミーは名前を聞いたことがある程度なのに、でたらめな作品を描いてしまい、結果的に障害者の方に迷惑をかけてしまった。 (朝日新聞・1977年1月24日付朝刊)」と謝罪。

 その後、朝日新聞をはじめとする大手新聞誌、『少年チャンピオン』に謝罪文が掲載され、単行本収録時に「ある監督の記録」の内容は変更された。この抗議事件で、手塚氏、秋田書店は各団体の厳しい糾弾に遭い、連載中止の話まで出たという。

 

『月刊障害者問題・1977年12月15日号』で、手塚氏は、

「私の学位論文は解剖であり、医者であっても開業医ではなく、病気の治し方も知らない。ロボトミーなるものも本当はロボトミーではなく、私は開けただけでロボトミーと書いてしまった」「連載をやめる話が何回か出た。医者として残すにしても、研究室に閉じこもらせるとか、治さなければその人の命があぶない、つまり救急病院のようなところの医者に設定を変えるという考えもあった」「自粛している。色々な方からお叱りを受けた。身障者の方ばかりだけでなく医者からも。漫画をやめろ、書く価値がないと。そこまでいくと言論の弾圧になるので、とにかく自粛している」と、語っている。

 また、後年「ブラック・ジャック」連載終了時にも、手塚氏が、

「まず、『ブラック・ジャック』をやめて、なぜ、『ドン・ドラキュラ』を始めたのか、そこいらへんのいきさつから申し上げましょう。 『ブラック・ジャック』は、ほんとうは、もうすこし続けてもよかったのです。しかし、多くの読者から、マンネリだ、やめてしまえ、というお叱りをいただいて、ファイトを失ってしまったわけです。それと、あまりにも制限や制約の多さに、描きようがなくなったこともあります。いつぞやのロボトミーの事件は、明らかにミスによるものでしたが、そのほかにも、いろんな団体や組織から、これを描いてはいけない、あれは描いては困る、という抗議がいろいろ来て、しまいには、ブラック・ジャックは、ただのケガをなおす救急医師みたいな立場になってしまい、病気はほとんど扱えなくなってしまったからです。抗議はおもに描かれた病気の患者さんとか、医者、肉親などからですが、中にはマンガとはいえ、でたらめを描かず真実の話を描け、などという抗議もあって、ほんとうに描きづらくなったことはたしかです。しかしブラック・ジャックは、ぼくもすきな主人公ですから、今後も、ときどき読み切りでチャンピオンに載せますから、どうぞよろしく。単行本にも、抗議のあった話以外のはなるべく全部収録したいと思います。」と、語っており、「ブラック・ジャック」の連載終了に、この抗議事件が大きく影を落としていたことは疑いようがないだろう。

 

 

《抗議事件に至るまでの背景》に続きます。

 

 

悪書追放運動 その10 【雑感まとめ】

「悪書追放運動」とは?

 

 Wikipedia、「悪書追放運動」より、

「悪書追放運動(あくしょついほううんどう)とは、ある書籍や文書を「悪書」と定義し排除しようとする運動である。 権力者による言論弾圧の一環として行われる他、言論と表現の自由が保障されている社会においても市民運動としてなされる場合もある」

「日本で「悪書追放運動」と言えば、1955年 (昭和30年)に社会問題にまで発展したマンガバッシング事件を指すことが普通である。一般的には、表現規制推進派の民間団体が主導した事件だと言われているが、実際には、表現規制に向けて政府のほうが先に動き出しており、また、警察が陰に陽に介入したり、裏から操っている面もあったので、行政、警察とマスコミ、表現規制推進派の民間団体が協同して起こしたというのが実態である」

 

 どうにも、この「悪書追放運動」は今も潜行して続いている気がしてならない。

 私が、オタクとして活動していた時期に「埼玉連続幼女殺人事件」に端を発する「オタクパッシング」が勃発、渦中にいたこともそう感じる理由に有るのだろうが、今回「悪書追放運動」を調べてみて、もうこれは戦前から現在まで、ずーっと継続している何かなのではないだろうか、と言う思いが拭い切れない。

 もともと「表現の自由」は、わが国にはなかった、戦後初めて憲法で保障されたものだ。そして、戦後GHQプレスコードは有ったものの、これは占領が終了した1949年には終了している。突然ポンと「表現の自由」はやってきたのだろう。

 

明治憲法における人権保障には「法律の留保(国民の権利を行政権によって侵すことは禁ずるが、立法権によって侵すことは認めるという原理、主として憲法学上用いられる観念)」が伴っていた。戦後、現行憲法下の基本的人権は、この意味での「法律の留保」の制限を受けていない。

