「どろろ」を巡る冒険或いは私的備忘録

「どろろ」の記事を掲載しています。ほぼ、それだけなので、「たわし」しかない雑貨屋状態です。挙句の果てに新アニメの記事は殆どありません。「たわし」といっても亀の子しか置いてないんです、すみません状態です。書いてる本人も如何なものか… と思ってるので、どうか御容赦下さい。

悪書追放運動まとめ その7 【やけっぱちのマリア】

手塚治虫漫画全集『やけっぱちのマリア』 手塚治虫著 講談社 あとがき】

「やけっぱちのマリア」は、まあ、いわばキワモノです。ちょうど、この当時子どもの性教育の見なおしが叫ばれ、「アポロの歌」の解説でもかきましたが、少年誌に大胆な性描写やはだかが載りはじめた時代です。

 このあと、ぼくは「ママアちゃん」なるタイトルの性教育アニメを作り始めています(タイトルは、その後「ふしぎなメルモ」にかわりました)。ぼくたちが少年漫画のタブーとして、神経質に控えていた性描写が破られて、だれもかれも漫画にとりいれはじめたので、こんなばかばかしい話はない、こっちはかけなくて控えていたのじゃないか、かきたくてもかけない苦労なんか、おまえたちにわかるものかといったやけくそな気分で、この駄作をかきました。

 だから、「やけっぱち」というのは、なにをかくそう、このぼくの心情なのです。

 

 この時期『ハレンチ学園』と同様に、性描写の問題で有害図書に指定されたのが『週刊少年チャンピオン』連載の『やけっぱちのマリア』※である。また、『週刊少年キング』連載の『アポロの歌』も性描写が問題とされ神奈川県で有害指定を受けている。

※福岡県児童福祉審議会にて1970年8月27日に同書を有害図書に指定するよう答申、すぐに認定された。認定の理由は「まだ、刺激が強すぎ、青少年の健全な発育をそこなう」というもの。

 これに対して作者である手塚治虫氏は「こどもたちに、まんがを通し正しい性教育をする必要を感じて、たいへんまじめにとりくんだつもりです」(赤旗:1970年8月28日号)と、コメントしている。また、「考えてもみてください。いまの子どもは性そのものをよく知っているんです。二DKの団地などでは両親の性交をみてさえいる。私の子どもだって、小学三年生だが、“ゆうべはすごかったわねェ”なんて平気でいうんです」(週刊ポスト:1970年9月18日号)とも発言している。『週刊ポスト』の記事によると、これらの性教育マンガは、同年2月16日放送のNHK性教育 (「こんにちは奥さん」で放送)に直接影響を受けた作品であるという。

  1960年~1970年代は週刊少年マンガ誌が部数を伸ばし、新人作家が切磋琢磨して、マンガが発展していく過程で『ハレンチ漫画』以外にも、劇画、スポ根、社会派、など新しいジャンルが派生、戦後赤本マンガから始まったストーリーマンガは、表現・テーマ共に大きく変化していた。しかし、この時期、手塚治虫氏は「虫プロ」経営悪化の渦中にあり、それらが影響してスランプ状態にあった。氏は、悩みながら新しいマンガ表現を模索していたが、ヒット作には恵まれず、作家としての活動は低迷を続けていた。そして、1970年(昭和45年)に『やけっぱちのマリア』が福岡県で、『アポロの歌』が神奈川県で相次いで「有害図書」に指定され、その翌年の1971年(昭和46年)には「虫プロ」経営の悪化・経営方針の対立から、虫プロ社長の退陣を余儀なくされている。

  

 それまでの児童マンガでは性描写はタブー視されていたが、永井豪が『ハレンチ学園』でそのタブーを一気に破り、その後に『あらし三匹・池沢さとし』『モーレツ先生・牧村和美』など、新人作家のハレンチ・マンガが次々に少年誌を飾ることとなり、読者に熱烈な支持を受けたが、PTA・教育団体・マスコミのパッシングにあって、「有害図書」として指定され、糾弾・排斥される事態になった。(『ハレンチ学園有害図書指定前後の騒動については「悪書追放運動・その4」で述べた通り)

 その騒動の渦中にベテランであった「手塚治虫」が性教育マンガを発表。「こっちはかけなくて控えていたのじゃないか、かきたくてもかけない苦労なんか、おまえたちにわかるものかといったやけくそな気分で、この駄作をかきました」と、『手塚治虫漫画全集・やけっぱちのマリア』のあとがきには、当時の心情が吐露されているが、「子どもたちのために本物の性教育マンガを描いてみよう」という気概も十二分に有ったのではないだろうか? 氏は、1956年5月から『中学初級コース』に連載した『漫画生物学』の中で、生殖の仕組みを、卵子精子を擬人化した形で描いており、『やけっぱちのマリア』『アポロの歌』は、氏の性教育マンガへの再挑戦とも見て取れる。また、二作品とも性教育部分は、さすがに医学博士「手塚治虫」の面目躍如、今から見ると古い部分もあるが、現在も充分通用する優れた性教育マンガである。

  また、「僕らが愛した手塚治虫・2 二階堂黎人著 【手塚治虫性教育マンガ】」に、「この性教育論争を起こした一人が、手塚治虫だった。氏は例によって、永井豪の人気やハレンチ・マンガのヒットに対して敏感に嫉妬したのだった。そして ―自分だってハレンチ・マンガや女性のヌードぐらい描ける、いいや、それどころか、マンガにキス・シーンなどの性描写を持ち込んだのは自分が最初だった。しかし、児童マンガの枠組みを尊重し、過剰な描写は自己規制してきた。今の自分だったら、永井豪のハレンチ・マンガを超える作品を描くことができるー そう考えたようだった」

と、二階堂氏は「手塚治虫の嫉妬」を創作の動機として挙げているが、

「虫ん坊:手塚マンガあの日あの時 -第11回・ハレンチマンガ旋風の中で- 【手塚治虫の「やけっぱち」の真意とは!】」で、手塚プロダクション・チーフアシスタントの福元一義氏が、「手塚先生は、自分が先頭に立って批判を受け、それに反論することで、マンガを守ろうとしたんじゃないでしょうか。自分が批判されるためには、まず批判される作品がなければならない。それであえてあのような作品を描いたのだと、私は思います」と、語っており、単なる新ジャンルへの挑戦、ヒット作への嫉妬だけではない「何か」、思春期の読者に向けた、手塚氏ならではの粋なメッセージが有る、と私もそう思う。

 

 

『やけっぱちのマリア』は、少年マンガにダッチワイフが出てきたり、当時の少年マンガ事情から考えると物議をかもす内容だったのですが、どこか「カラッと」明るいラブコメで、マリアちゃんも可愛くて名作ですよね。いろいろ大変でスランプだった時期に、新しいジャンルで、この様な隠れた名作を生み出すことが出来たのも先生ならでは、と思います。

 それと「女ドラえもん」は、この作品が嚆矢なのでは? と思っているのですが、 …これ以前に、いま一つさえない男子のところに美少女(しかも人外)が、と言う作品は有ったのだろうか?

 それにしても先生、性癖関連で描いて無いものは無いんじゃ…と、思ってたら、老人性愛は無いようです、どなたかチャレンジしてみては、

 

「血だるま剣法・平田弘史」

血だるま剣法」 

 1962年7月に「日の丸文庫」の貸本誌『魔像』別冊として刊行された。

 部落解放同盟の厳しい抗議を受けて回収・絶版となった伝説の作品。

【あらすじ】

 主人公の猪子玄之助には、「領内に部落があっては恥をかく」という藩主の命で家族を惨殺された過去があり、その為、いつか剣術で身を起こし、部落制度廃止を将軍に上訴したいという悲願があった。そして、剣技の上達に対する異常な執着心から道場でも浮いた存在となっていく。その後、玄之助の出自が兄弟子たちの知る所となり、もとより疎まれていた玄之助への風当たりはますます強くなる。そして師匠の一伝斎も玄之助の悲願を成就せぬものと考え、万一の場合は自身が玄之助を斬る覚悟を固めていた。偶然、師匠の考えを知ることとなった玄之助は激怒し、師匠の一伝斎を殺害、壁に復讐を誓った血文字を残して道場を去り、兄弟子たちへの血みどろの復讐劇が始まる。

血だるま剣法」は1962年7月に日の丸文庫の貸本誌『魔像』別冊として刊行されたが、部落解放同盟の抗議を受けて刊行より1ケ月で回収・絶版となった。その6年後には『コミックマガジン・1968年1月6日号:芳文社』にリメイク版「おのれらに告ぐ」が掲載される。この作品は、「血だるま剣法」のストーリーをなぞっているが、主人公は流刑人の子孫と設定が変更された。そのため当初の悲願は成立しない事となる。

 同作品は、2004年に呉智英氏監修のもと「青林工藝舎」から42年ぶりに復刻。また、「ラピュータ」からも2012年に「復讐つんではくずし」と合わせて復刻本が刊行。

 『ぼくは劇画の仕掛人だった:エイプリル出版』には、「部落解放同盟の強硬な抗議を受けて、異様な活力を有する社長も、さすがに困却してノイローゼになる。涙をのんで担当編集者の首を切り、全国の貸本店から同書を回収して、解放同盟の人たちの目の前で焼却処分にしたのである」と、あるが、2009年6月5日付『読売新聞』では、作者の平田弘史氏が、「オレは『差別のない社会にしなければいけない』という思いで描いたんだ。回収はごく一部だけで、焼いた事実もなかったよ」と、語っている。また、Wikipediaによれば、「表向きには完全に処分されたと思われた『血だるま剣法』だったが、実際には回収・廃棄処分は徹底して行われてはいなかったようで日の丸文庫の倉庫に大量に保管されていたという」「同社に入社した山松ゆうきち山上たつひこがそれを発見しており、山上にいたっては自作にてこの血だるま剣法をパロディにしている。また売れ残り品が古本屋や露店でひそかに売られていた可能性もあるという」と、回収・廃棄は徹底されていなかった様子。

 

 1962年8月、部落解放同盟大阪府連から「差別と偏見を助長する」として日の丸文庫に本作の抗議が寄せられた。

 部落解放同盟大阪府連が問題としたのは以下の三点、

①.作品に記述されている部落の起源が科学的歴史観に反した偏見で書かれている。

②.部落民を残酷な人々と描くことで部落解放運動をゆがめている。

③.最後に主人公を死なせ、それを笑うことで部落の人が死に絶えればいいと思わせてる。

 ①に関しては本作の部落に関する記述に誤りがあり、後年復刻されたものでは伏字処理がされているが、②・③に関しては読者それぞれの感想・解釈で意見の分かれる部分で的を得た批判とは言い難いのでは無いだろうか、

 また、『赤旗』(1963年5月26日)は「子どもマンガの“人づくり”」記事内で『忍者武芸帳白土三平著』とともに本作を取り上げ、「『部落出身』の主人公が剣の師や兄弟でしたちに『エタ』と軽べつされたのを怒って、師を殺し、たくさんの同輩の両腕を切り落とし、自分もついにダルマのように両手両足のない不具者になってしまうのですが、それでもなお復讐をあきらめず……」と、その残虐描写を指摘し、危惧している。

 

 

 差別を助長すると批判を受け、40年以上絶版となっていた本作の描写は残酷で衝撃的ですが、作者の平田弘史氏が語っておられるように、「差別に対する怒り・激しい憤り」という重いテーマで描かれた評価の高い作品です。本作が抗議の後に、何の議論もされることなく廃棄・封印されることになった背景には、1962年当時、戦後人権意識の高まりとともにそれらの運動が激化していた事や、「悪書追放運動」「都青少年条例制定」を経て、貸本、劇画、マンガ、が悪書として白眼視されていた時代背景が大きく影響していたのだと思います。その後、現在に至るまで、抗議を受けた書籍が何の議論も無く回収・絶版されてしまう事件は、引きを切りませんが、最近では注釈をつけて、そのまま復刻されるケースも増えており、これは、「作品の芸術性」「表現の自由」など多様性に配慮をした結果なのでしょう。

 

※画像検索して頂ければアレなのですが、本作品の主人公は「四肢を欠損し、両腕に刀を付けている剣士」で、昔から「百鬼丸」の元ネタじゃないかと言う噂がありました。性格などキャラクター造型は全然違うのですが、

悪書追放運動まとめ その6

【貸本劇画の衰退】

  戦後、雨後の筍の様に増えた「貸本屋」の全盛期は1955年から58・9年頃の3~4年間と言われている。まだ高度成長期の入り口で、戦後の傷跡があちこちに残っていた時代で、当然、公共図書館も整備されておらず、テレビも普及していなかった。戦後の赤本マンガブームとともに貸本屋にもマンガが置かれるようになり、当初は青年をターゲットにしていた貸本屋の顧客に子供も増加、貸本屋は「町の図書館」としての役割を持つようになった。そして、戦後、娯楽に飢えていた人々の需要に呼応して、全国(特に大都市周辺で)「貸本屋」が増えていく。(1950年代後半の最盛期には全国で二万軒から三万軒の貸本屋が有ったと言われ、都内だけでも3000軒と隆盛を誇ったが、その後は衰退の一途をたどり1970年代には全国で3500軒に落ち込んだ)

 

 暴力表現を理由にした(不良図書)マンガ排斥運動は1950年代後半に貸本マンガに掲載された『劇画』にも波及していった。

 発端は『貸本』は「誰が触ったか分からない本を子供同士が回し読みしているのは問題がある」と、貸本屋の業務形態上の衛生問題が母親団体間で問題とされたことである。『竹内オサム・戦後マンガ50年史』によると全国貸本組合連合会は、厚生省公衆衛生局や国立国会図書館などに聞き取り調査を行い、指摘されたような事例の報告は無いことを確認、「一部の主婦」による「神経質な発言に過ぎなく、何ら科学的な論拠のないものである」と結論づけ、公衆衛生局に「自発的に衛生処置を考究したい」旨を申し出た。

 その後、内容・ストーリーへの批判が増加。『貸本』には当時人気が高かった『劇画』が多く掲載されており、その内容が「暴行・障害・殺人など人権を軽視している」「善悪無視のマンガが増えている」と批判の対象になった。

 1959年には、貸本屋の団体である『山梨読書普及協会』が甲府警察署少年課と協力して貸本漫画の実態調査を施行し、その結果、問題の漫画を店頭から排除。特に問題があるとされたのが『顔』『街』などの劇画誌で、白土三平氏の『忍者武芸帳』も排除の対象となった。『山梨読書普及協会』が悪書の基準としたのは「①出版名、住所がハッキリせず本に電話番号がのっていない。②責任者がつねに変わっている。③色調がどぎつく、言葉づかいがでたらめ。④暴行、傷害、殺人など人権を無視している」等である。その後、協会ではこれらに該当する「不良図書」が業界の存続にも影響を及ぼすと考え、仕入れごとにチェックし、上記に該当する作品を締め出すこととなった。1955年には「悪書追放運動」がピークを迎え、母の会による「焚書」騒動も勃発、青少年条例制定の動き…、とマンガ・児童書を取り巻く環境の急激な変化にあって、貸本業界が「悪書追放運動」の矛先を逸らすために先手を打って取り締まり強化に動いた格好である。この動きは同県内の新刊書店にも波及していく。

  しかし、業者・出版業界の自粛活動もむなしく、『マンガ・劇画』『貸本』への批判は止むことが無かった。『赤旗』(1963年5月26日)は「子どもマンガの“人づくり”」記事内で貸本屋のマンガ(忍者武芸帳白土三平著)を取り上げ、「なんと、死体千百七十一個、胴体を離れた首八十五個も出てくるのです」と残酷シーンをカウントして非難している。また、被差別部落民を主人公とした『血だるま剣法平田弘史著』もその残酷描写で同記事に挙げられている。

  1950年代後半から60年代前半にかけて『悪書追放運動』の影響を受けて『貸本・劇画』も受難の時代であり、各地で排斥運動が起こっていた。また、テレビの普及、週刊誌創刊、経済成長とともに「借りる」から「買う」にシフト、公共図書館の整備など、時代の流れもあり、『貸本屋』は街から姿を消した。しかし、貸本劇画で支持を得ていた人気作家たちは、創刊ラッシュを迎えていた週刊少年誌(主に『週刊少年マガジン』『週刊少年サンデー』)に移動、週刊少年誌が新たな活躍の場となった。全共闘運動が盛んだった時代、「右手に(朝日)ジャーナル、左手に(週刊少年)マガジン」というフレーズで大学生・青年層に『週刊少年マガジン』は支持を得ていた。「大学生がマンガを読むなんて世も末だ」と揶揄する声もあったが時代は変化していた。

  しかし、学生運動の衰退とともに大学生青年に支持されていた劇画も冷え込みを見せ始め、人気を誇っていた劇画雑誌も急激に部数を落としていく。

 その後、1970年代後半は1978年連載開始の「うる星やつら」が代表するようにライトでポップな作品が新たな漫画として出現、劇画は重く暑苦しいものとして読者であるティーンから忌避されるようになる。1979年には『週刊ヤングジャンプ』1980年に『週刊ヤングマガジン』と新しい青年漫画雑誌の創刊、ニューウェーブの台頭と、時代の波の中で、従来からある劇画は淘汰されてゆく。その後「ジャンルとしての劇画」は現在に至るまで低迷を続けているが、「復刻版」などで名作の掘り起こしは続いている様だ。

 

 