 

 戦後焼け野原の中で、新人「手塚治虫」の「新寶島」が大ヒットし、赤本ブームが始まり、俄か出版書店が大阪・松屋町問屋街に建ち並んだ。焼け野原であった東京の大手出版社を尻目に、露店・駄菓子屋でも販売された赤本漫画は子供たちに受け入れられ、大量に販売・消費された。これは大衆娯楽雑誌も同じで、同様に戦後娯楽に飢えていた一般大衆に受けた。どちらもにわか出版社が粗製乱造した質の悪さは有ったものの、

 そして、戦後の復興とともに淘汰されていく。

 行政は、戦前の「国家総動員法」「出版検閲」が無くなり、出版物を取り締まる術を失うが、GHQプレスコードが終了した1949年の翌年には 「青少年条例」の制定に動き出している。PTAや母の会の運動が激化するのは1954~1955年、悪書が青少年の健全育成の妨げになる、取り締まらねばならんと、警視庁の防犯部との連携も運動の初期からあった。

 出版社・書店等業者の「品質の悪い不良書籍の淘汰・業界の自浄」という思惑と、「青少年を守るため悪書を追放」というPTA・母の会・学校関係者の思惑と、「青少年条例」の制定、特に出版社の9割がある東京都で、という行政・警視庁の思惑は、良い感じに合致したのだろう、足並みの揃い方を見ているとそう思う。

 出版社の動きは自分たちの業界を守る為であり、行政処分の先手を打って自主規制に動いている。しかし、条例の制定には強固な反対運動を展開しており、現在も条例の改正案が出る度に反対運動・異議申し立てはなされている。

 戦後、行政は、戦前有った「検閲法」などの表現を規制する法を失ってしまった、そして新たな拠り所、有体に言えば「利権」を取り戻すために影に日向に動いていた。とも、見える。利権とは金銭云々だけではなく、「取り締まる」ための法律、権力もそうだろう。

 

 さて、悪書追放運動のその後はWikipediaには下記の様に記述があるが、

「1955年(昭和30年)の悪書追放運動が焚書までエスカレートしてから、その後どのように収束していったのかを明瞭に書いた文献は見当たらず、明快に説明することは難しい。ただ、この悪書追放運動は、その後も止むことなく、1950年代の後半まで続いた」

 実際は「ハレンチ学園」のハレンチ・マンガ騒動や、残酷描写が問題となり「アシュラ」が「不良出版物」として指定されるなど、1970年代に入って、週刊少年マンガ誌が部数を伸ばすにつれて、新たな「不良(とされた)図書の排斥」がマスコミも巻き込んで起こっており、「青少年の健全な発達のため」との旗印のもと「青少年条例」の積極活用も継続している。

 この時期以降、「青少年に有害な」ものはマンガ・雑誌以外のものもずいぶんと淘汰されていった。時代の変化も有ろうが、通学路に有ったいかがわしい看板やいかがわしい本を売る自動販売機も消えていった。むろん「悪書」として絶版・販売停止になるマンガも後を絶たない。1980年代後半から1990年代にかけてのオタクパッシング・表現規制も形を変えた「悪書追放運動」の様に思える。それら騒動・運動では、毎回「青少年(子ども)の健全な発育のために」との文言が旗印の様に振り翳されているが、政府も民間団体も、本当に「子どもたちのために」動いていたのか? 疑問は尽きない。『ぼくはマンガ家』で、手塚治虫氏が「なにか根本的な問題の検討が欠けている。それは、現象面のさまざまな批判より、「なぜ、子供は漫画を見るのか?」という本質的な問題提起である」と指摘したように、主役である青少年(子ども)を置き去りにして本質的な議論からは遠ざかっている様に思える。

 

 これらの運動の後、1985年には、有害指定された図書を自動販売機で販売したとして岐阜県青少年条例違反に問われた事を販売業者が不服として、指定制度は検閲にあたり「表現の自由」を侵害するとして法廷で争ったが、1989年、最高裁が青少年条例により有害と指定された「図書」販売規制を合憲と判決している。

 この判決のあと、性的な写真集とともに自販機の販売品目であった「エロ劇画誌」も批判にさらされ急速に姿を消す。そのような書籍を自販機で売ることの是非はともかく、この判決で「合憲」とされた事の意味はきわめて重いと思う。当ブログの「悪書追放運動・その1」で取り上げた警視庁防犯部長の「その性格が十九世紀的な、いわば国家に先行する純粋に個人的な自然の権利であるとは、到底考えられない」「憲法に保障された自由を主張できる本来の出版物のラチ外にあるものとすら考えたい」と、不良出版物は出版・表現の自由が保障されなくても問題なく、その自由は制限されて当然という見解を示していた事と併せて、マンガ・アニメなどのサブカルチャーを愛するものには重い現実だと思う。