悪書追放運動まとめ その5

 1970年には、『アシュラ』『キッカイくん』『切り裂く!』『ハレンチ学園』『やけっぱちのマリア』『アポロの歌』など多くのマンガが全国各地で有害指定され、青少年への販売が禁止された。特に性描写では前回紹介した『ハレンチ学園』が、残酷描写では『アシュラ』が批判を受けた。本作は人肉食などの残酷描写が指定の理由となり、「残忍、不道徳なうえ犯罪性がある。非常識であると同時に青少年に悪影響を与える」と、神奈川県は発行元の講談社に抗議した。この一連の騒動は大きくメディアに取り上げられ議論を呼び、この流れで『キッカイくん』『切り裂く!』も残酷描写で有害図書指定されるなど、騒動の余波は続いた。

 

 1970年8月~『少年マガジン』で『アシュラ』が連載開始。この作品は乱世の地獄に生を受けた主人公の生きざまを描き、高い評価を受けて今日も愛されている作品だが、第一話に飢餓の中で死肉を食べ我が子まで食べようとする女性の描写があり、これを掲載した『週刊少年マガジン』1970年8月2日号を、神奈川県児童福祉審議会が7月22日の文化財部会で有害図書に指定した。これにより同書は神奈川県内での未成年への販売は禁止となる。その後、各自治体もこの動きに追随し、次第に大きな騒動となっていく。

 神奈川県での指定の理由は「残忍、不道徳なうえ犯罪性がある」「非常識であると同時に青少年に悪影響を与える」というものであった。その後、福岡県児童福祉審議会が同作品を連載継続するという理由で『週刊少年マガジン』・8月16日・23日・30日号を有害図書指定する様、知事に答申し認定された。

 その後の報道については、『戦後マンガ50年史:竹内オサム著』によると、1970年7月23日付の『読売新聞』が、「残忍マンガ売らせぬ」のタイトルでこの事件を報道。同日『毎日新聞』もこれを報じている。翌24日の『読売新聞』は「編集手帳」欄で、やや擁護する形で「この作品のいく末を見守りたい」と書いたが、『毎日新聞』は「憂楽帳」欄で「意図さえよければ何でもまかり通るというものでもあるまい」と厳しい論調であった。26日の『朝日新聞』は「天声人語」欄で、子どもの興味が大人を振り回している、子どもと大人の世代間戦争が始まっているのではないか、と冷静な論調でこの問題を伝えている。

 その後も、28日に『読売新聞』が読者の投書を特集して掲載。同紙31日号は審議会が31日に講談社に自粛勧告したことを伝えている。8月1日の『毎日新聞』は『週刊少年マガジン』8月16日号掲載の同作品も残忍であるとして、審議会が講談社への改善勧告の動きを見せた事を伝え、27日の『朝日新聞』、及び28日の『赤旗』は、『週刊少年マガジン』・8月16日号、23日号、30日号が福岡県児童福祉審議会で有害図書指定されたと報道した。また、新聞記事以外も『週刊朝日・1970年9月11日号』が、「『くさいものにはふた』ではすまない」と記事を掲載する等、報道は過熱。当時、人気作家であった秋山氏本人にも取材が殺到した。

 これらの抗議を受けて、発行元の講談社は『週刊少年マガジン・1970年8月16日号(34号)』に「新連載まんが『アシュラ』の企画意図について・週刊少年マガジン編集部」と釈明文を掲載し、本作は主人公「アシュラ」が、人間が生きられるギリギリの環境下に誕生し成長していく過程をとおして、宗教的世界に目覚め、人生のよりどころを確立させていくことをテーマにしたもので、第一回に描かれた地獄絵図的世界は主人公の成長の中で否定され、神仏へのひたむきな希求をとおして、豊かな人間社会建設していくドラマを描こうという構想で、残虐的描写によって刺激的な効果を狙うといった意図は全くないと訴えている。しかし、本作の結末は描かれないまま連載は終了となった。

※後年、『週刊少年ジャンプ』1981年26号に読み切りで完結編が掲載。「秋山捨てがたき選集第2巻『銭ゲバの娘プーコ アシュラ完結編』青林工藝舎」に収録。

  また、上記の釈明を受けて、作家の佐木隆三氏は『映画芸術1970年11月・「人を喰った讐いか冴えぬ」』において、「人肉を喰う衝撃的な場面でスタートしながら、まだ回が浅いうちから早くも事後処理に腐心しているところが、なんとも気にくわないのである」「ただただ、せっかく“有害指定”を受ける光栄に浴しながら実は有害ではないのです。と言わんばかりの展開が気にくわない」と、ジョージ秋山氏と編集部の保身的な姿勢を危惧している。

 こうした騒動の翌年、1971年5月に作者のジョージ秋山氏が引退を宣言して失踪、まだ『アシュラ』を執筆していた時期であり、これも衆目を集めることとなった。

 

 1960年代~1970年代という高度成長と社会変動の時代に、劇画という新しい表現が多くの読者を獲得し発展。その結果、1960年代末から70年代にかけて、読者の年齢層が上がるとともに『週刊少年マガジン』『週刊少年サンデー』は青年誌としての性質も併せ持つことになった。後発の『少年ジャンプ』『少年キング』『少年チャンピオン』と次々と創刊される週刊少年誌によって新たな漫画表現が模索されていた時代、常に変化していく少年誌周辺には「有害図書」事件が絶えなかった。しかし、皮肉なことに当時指定されたマンガは今日でも評価が高く、多くのマンガファンに支持されている名作である。

 

  この『アシュラ』騒動時に『ハレンチ学園』騒動の阿部進氏(カバゴン先生)のような論客がいらっしゃったら、いろいろ違う展開もあったような気がするのですが、どうにも、行政側の議論や抗議が残虐描写の有無のみに終始しているように見えて…

「表現」を「規制」するには、きちんと議論を尽くすことが大切だと思うのですが、表層・作品の一部分だけを見て規制・排除している残念な状況は今も昔も変わらないですね。この様な事態にならなければ「極限状況での人の尊厳」という重いテーマを鬼才・ジョージ秋山先生がどの様に描いたのか、これも歴史にifは無いのですが気になる所ではあります。

 最後に、【田中圭一のペンと箸-漫画家の好物- 第六話:ジョージ秋山とカレイの唐揚げ】のジョージ秋山先生と息子・秋山命氏のエピソードが大変良かったので、御一読をおすすめしておきます。

 

 

悪書追放運動まとめ その4

 前回までのまとめで1950年前後から1960年代後半までの「悪書追放運動」の動きを追ってきたが、ここで少し戻って1950年代末「少年漫画誌」の振り返りから始めたい。

 

 1950年代後半は「週刊誌」の創刊が続いた時期で、1956年『週刊新潮』が日本初の週刊誌として登場。1958年『週刊明星』、1959年『朝日ジャーナル』『週刊文春』『週刊平凡』と、創刊ラッシュが続き、1959年3月17日には『週刊少年マガジン』『週刊少年サンデー』が同時に創刊する。また、この頃主流だった月刊漫画誌は衰退し、廃刊になるものも多く出てきた。児童数の減少、テレビの普及によるスピード化で週刊誌への移行が進んだことが原因として挙げられるが、『僕らが愛した手塚治虫・Ⅰ』 著:二階堂黎人【立ち読みが週刊誌隆盛を加速】、の中で「月刊誌は付録付きのため、ばらけないように本誌ごと紐で括ってあった。だから、週刊漫画雑誌のように立ち読みはいっさいできなかった。逆に言えば、<少年サンデー>や<少年マガジン>は、買わなくても、書店などで何とか立ち読みができたのである(けっこう店主に怒られたが)。これは、非常に重要な事柄である。少年週刊誌が月刊誌に取って代わった理由の一つがそれだからだ」と、二階堂氏が述べている様に、当時の子どものお財布事情が週刊誌を歓迎したことも大きな理由の一つであるようだ。

※『週刊少年マガジン』『週刊少年サンデー』の発行年月日は1959年3月26日と4月5日となっており、『週刊少年マガジン』のほうが10日ほど早いが、実際には3月17日に同時発売されている。『戦後マンガ50年史:竹内オサム著』によれば、「かねてから、情報をリークしあってきた両社であったが、『週刊少年マガジン』側が先を越そうする動きを察知して、『週刊少年サンデー』側が発売を早める動きをみせた。またマガジン側も牽制する。こうした先陣争いが調整され、結局この日の同時発売におちついたのだという」と、日本初の週刊少年誌創刊に「講談社」「小学館」という二大出版社の競争という面も加わった事情が有った。

  その後、『週刊少年マガジン』『週刊少年サンデー』の二誌は競い合って部数を伸ばしていく。しかし、1965年に内田勝氏が三代目編集長に就任、『週刊少年マガジン』は貸本漫画で人気のあった劇画の掲載に力を入れ部数を伸ばし、1970年代初めには『週刊少年サンデー』の発行部数に大きく水をあけ150万部を突破する。その後『少年サンデー』も劇画を積極的に掲載。二誌ともにやや大人びた路線、ともすれば青年誌の様な紙面構成になって行く。その様な販売競争の中、後発の『少年ジャンプ』は、二誌が取りこぼした小・中学男子を取り込んで部数を伸ばした。

 

 月刊誌『少年ブック』の編集者に引き継がれて創刊された『少年ジャンプ』は、当初隔週でスタートした。この少年誌は先行の『週刊少年マガジン』『週刊少年サンデー』が読者の年齢層を上げていった隙間をつくように小・中学生をターゲットとして部数を伸ばした。成功の秘訣は、既に人気のある作家を起用できなかった為、新人の発掘とマーケットリサーチに力を入れ、人気投票を利用したリサーチ・作家の専属を徹底した点にあった。こうした編集方針のもと『少年ジャンプ』は永井豪ハレンチ学園』と本宮ひろ志男一匹ガキ大将』の二大ヒット作品を世に送り出すが、『ハレンチ学園』は当時の少年マンガにしては過激な表現が議論を呼び、PTA・教育関係者などから多くのクレームが寄せられた。

※『ハレンチ学園』が連載された1960年代後半には「8時だよ!全員集合」などの番組が人気を博しており、「ちょっとだけョ、あんたも好きねェ」と加藤茶氏の台詞が流行語になるなど性的なお笑いがブームとなっており、子どもマンガにもその影響が出ていた。

 

 そして、『朝日新聞』が1970年1月8日付・連載記事『マンガの世界』で「うわぁハレンチ」の見出しで本作を紹介。本屋の店先で小学生の男子たちが男性週刊誌のヌード写真をおどおどしながらめくっているのを見て、彼らにも明るいエロティシズムをと考えたのが創作の動機と語った永井豪氏のコメントを掲載している。9日には『毎日新聞』が『性の早熟と若者たち』で『ハレンチ学園』を紹介、どちらも一方的に非難するような記事ではなかったが、両紙が大きく取り上げたことによって、本作を巡る騒動は拡大を見せた。

 『ハレンチ学園』は1968年から連載開始、すぐに『少年ジャンプ』を牽引するヒット作となるが、上記の様に新聞大手二誌が記事内で『ハレンチ学園』を取り上げたことで、世間の衆目を集めPTA・保護者のパッシングを受ける事態となった。主に問題視されたのは女性キャラクターの裸やスカートめくりなどの性描写、教師を性的に奔放で自堕落な人物として描いた事(教師批判)の二点である。

 その後の動きは、『戦後マンガ50年史:竹内オサム著』によると、『毎日新聞』が1970年1月17日付の記事『ハレンチ・マンガ どう見る』で、三重県四日市市の中学校長が本作品を問題視し、県青少年保護条例審議会に有害図書(成人向け)指定するように働きかけたことをレポートしている。これは実現には至らなかったが、『週刊新潮』『週刊文春』などの週刊誌、NHKの報道番組でも取り上げられ、三重県の県青少年保護審議会と青少年育成県民議会は、連名で集英社へ「俗悪本を発刊しないよう」要望書を送付、校長会やPTA・婦人会にも追放協力を呼び掛けた。同年には福岡県でも問題となり、『少年ジャンプ』編集部へも、各地のPTA・教育委員会から多数の苦情が寄せられた。

 むろん批判ばかりではなく擁護する声も多く、『毎日新聞』は1970年1月19日付・社説『子供とハレンチ・マンガ』で大人の価値観で規制することに疑問を投げかけ、同年2月6日には『ハレンチ・マンガ好きな子でも心配はない』との見出しで「東京子ども教育センター」の調査報告をもとに、ハレンチ・マンガと精神発達の阻害との関連性は薄いという結果を報告している。また、教育評論家の阿部進氏(カバゴン先生)は会合に参加し議論をするとともに、テレビ出演して擁護を行った。同作品を応援する読者のお便りも編集部に多数届けられたという。そして、永井豪氏本人もテレビのワイドショーに出演、学校関係者からの説明要請に応じるなど積極的に対応している。

 氏は後年、『デビルマンは誰なのか:永井豪著・講談社』で、「女生徒に今で言うセクハラをしたり、ひどい暴力を振るったりする。これを見た教師たちの一部は、ある種の恐怖を感じたのではないだろうか。おそらく、自分の中に隠し持っている反道徳的な欲望を見透かされ、暴かれてしまったような気がしたのではないだろうか」と語っている。また、評論家の石子順造氏や当時、編集部員の西村繁男氏も、不道徳な教師を描写し、教師という権威を批判・からかいの対象にしたのが性描写よりも問題視されたのではないかと推察している。

  この『ハレンチ学園』が社会問題となった一連の騒動が代表する様に、1970年前後は特定の連載マンガがPTA・教育関係者に問題視され、それを掲載した漫画誌が次々と「有害図書」に指定されるという事件が連鎖して起きていた。『少年マガジン』『少年サンデー』『少年ジャンプ』と多くの週刊少年マンガ誌が切磋琢磨し部数を伸ばし、マンガのジャンルにも「性」「暴力」など新しいテーマを取り扱ったものが出現したことも理由の一つであるが、戦後の高度成長とともに娯楽がテレビ、マンガと視覚化し、情報量も増加していく中、大人世代と新世代の青少年との世代間のギャップが大きくなったことも関係しているのではないだろうか? これは、ゲーム・ネット・スマホ…と、新たなメディアが誕生するたびに規制が問題となる現代にも見られる、古くて新しい問題である。

悪書追放運動まとめ その3

【東京都青少年条例制定をめぐる動き(1960年代~)】

  1963年10月、台東区中学校PTA連合会から東京都議会に、「少年の目に映る、誇張された性的、犯罪的社会悪を助長するような映画、その他娯楽施設の悪どい宣伝文、看板等が公然と社会の中に、ほうり出されている現在、どうしても行政の措置をまたざるを得ない。また、全国的に見て二十数府県にわたって、青少年の保護条例が設置されているという状況から見ても、この条例が如何に強く望まれているかが明確なのである」と、訴えた誓願が条例制定の契機であった。

 こうして、戦後の「悪書追放」運動の活発化とともに、東京都にも「青少年条例」制定の動きが浮上してくる事となる。さらに、「東京母の会連合会」は、都知事・警視総監への陳情も行った。

出版労連の三十年史『出版労働者が歩いてきた道 高文研・1988年』では、「法務省警察庁治安関係者連絡会」なる組織が東京に条例制定を勧告した、となっている。また、同書は各地で不良図書追放に立ち上がった書店には警察の指示や府県のテコ入れがあったと述べ、甲府書籍組合の不良雑誌締め出しの報道と青少年条例制定の動きは「あまりにもタイミングが合っていた」という。

  これら警察・行政・報道・民間団体の相互連携が伺える記事から、当時の「悪書追放運動」が如何に苛烈なものであったかを伺い知ることが出来る。

 

 こうして、官民一体となった「東京都青少年条例制定」の動きにたいして、書籍協会の「出版の自由と責任に関する委員会」は1963年11月5日の会議で『東京都の青少年条例は「中央立法」につながるおそれがあり、絶対に制定を排除しなければならない』、として対策を進めることになった。そして、「書籍協会」の呼びかけに呼応した「雑誌協会」「取次協会」「小売全連」を含む四団体が組織する「出版倫理協議会(出倫協)」が12月21日に発足。『われわれ出版四業者団体は、近来青少年の非行化に関連して起こった低俗出版物の追放問題に対処するため、ここに「出版倫理協議会」を結成し、それぞれにおいて従来の倫理活動を持続すると共に、さらに相たずさえて適切な対策を推進することにした(後略)』と声明を発表した。

 これらの動きのなか、都議会に提出された誓願は、同年11月の「都議会総務首都整備委員会」で採択。12月に知事が「青少年問題協議会」に条例制定の可否を諮問し、青少協は1964年の4月まで協議を行った。反対意見、消極意見も多く、条例制定には慎重な姿勢が望ましいとされながらも、最終的には「有害出版物排除の措置」を求める答申が都知事に提出された。

 

 しかし、これらの動きにより反対運動も活発化する。

 出倫協による青少協委員への陳情は、「少数業者による、一部の出版物のうちに、低俗出版物があり、これらについて規制措置が問題化していることは、業者としては遺憾に思っている。これら一部僅少の出版物を規制するための措置が、全般の言論出版の自由に累を及ぼさないよう良識ある判断を懇願する」「自主規制で必ず目的は達し得るから、委せてほしい」と、当初は法的規制をやめてほしいという懇願の色合いが強かったが、条例の制定案が明確になり始めるとともに、書籍協会は「絶対反対」、東京都書店組合も「法規制に関してはあくまで反対しその削除を要求する」と、強く反対の意思を表明した。

  また、1964年1月25日には、『青少年の保護のための条例は、言論、出版、思想の自由を侵し、憲法違反につながるもので、こどもの人権をふみにじるものであるからこれを制定しないように』、と強い文言で「子供を守る文化会議実行委員会」から陳情があった。都議会に制定案が提出された6月になると反対運動はさらに盛り上がりを見せ、何度も数百人規模の陳情があったという。法律家団体、女性団体、あるいは児童文学者や研究者団体、マスコミ関連労組、教職員組合などが連名した4月3日付の「二五団体共同意見書」には悪書追放運動で活躍した「日本子どもを守る会」も名を連ねており、都議会の聴聞会で条例制定に反対を訴えた。