「青少年条例」の改正、表現規制の強化、今後も幾度となく「青少年の健全な発達のために」と、善良な文言を掲げて浮上してくる問題の裏に「どのような意図があるのか」を注視していきたいと思う。

 

 

 今回、いろいろ調べていて大衆娯楽雑誌を多く出版していた「講談社」さんも「悪書追放運動」時に、行政にボコボコにされていたのを知りました。「講談社」さんはコミックマーケットが急成長していた時期(1980後半~1990前半くらい?)に、「二次創作を容認はできませんが、多くの創作者のゆりかごになっている“コミックマーケット”という場との共存を講談社は考えていきたいと思います」とコミケカタログに広告を出して下さったんですよね。その頃はオタクパッシングにもめげず、「C翼」「星矢」の二次創作が華やかなりし頃で、ジャン〇編集部に「…陽一先生がかわいそう。みなさん、これ以上キャラを傷つけないでください」とか書かれていた時期でしたので… その、比較云々ではなく、「講談社、太っ腹だなぁ…」と思っていました。

黒人差別をなくす会」の「手塚漫画の黒人の描き方は差別を助長するから、このような作品での営利活動を停止してほしい」との要求に1年に渡り協議を続け、最終的に解説文を付けた形で全集の出版の継続を決定して下さったことも含めて、このようなところでアレなのですが、お礼を… 「講談社さん、ありがとうございます」  

悪書追放運動 その9

【悪書追放運動:時系列まとめ】 

 戦後の民主化によって、戦前・戦中の出版法や治安維持法などの言論統制による図書検閲は無くなり、大衆娯楽に自由化の波が押し寄せた。当時、娯楽に飢えていた人々は、雑誌・映画などの大衆娯楽を歓迎したが、同時に当時流行していたエロ・グロ・ナンセンスのカストリ雑誌・大衆向娯楽雑誌などを「悪書」として追放しようという政府・民間団体の動きも見られた。

 

1945年9月から1949年10月・GHQによる検閲。

 軍国主義的なもの(軍記物語など)、時代劇(特に「仇討ちもの」などが封建思想の賛美とみなされ厳しく規制の対象とされた) 児童絵本・マンガも対象となる。

 

※【昭和20年~30年(1945~55)頃の少年問題】「ヒロポン禍」「浮浪児問題(人身売買問題)」「俗悪映画(太陽族)問題」などがあり、20年代中頃には第一次少年非行・人身売買事件がピークになる。昭和21年に都道府県の警察部に少年課設置開始。

 

1947年 手塚治虫酒井七馬の『新寶島』発売、累計40万~80万部のヒット作となる。

 1947年末から1948年にかけて赤本マンガの出版数も増加し、毎月100~120点、多いときは150点に及ぶマンガが3万、5万という規模で出版され、戦後の児童マンガ出版を関西がリードする事となった。赤本マンガ・カストリ雑誌は戦後にわかにできた出版社がほとんどで「出版名、住所がハッキリせず本に電話番号・住所の記載がなく、責任者が常に変わっている」など、怪しい出版社も多かった。

 

1950年 岡山県で「図書による青少年の保護育成に関する条例」が制定。

 アメリカ軍の占領終了後の1950年以降、日本政府内で報道・出版の法規制が検討され「青少年育成基本法」の制定も含まれたが、マスコミの厳しい反対報道もあり断念。

 

【海外では】

 日本で「悪書追放運動」が激化する1955年の前年、1954年に「これらの不良出版物は子供たちへの悪影響がある」としてアメリカ議会で公聴会が開かれた。マッカーシーのレッド・パージ(赤狩り)が激化する流れを受けて、米国内でも不良出版物規制の気運は広がり、出版業界はコミックスコード(倫理基準)を設ける・評議会の設置など、政府の検閲を受け入れる姿勢を見せた。それ以外にもイギリスとアメリカでホラーコミックの規制法案が検討される。カナダで子供向けのコミックに対して性的なものを取り扱ったコミックを出版禁止とする法案が議会に提出される。など、出版物に対する表現規制は世界的な潮流であった。

 