 そして出版業界も含むこれら団体の厳しい反対・抗議活動の中、条例は可決、成立し、10月1日からの施行が決定した。新聞各紙には『強行採決』と見出しが躍ったが「修正案で条例が骨抜きになった」とも報じられている。朝日新聞は7月29日付の社説で『(条例は)気休めにすぎないとしても、気休めを必要とするのが、現在の青少年問題の実態である』と報じた。

  翌年1965年には出倫協が「不健全図書」指定に連動して帯紙措置を導入。

出版倫理協議会(日本出版取次協会日本書籍出版協会日本雑誌協会・日本書店商業組合の四団体で構成)による自主規制の一つ。東京都青少年健全育成審議会において、連続3回または年通算5回「不健全」指定を受けた雑誌類に対し、次の号から「18歳未満の方々には販売できません」という帯紙をつけるよう通知するというもの。帯紙をつけない雑誌は取次で扱われず、たとえ帯紙がついていても販売店から注文がない限り送品されない。

  1966年には、

 ・佐藤首相が出席して「青少年育成国民会議」発足。

 ・出倫協、「要注意取り扱い誌」の公表を開始。

 ・母の会・警察署の連携で都内各所に『白いポスト』が設置。

※『朝日新聞1966年5月25日付・悪書、家へ持込まないで、追放に「白いポスト」お目見え』と記事が掲載。「二十四日、東京の国電巣鴨駅出札口に高さ一メートルほどの「白いポスト」がすえ付けられた。子どもに見せたくない雑誌や本はこのポストに」と、家庭への性雑誌持ち込みを抑止する目的で設置されたポストで、都内では巣鴨駅に設置されたのを皮切りに警視庁少年一課が東京母の会連合会と協力して都内の主な駅四十四ケ所に取り付けることとなった。Wikipediaによると1963年に尼崎市で、ドラム缶を白く塗り、有害図書を入れるように設置されたのが最初と見られている。

  東京都の青少年条例の制定後、千葉県、島根県徳島県大分県愛媛県と追随する自治体は増加、1960年代後半~1970年代には全国的に拡大され、2016年を持ってすべての都道府県で条例制定されている。こうして、青少年条例の積極活用の動きとともに「悪書追放運動」も活発化していく。

 

 しかし、この時期にはマンガ読者の年齢層も上昇し、「右手に(朝日)ジャーナル、左手に(少年)マガジン」と、マンガが子どもたちだけの読み物ではなくなり、週刊少年漫画誌が大きく盛り上がりを見せていた時期でもあった。

 読者層の変化・劇画ブームとともに「性」「暴力」がマンガの中でテーマとして取り上げられるようになり、『ガロ』『COM』など作品性の高いマンガを掲載する雑誌も創刊され、マンガが発展していくとともに「子どもに悪影響」「不健全」と問題視される状況も増加し、1970年には三重県四日市市中学校校長会が『ハレンチ学園』追放を決議。その後、全国各地で次々と『アシュラ』『キッカイくん』『やけっぱちのマリア』『アポロの歌』など掲載した少年誌が有害指定される事になる。

悪書追放運動まとめ その2

『悪書追放運動』は表現規制に向けて民間団体が主導した様に見える運動であるが、常に政府も動いており、総理府の付属機関『中央青少年問題協議会(中青協)』は1954年7月に『青少年に有害な出版物映画対策専門委員会』を設置している。これには、朝日新聞社論説委員:伊藤昇氏が委員長となり、大学教員・評論家、法務省刑事局付検事:勝尾鐐三氏、警視庁防犯部長・養老絢雄氏らも委員として参加していた。前回の “悪書追放運動・その1”で述べたが、「養老絢雄氏」は『朝日新聞』で不良出版物の取締まりを主張し、コメントを寄せていた「警視庁防犯部長」その人である。

 その後、1955年5月に中青協は『青少年に有害な出版物、映画等対策について』という答申を発表。答申内で「戦後十年を経過した今日、言論、出版その他表現の自由に名をかりて青少年に有害な出版物、映画等が社会に氾濫し、心身ともに未発達な青少年の人格形成に悪影響を与えていることは看過できない事実である」と、述べつつも、「現在の状況では、業者の自粛と国民の自覚に期待することとして、(中略)『特別立法』はさしあたり必要ないものと認める」と、『青少年健全育成法』のような法規制には慎重な意見を付した。

 

 出版・新聞、放送などの業界団体で構成される「マスコミ倫理懇談会全国協議会」の事務局長だった中村泰次氏は『青少年条例:清水英夫・秋吉健司編、三省堂 -青少年条例の歴史- 出版規制を中心に』の中で、「取締当局側の特別立法を急務とする主張と民間出身者のこの種立法は検閲制度の復活であるとの主張が対立、激しいやりとりの結果として上記のような答申に収まった」と解説している。これは、出版業者の自粛が積極的に動き出したと認められた背景とともに、この“激しいやりとり”が『特別立法』はさしあたり必要ないとの答申におさまった事情の一つだろうか?

 【この時期の出版業界、自主規制の動き】

 1954年1月、日本出版協会が『不良出版物対策特別委員会』を設置。悪書追放・良書普及の運動を各方面に呼びかけ、機関紙『日本図書新聞』に児童雑誌の実態を記事にして発表。

 日本出版団体連合会は臨時代表者会を3月末に開催、同会内に『倫理化運動対策委員会』をおくことを決定。5月23日には「いたづらに低俗なる欲求や興味に媚びて文化を害する出版物は、われわれが組織する関連団体に属さない業者の心なき所産ではあるが、われわれもまた、自らの文化的良心に従い自粛し、不良出版物絶滅に努力を傾注したい」という趣旨の声明書を発表。

 これらの動きに呼応して、取次業者の団体である出版取次懇話会は『悪書追放委員会』を設置。ゾッキ本屋が多く参加していた全国出版物卸商協同組合は「発行責任者とその所在不明なものは一切取扱わない」と宣言。

 

 GHQの占領が終了した1950年に入って、政府・民間団体・マスコミの主導による不良出版物排斥の流れがあり、それを受けて出版業界自らも機関紙『日本読書新聞』で「児童雑誌の実態」と言う特集を組み、赤本ブームで沸いていた児童マンガに対して『マンガ批判』を行った。その結果、悪書追放運動に拍車がかかり、更に運動が広がりを見せ、排斥の対象が大人向けの大衆雑誌から児童マンガにも拡大した形であろうか?  

『悪書追放運動』も、もともとは大人が「悪書(カストリ雑誌など)」を家庭に持ち込み、子供同士が回し読みして教育上よろしくない、という理由から運動の対象は大人向けの「性雑誌」であったのだが、1955年前後から「マンガ」批判へ矛先が変化している。これは『貸本』についても言えることで、もともとは『貸本』は「誰が触ったか分からない本を子供同士が回し読みしているのは問題がある」と、衛生上の問題が母親たちの間で取り沙汰されていたのが発端である。その後、内容・ストーリーへの批判が増加。『貸本』には当時人気が高かった『劇画』が多く掲載されており、その内容が「暴行・障害・殺人など人権を軽視している」と批判の対象になった。1950年代後半から60年代前半にかけて『貸本劇画』も受難の時代であり、各地で排斥運動が起こっていた。この流れで貸本屋は衰退するが、少年マガジンは『貸本』で人気が高かった「水木しげる」「楳図かずお」「さいとうたかを」を起用して部数を伸ばし、劇画ブームが到来した。

 

 1955年、国は『青少年健全育成法案』の制定を見送り。しかし、中青協は1955年10月『青少年に有害な出版物、映画等の排除に関する条例についての参考意見』を各都道府県に送付し、これが『青少年条例』の制定を後押しする形となった。

  1959年、文部省が『図書選定制度』を構想。文部大臣が「健全な青少年の育成に寄与すると認められる」図書を選定するという構想で、1959年4月に『青少年の読書指導のための資料等の作成に関する規程』という省令を出し、同日『図書選定申請要領」』という告示を発した。   

 しかし、5月の総会で書籍協会が全会一致で反対声明を発表。「図書の選定は国家の行政機関が行うべきではなく、言論出版統制につながりかねない」との総会決議声明を出した。図書館・子どもを守る会なども反対したため、文部省は書籍協会との話し合いの結果、図書選定制度を『図書目録制度』と変更して9月30日に目録第一集が発行されたが、目録に登載された41冊のうち、登載意志の無い書籍協会の書籍が20冊含まれていたことから、書籍協会・関係出版社は無断登載された図書の削除を要求。しかし、翌年3月には第二集が発行された。この時は無断登載された図書の著者や出版社編集部が抗議文をだすという事態に発展する。こうした激しい反発から、文部省は第三集以降の目録を出すことが出来ず、制度は頓挫することとなった。

  また、1959年に貸本屋の団体である「山梨読書普及協会」が甲府警察署少年課と協力して貸本漫画の実態調査を施行し、その結果、問題の漫画を店頭から排除。特に問題があるとされたのが『顔』『街』などの劇画誌で、白土三平氏の『忍者武芸帳』も排除の対象となった。その後1963年には同じ甲府で、新刊書店による有害雑誌排除の動きが見られ、1963年10月3日付『朝日新聞』は「有害雑誌締出し、甲府の本屋さん 青少年への影響考えて 発送中止申し入れ 東京の四販売会社へ」と報じた。山梨県青少年対策本部(県知事が本部長)が青少年に有害な雑誌を店頭から締め出すための協力を甲府書籍雑誌商組合に呼びかけ、組合は対象とされた雑誌の販売を中止し、取次に送本を止めるように要請。これにより書店主導の悪書追放運動が始まる。

 その後、全国組織の日本出版物小売業組合全国連合会(小売全連のちの日書連)も不良雑誌の排除に乗り出し、青少年に有害と認められる不良出版物の販売は拒否することを決定、不良出版物として二十一種の週・月刊誌を選定した。

『1963年10月29日付 読売新聞 “不良雑誌 売りません 本屋さん七千軒が取り扱い拒否決議”』「リストを下部組織である各都道府県の組合に送り、組合員である各書店がそれらの雑誌の仕入れ、販売を拒否するよう強く指導するほか、出版側には内容の自粛を求め、また出版物の取り次ぎ会社にはこれらの不良出版物の取り扱い中止を要請するという」また、同日の『読売新聞』は、「静岡県書店組合」の動向についても報じている。「同組合は昨年一月一日県青少年環境整備条例が施行されたのをきっかけに県教委とも連絡をとり“有害図書”は店頭陳列を遠慮するよう指示してきた」

 これらの記事で、書店による悪書追放運動は青少年条例の制定と常にリンクしていた様子が伺える。

 その後も書店主導の悪書追放運動は各都道府県で継続。これらの動きに「言論の自由を侵す」と県議会などで反対論も挙がった(神奈川県)が、青少年条例を利用した「官民一体の悪書追放運動」は、その後も全国に波及していく事になる。

悪書追放運動まとめ その1

 

 戦前・戦中は出版法・治安維持法などの言論統制・図書検閲があり、出版・表現は厳しく規制されていた。

 その後、占領下の1945年9月から1949年10月までGHQによって出版物が検閲され、軍国主義的なもの、封建主義思想の賛美などの内容が対象となり、児童絵本・マンガも発禁処分を受けた。(当時、仇討ち物などは封建思想の賛美と見做されてかなり厳しく検閲の対象となり、時代劇の制作・出版は減少)

 戦後の民主化によって、戦前・戦中の出版法や治安維持法などの言論統制による図書検閲が無くなり、娯楽に飢えていた庶民の間で雑誌・映画が人気を博していたが、同時に当時流行していたエロ・グロ・ナンセンスのカストリ雑誌・大衆向娯楽雑誌などを「悪書」として追放しようという動きも見られた。この時期は児童書・マンガよりも大人向けの大衆雑誌、映画を規制しようという運動の方が盛んであった。

  その後1947年に「手塚治虫」が『新寶島』でデビュー、同書が当時、累計で40万部と大ヒットになり、大阪・松屋町には「赤本マンガ」の出版書店がにわかに立ち並んだ。そして、1947年末から1948年にかけて赤本マンガの出版数も増加し、毎月100~120点、多いときは150点に及ぶマンガが3万、5万という規模で出版され、戦後の児童マンガ出版をリードする事となった。

※赤本とは、戦後物資の不足している中、首都圏に比して割り当てられる紙の量が少なかった関西で、質の悪い再生紙である仙花紙を製本に使用。仙花紙が赤みがかっていたので赤本と呼ばれた。薄かった当時の漫画雑誌に対して百数十ページと厚みがあり、少ないお小遣いで、たくさんマンガが読みたい子供たちに喜ばれた。(赤本の由来には諸説あり)

  そして、アメリカ軍の占領終了後の1950年以降、表立って動きを見せなかった日本政府内で報道・出版の法規制が検討され「青少年育成基本法」の制定も含まれたが、マスコミの厳しい反対報道もあり断念。しかし、1950年には岡山県で「図書による青少年の保護育成に関する条例」が制定され、徐々に「不良出版物取り締まり・悪書追放」への気運は高まっていた。

 

 また海外に目を向けると、日本で「悪書追放運動」が激化する1955年の前年、1954年に「これらの不良出版物は子供たちへの悪影響がある」としてアメリカ議会で公聴会が開かれた。マッカーシーのレッド・パージ(赤狩り)が激化する流れを受けて、米国内でも不良出版物規制の気運は広がり、出版業界はコミックスコード(倫理基準)を設ける・評議会の設置など、政府の検閲を受け入れる姿勢を見せた。それ以外にもイギリスとアメリカでホラーコミックの規制法案が検討される。カナダで子供向けのコミックに対して性的なものを取り扱ったコミックを出版禁止とする法案が議会に提出される。などの動きが見られ、出版物に対する表現規制は日本だけの問題ではなく、世界的な潮流であった様子が伺える。

 

 1955年(昭和30年)は、日本子どもを守る会・母の会がマンガ批判・規制運動を盛り上げ、これに大手新聞社も追従し、悪書追放運動の発火点となった年として知られている。ここから、1955年前後の「悪書追放運動」の動きを纏めたい。

  1950年に岡山県で青少年条例の嚆矢となる「図書による青少年の保護育成に関する条例」が制定され、1954年には警視庁が青少年に悪影響を与える不良出版物を取り締まりの対象にと主張。これらの動きを受けて、警察の関連団体である「赤坂少年母の会」などが、未成年に悪影響な不良雑誌を追放しようと「「見ない読まない買わない、三ない運動」を提唱して不良出版物35冊を焼却。当初は家庭内の「性雑誌」を子供たちが好奇心から閲覧してしまうことが問題と見做され、家庭内の不良雑誌を撲滅することを目的とした。そのため、焼却されたのも大人向けの大衆娯楽雑誌カストリ雑誌が中心であった。この様な規制強化の動きは戦後間も無い時期から継続し、全国に波及していく事となる。

カストリ雑誌とは、終戦後の出版自由化(占領下ではGHQプレスコードによる検閲はあった)で大量に出版された大衆向け娯楽雑誌。内容は猟奇事件・ポルノ小説・性生活告白・赤線などの色町探訪記事など安易で低俗なものが多く、エロ・グロ・ナンセンスと揶揄された。三合飲んだらつぶれるカストリ酒になぞらえて、三号までに休・廃刊になるカストリ雑誌と呼ばれた。(これも名称の由来には諸説あり)

 

 1955年1月には都内で開催された「第四回青少年問題全国協議会」で「不良出版物の追放問題」が議題として挙がり、その直後には、当時首相であった鳩山一郎氏が施政方針演説内で「覚せい剤、不良出版物のはんらんはまことに嘆かわしき事態でありますが、特にわが国の将来をになうべき青少年に悪影響を与えていることは、まことに憂慮すべきことであります。政府としては、広く民間諸団体の協力を得まして、早急にこれが絶滅のため適切有効な対策を講じ、もって明朗な社会の建設に邁進いたしたいと存ずるのであります」と発言。『日本週報・1955年5月5日号』に滝本邦彦内閣官房審議室参事官が「取り締まらねばならん ヤクザ本の実態」という記事を寄稿するなど、政府は規制に意欲的だったことが伺える。

  そして、1955年に鳩山一郎首相が施政方針演説で「青少年に悪影響をおよぼしている不良出版物を絶滅」と強い文言で発言したことを受けて、朝日・読売新聞などの大手新聞社が「不良図書の追放」を大きく取り上げ運動は一気に拡大した。その後、『1955年4月12日付・読売新聞』の見出し「ひろがる悪書追放運動」で「悪書追放運動」という文言が初めて使用された。

 

 以下、朝日・読売新聞各社の批判記事一例

朝日新聞1955年2月11日 滑川道夫

「青少年読み物を健やかに 出版界への警告と民間勢力結集の提案」

・読売新聞1955年3月30日

「見ない読まない買わない運動」

朝日新聞1955年4月3日

「エログロ出版は致しません 出版団体連合 業界浄化に乗出す」

・読売新聞1955年4月12日

「ひろがる悪書追放運動」

朝日新聞1955年4月21日

「ひど過ぎる児童雑誌 出版社に“もの申す”会」

朝日新聞1955年4月27日

「悪書追放 出版界、自粛へ動く 近く倫理化に実行委」

・読売新聞1955年5月8日:夕刊

「悪書五万冊ズタズタ 悪書追放」

・読売新聞 1955年5月14日:社説

「ひろがる悪書追放運動」

 