1954年 警視庁が「不良出版物」の取り締まり強化に積極的な姿勢を見せる。

 同時期、赤坂少年母の会(警察の関連団体)が「三ない(見ない読まない買わない)運動」を提唱して「不良出版物」回収・焼却運動を開始。(母の会は、破棄したとしても、古書店などに回収され流通してしまう恐れがあり焼却処分にしたと説明)

 中青協が「青少年保護育成法案」の検討に着手、

 

1955年 大手新聞社・雑誌の報道も活発に、

『1955年4月12日付・読売新聞』の見出し「ひろがる悪書追放」で「悪書追放運動」という文言が初めて使用される。

「日本子どもを守る会」が復古調のマンガを批判。

※この頃には、戦前より人気の有った戦記漫画が少年誌の紙面を飾り始める。1960年代には『紫電改のタカ』『0戦はやと』など戦記物が読者である少年に人気を博していたが、1968年には『あかつき戦闘隊』の懸賞が問題となり、大きく報道され論争になる。その後、戦記漫画は衰退する。

 1950年代後半から貸本劇画の暴力・残虐表現が問題視され排斥の対象となる。

 1955年5月「青少年育成保護月間」に「東京母の会連合会」「日本子どもを守る会」「東京防犯協会連合会」「中青協」などが活発に活動を行い、運動は最高潮になる。そして、母の会連合会・会員有志が不良雑誌・マンガなど五万冊を焼き捨てる「悪書追放大会」を開いた。(この頃、手塚治虫はパネリストとして頻回にPTAの集会に参加)

  日本出版団体連合会が「不良出版物絶滅」の声明を発表。

 国は「青少年条例」の制定を後押し、

※1955年、国は『青少年健全育成法案』の制定を見送り。しかし、中青協は1955年10月『青少年に有害な出版物、映画等の排除に関する条例についての参考意見』を各都道府県に送付し、これが『青少年条例』の制定を後押しする形となった。

 

1959年 文部省が「図書選定制度」を構想、「図書目録制度」を実施するも、出版界の反対により頓挫。山梨読書普及組合が貸本劇画の排斥運動を開始。

 

1960年 警察庁が「少年警察活動要綱」を制定、これに「有害環境の排除」を明記。

 

1963年 甲府書籍商組合が「不良出版物」締め出しを宣言。

 出版物小売全連「不良出版物」排除を決議。

出版倫理協議会」発足。

「悪書追放運動」全国各地で活発化。

 

1963年10月、台東区中学校PTA連合会から東京都議会に条例制定が誓願される。

 

1964年 多くの反対の声が上がるが東京都で「青少年条例」制定。

※何度も数百人規模の「条例制定反対」の陳情があり、委員会も紛糾する中、条例は制定された。法律家団体、女性団体、あるいは児童文学者や研究者団体、マスコミ関連労組、教職員組合などが連名した4月3日付の「二五団体共同意見書」には悪書追放運動で活躍した「日本子どもを守る会」も名を連ねており、都議会の聴聞会で条例制定に反対を訴えた。

 

※「悪書追放運動」で活躍した「母の会(警察関連団体)」「日本子どもを守る会」は同列に語られることも多いが、それぞれの活動の倫理は異なっていた。「日本子どもを守る会」の活動は「子どもの心の発達に大きなゆがみを与えているのは、民族の誇りをふみにじる不健全な文化環境であり、戦争への道に誘い込む、にせものの文化財としてであります。わたしたちは力をあわせて、こういうものから子どもたちを守らなければならない・(第一回子どもを守る文化会議声明)」と戦後革新運動の流れにあり、「赤坂少年母の会」の焚書運動を「ナチが国会議事堂前で二万冊を焼き、全世界の嘲笑を買ったのと同じ非文化的バーバリズムの手段でしかなかった」と批判した。「青少年条例」の制定にも強固に反対した。

 

1965年 出倫協が「不健全」指定に連動する「帯紙措置」を導入。

 

1966年 母の会・警視庁の連携で都内各所に「白いポスト」設置。

 出倫協「要注意取り扱い誌」の公表を開始

 1966年には、佐藤首相が出席して「青少年育成国民会議」発足。

 

 

1970年 「ハレンチ学園三重県四日市市中学校長会で追放決議。

「アシュラ」「キッカイくん」「やけっぱちのマリア」「アポロの歌」などを掲載した少年誌が各地で有害指定される。

 1970年前後は特定の連載マンガがPTA・教育関係者に問題視され、それを掲載した漫画誌が次々と「有害図書」に指定されるという事件が連鎖して起きていた。特に性描写・残酷描写(エロ・グロ)が問題視された。