 総理府の付属機関『中央青少年問題協議会(中青協)』が1955年5月を「青少年育成保護月間」と定め、「東京母の会連合会」「日本子どもを守る会」「東京防犯協会連合会」「中青協」などが活発に活動を行い、運動は最高潮になる。そして、母の会連合会・会員有志がエプロン・割烹着姿で不良雑誌・マンガなど五万冊を焼き捨てる「悪書追放大会」を開いた。

※(1945~55)昭和20年~30年頃の少年問題、「ヒロポン禍」「浮浪児問題(人身売買問題)」「俗悪映画(太陽族)問題」などがあり、20年代中頃には第一次少年非行・人身売買事件がピークになる。昭和21年に都道府県の警察部に少年課設置開始。

 

日本読書新聞」は「児童雑誌の実態」という記事を連載。

1955年 3月21日・その一 お母さんも手に取ってごらん下さい

1955年 4月 4日・その二 少女系雑誌

1955年 4月18日・その三 マンガ・ふろく・言葉など

1955年 5月 2日・その四 良いものを探す

1955年11月28日・その五 児童雑誌は良くなったか

1955年11月28日(総 括) 悪書追放運動を顧みる

 

 これらの記事には、「内容の荒唐無稽さへの批判」「復古調の漫画に対する戦後の民主化を背景にした批判(児童漫画に戦争を扱ったものが多いと新聞各社が批判など)」も多くみられた。これらの流れを受けて、警視庁は不良出版物の取り締まり強化の方針を打ち出し、「性的刺激を与えるもの」「暴力肯定」「人間軽視」「射幸心をそそるもの」「民主主義の破壊」等を取締りの基準とした。

 

 また、「見ない読まない買わない、三ない運動」として、積極的に悪書追放運動を繰り広げていた「赤坂少年母の会(赤坂少年母の会は東京母の会連合会の一支部)」は1954年5月に不良出版物35冊を焼却したのを皮切りに活動を活発化、不良雑誌の撲滅を広く呼び掛けて3000人の会員から提出された500冊に上る雑誌・書籍を焼却処分し、これが、『1954年7月17日付 朝日新聞・夕刊』で報道された。

 これら母の会の積極的な「悪書追放運動」には警察も賛同し、上記の記事に「母の愛の現れ 養老警視庁防犯部長の話 - 本を焼くというのはよくよくのことで、子供を悪い社会環境から守ろうとする母の愛情の現れだと思う」「この種のものの根絶を図ることは非常に難しいし現法規では取締りは限界点にきているが、警視庁としては重点的にやれる範囲のきびしい取締りを行うつもりだ。結論として赤坂母の会の行為には大いに共鳴を感じる次第だ」と、コメントを寄せた。

 また、この記事にコメントを寄せた「養老警視庁防犯部長」は『2月17日付・朝日新聞』で、「世論の支持さえあれば、いつでもビシビシ取り締まる用意がある」と発言。『3月2日付・朝日新聞』の『論壇』欄で、これらの出版物を「その性格が十九世紀的な、いわば国家に先行する純粋に個人的な自然の権利であるとは、到底考えられない」と書き、その自由は制限されて当然という見解を示した。更に、「憲法に保障された自由を主張できる本来の出版物のラチ外にあるものとすら考えたい」とも書き、不良出版物は出版・表現の自由が保障されなくても問題ないとの自説を述べ、「不良出版物」も警察の取締りの対象にするように訴えている。そして、これらの記事の掲載直前に、警視庁少年課が「不良雑誌その他に関する資料」をまとめて、資料内で100点以上の雑誌を挙げた。また運動当初、母の会が問題にしたのは大人向けの性的な内容を扱ったエログロ・ナンセンスといわれたカストリ雑誌や成人向雑誌であったが、運動の激化とともに子供向けマンガも排斥・焚書の対象となった。

「悪書追放運動」は表現規制に向けて民間団体が主導した様に見える運動であるが「東京母の会連合会(赤坂少年母の会)」は警察の関係団体であり、政府・警察の介入は常にあった様子が記事からも伺えるので、政府・マスコミ・表現規制推進派の民間団体が共同して起こしたものというのが実情であろう。その後、『学校図書・1963年12月号』に「日本子供を守る会」神崎清副会長が「悪書追放の諸問題 -神崎清先生にきく- 」を寄稿。この文章内で1955年前後の焚書事件・悪書追放運動の実情について触れ、婦人会を中心とする運動は「お膳立ては全部警察の方でして、その筋書きに従っているだけで自主性がないわけです」と述べている。また、東京母の会連合会も、『1955年6月25日号・読書タイムズ』「特集・児童出版物をめぐって『良書』普及のために」座談会で、

 本吉「(前略)お母さんたちの純粋な運動が官僚や政治家に利用されるということ又悪書問題が起きている際、雑誌社のはよくない、出版社のはいいというような行き方が見えはじめましたが、新聞連載の子供読物を例にとっても朝日、読売、サンケイのものと児童雑誌に載っているものと違った印象を受けませんね。新聞社の商売の下準備に利用しているのではないか、というような面も考えられるんですね。尤も踊らされるようなお母さん方じゃないと思っていますけど……」

宮川「何処かに踊らされているんじゃないかとよく言われましたが、反対に私共の仕事に対して警視庁も新聞も、手伝いした。利用したのはこちらですと思っています」

本吉「利用されてあとで官僚に法律をつくられる、このような傾向だけは注意したい」

宮川「その点はあらゆる機会に言っております。警視庁が乗りこむような態度はまっぴらですと」

 

 上記の様に「母の会連合会会長:宮川まき氏」が語っており、母の会の善意の運動ではあるが、「防犯活動」として警察との連携は常に在り、純粋な善意の活動とは言い難い一面が存在したことは特筆しておきたい。

 また、当時のカストリ雑誌や赤本マンガは取次店を経由せず販売されるものが多く、その為、赤本マンガは駄菓子屋・夜店・露店など書店以外でも販売されていた。私見ではあるが、大手出版社・新聞社などがこれらの俄か出版店を快く思わなかったことも「悪書追放運動」に関係していたのではないだろうか? 戦後の児童マンガ出版は当初、東京が多かったが『新寶島』のヒットで赤本が大量に出版され、関西がリードすることになる。このムーブを牽引していたのが、戦後俄かに建ち並ぶこととなった大阪・松屋町問屋街の振興出版店だったことは言うまでもない。

 

 

 ここまでお付き合い頂き、有難う御座います。

 

 戦後の漫画黎明期に手塚先生が戦っていたものは何なのか?

 なぜ、漫画はパッシングされたのか?

どろろ」成分は皆無ですが、…続きます。

 

 

 

景光という父

どろろ』 秋田文庫2巻 : 解説 -錨模様、勝手にメッセージ- 出崎統

 醍醐景光の存在のたしかさはどうだ。彼は自分が何も持っていない事をしっかりと自覚している。だけど欲望には逆らえない。その確かな「弱さ」は真実の様に僕には思えたのだ。

 ―彼はこの世のものとは取り引きが出来ない。つまり、うんとプライドは高いか、あるいはうまく世渡りする術を持っていないのだ。そんな男が、自分のまだ生まれて来てない子供を差し出す。生まれて来てからでは、そんなことは痛々しくて、多分出来っこないことを知っていたからだ。

 そうして、罪を犯していく。自分の心に罪を犯していく。許しがたい自分へ自ら落としていく。そして、物語は始まっていくのだ。

 悲しくて、醜いけれど、それもあるんだよ……

 かも知れないよ、と。

 

 前回「寿海」について書いたので、もう一つの物語の発端、「景光」という父親についてです。『どろろ』秋田文庫2巻の出崎監督の解説が全ての様な気がするので、後は、蛇足というか、いつもの私の私見… 「理屈と膏薬は何処にでもくっつく」です。

  原作でも、旧アニメでも(舞台の新浄瑠璃百鬼丸」・人形劇『どろろ』も)「醍醐景光」は人としての弱さをもった男として描かれています。その弱さを受け入れ、誠実に現在を生きて行けば良いのですが、景光は己の弱さや現実を受け入れることもできず、我が子を犠牲にします。ダメすぎですが、物語の外にもそのような人は多くいます。ある意味、手塚先生の描いた「醍醐景光」という虐待親(ハラッサー)はとてもリアルです。

 さて、PS2版ゲーム、映画、新アニメ等の「魔神に誘惑された為(惑わされた=本来の状態ではなかった)、実は悪人じゃなかった」「民、百姓の為やむなく自分の子どもを犠牲にした」、百鬼丸の「光の子」設定。

 等は、

貴種流離譚」「英雄譚=ヒーローズジャーニー」として『どろろ』という物語の一層目を成立させるためには有効な設定だと思います。しかし、その設定は『どろろ』という物語の層になっている「厚み」を削ります。

どろろ』という物語は「神話の法則の三幕構成で解析する『どろろ』」で書いたように表層ストーリーの神話的構造「貴種流離譚」を三層目の「反戦・反体制」テーマが裏返す、複雑なねじれ構造を持っていて、私はこれがこの作品の胆であると思っているのですが、これらの設定を採用すると、この三層目とともに反戦・反体制のテーマも薄まります。

  また、これらの設定は物語を「英雄譚=ヒーローズジャーニー」として固定する以外にも、「プレイヤー・視聴者」を安心させる働きをします。(リメイク時の創作者自身が安心したいという心理もあるのでしょうか?)

 その様な心理的な動きも、『どろろ』のリメイク時に、これらの設定が採用されている要因の一つではないでしょうか?

 子供にとって、両親・家庭は安心できる対象・場所であるのが普通ですが、毒親育ち・被虐待児とって、家庭は「戦場」です。

 いつ弾丸が飛んでくるか分からない場所。

 いつもびくびくと親の顔色を伺っていなければならない「戦場」

 これは、経験したことが無い方には、想像する事は出来ても、共感し辛い世界だと思います。NHKで「毒親特集」が放映されると、多くの被虐待児で有った方たちの共感の声とともに「育ててもらった親に向かって毒親とは失礼ではないか」と、お叱りの投書も多く届くそうです。また、被虐待児の方が成長し、友人・知人に意を決して悩みを打ち明けても、「気のせいでは…」「愛情が強すぎたのでは…」とたしなめられ、かえって気落ちするなどの話も良く聞きます。

 何故そうなるのかを考えてみると、

 これは単に自分の経験したことが無いものは想像することも、共感することも難しいという以外に、安全地帯であるはずの家庭に(他家であっても)そんな惨状が存在するという事実(ストレス・不安感)に耐えられない人も多くいるからでは無いかと思います。

 なので、

「お父さんは悪い人じゃなかった、魔神に誑かされていたんだ」

「民百姓の為、国の為に仕方がなかった」

 は、戦場になっている家庭がある、毒親がいるという現実を見ることが辛い方には、心的ストレスなく物語を楽しめる良い設定、落とし所になっているのではないでしょうか?

 でも、その設定を採用すると『どろろ』という物語の発端がひとつ無くなり、

 三層目のテーマや暗喩(反戦・反体制)は御座なりになって、

 一層目の貴種流離譚・英雄譚の成立に焦点を絞ることになるので、

 作劇的には楽だと思うのですが、『どろろ』という物語の持つテーマからは外れていきます。また、新アニメの様に「子供一人と国一つは釣り合わない」と、強者の倫理でハラスメント容認を言い出されると、もうそれは、手塚先生の『どろろ』では無いのでは? 構成する要素とテーマが削られ過ぎて? と思うんですよね、私は。

 

f:id:moke3:20210326154849j:plainf:id:moke3:20210326154932j:plain

 また、景光と寿海の着物の柄が作中で被っていて、

 寿海が医師になる以前に侍であった事を匂わせる台詞もあるので、寿海さんは景光父と同じ家中にいたのかな? その家の家紋かな? とか、醍醐の領地でこの様な柄が流行っているのかな? と、思ったのですが、 …物語終盤、景光の文様に縁取りがあるように見えて、私の気のせいかもしれませんが、この文様はあれに似ています。

 ナチスドイツの「鉄十字」

 装飾的なギリシャ十字にも見えますが、この文様をシャープにしてみると何となく形状が似ているような気がします。寿海も景光も侍、侍が着ている着物に「鉄十字」?

 軍人であった二人の男がこの柄を着ている。

 侍をストレートに現代の職種で考えると「職業軍人・官僚」ですから、そう考えると面白い文様です。

f:id:moke3:20210326155417j:plain

 まぁ、偶然、この様な文様になっただけで、特に意味は無いのかもしれません。序盤の文様は十字ではありませんし……

 しかし、この物語を描いているのが「手塚治虫」その人であることを考えると、ついつい、アレコレ推理してしまいますね。

  さて、

 景光百鬼丸の「影(シャドウ)」であり、最後に対峙する敵であることは「神話の法則の三幕構成で解析する『どろろ』」で書きましたが、この物語の景光という男の「コインの裏」は寿海です。虐待して子供の生を奪う親と、慈悲の心で慈しみ育て、手放し成長を促す親、という構図です。

  また、物語の外にも意外な比較対象が有って、「景光」の裏と言っていいキャラクターが、「目玉おやじ

 そう、「ゲゲゲの鬼太郎」のお父さんです。

 有名なキャラクターで説明も今更なので省きます。

 (鬼太郎を育てたのは水木さんと水木さんのお母さんだけども…)

 病で身体が崩れて目玉だけになりながら鬼太郎を育てて?いる彼が見守るための「目」だけになっているのが象徴的だと思うのですが、

 目玉のお父さんの場合は、

 親が身体を失う → 子供は生きながらえる(生を得る)

 醍醐景光の場合は、

 親が栄誉、富を得る(ために) → 子供は犠牲となって生(身体)を失う

 と、きれいにひっくり返った構造になっています。

 洋の東西を問わず、昔話にも多い物語構造で、お金・土地や名誉を手放すが子供(子宝)を得る。その反対に栄誉や富に執着した為、子や妻など暖かい関係性を失い、結果として没落する。などの物語構造です。

 後者は、大体、最後に己の欲心で破滅するんですよね。

 

どろろ」連載開始前後に「ゲゲゲの鬼太郎」「巨人の星」が大ヒット作であったことも含めて、いろいろ面白いなあと、思います。

寿海という男

  この「どろろ」という物語は“寿海”と言う一人の男の慈悲から始まった物語。

 そんな切り口で一節、

 

 百鬼丸の養い親である“寿海”は、

 

棄てられ水に流された赤子を拾う

  ⇓

養育する

  ⇓

信じて? 出発を見送る(刀を贈る)

 

 作中で上記の行動を取るのですが、養父の行動を養い子である“百鬼丸”も準えます。

 

簀巻きにされ水に流されかけた浮浪児(どろろ)を助ける

  ⇓

何くれと世話をやく

  ⇓

信じて? (刀を手渡し)別れる

 

 この物語の舞台となった乱世は、浮浪児も捨て子も珍しいものではなく、障害のある子供は出生時に流されたり、間引かれていた筈です。そんな時代に育つかどうか分からない「百鬼丸」を拾って養い育てることが出来た心情“慈悲”を持っている男が「寿海」です。

 そして、彼の養い子である「百鬼丸」も養父「寿海」の行動を準えた動きを作中で取っています。

 寿海が百鬼丸を助けたことがどろろを助けることに繋がり、どろろ百鬼丸とともに旅をしたことが、この「どろろ」という物語の第二部『虐げられた百姓の蜂起』に繋がって行く…

 一人の男の「慈悲」が、この物語の発端です。

 

 また、冒険王版で追加された「百鬼丸の奪われた身体でどろろはできている」と言う設定は、魔神(=運命)が百鬼丸に仕掛けた誘惑で、これに応じたら百鬼丸は実父「景光」と同じになります。(魔と言うのは直接悪を成すのではなく、誘惑し人を堕落させるものです)

 これは、作中での関門で「寿海への道」を進むのか「景光」の様になるのか、百鬼丸の選択が問われているシーンなのです。

 伝説マガジン№7:手塚調査ファイル第2回での二階堂氏の御指摘、

「あとから付加した設定は、どちらも相当に無理がある。前者は、百鬼丸どろろとの関係に緊張感を持ち込む効果はあったが、百鬼丸が体の一部分を取り戻す度に、今度はどろろの体が少しずつ失われるはずである」

 ですが、

 表層上のストーリーでは辻褄が合わなくても『人になる (人でなしにならない)』という本作のテーマには沿った場面で、百鬼丸の成長を描写する興味深いシーンの様に思います。

 旧アニメが第二部から「どろろと百鬼丸」になり、冒険王で再開した第二部で百鬼丸に物語の焦点が移動した為と思われますが、それに沿って上記のエピソード(百鬼丸の成長の関門)とライバル「賽の目の三郎太」が追加されています。

 打ち切りで連載終了にならなければ、これらの設定が生きた世界線が描かれたのか?

 歴史にifは無いので、描かれたかもしれない物語については想像力を逞しゅうするしかないのですが…

 

 ネットで、原作の寿海は怪異が出現したからと百鬼丸を追いだしてひどい。という意見を拝見したのですが、

 百鬼丸が旅に出ないと話が始まらないというのは置いといて、

 むしろ、自分の育て上げた養い子が必ず百鬼に打ち勝ち帰還する、と信じて出立させることが出来た「自立した大人」が寿海と捉えていた私にはこの感想は意外でした。

 信じているから手放せる、そんな慈悲の心を持った人に育てられたから、

 簀巻きの「どろろ」を放っておけなかった「百鬼丸

 四肢は欠損していたかもしれませんが、彼はこの作中で誰より「人間性」豊かに描かれています。彼の最後の試練がその旅路であり、その旅路が第二部の主人公どろろの旅路を照らし導く展開になったのではないかなと、時々夢想するのですけれども、

 

 いつものことですがオチないままでごめんなさい。

 どっとはらい

 

 

 子供を「手元におく、一緒にいる」こと以上に「自立させる、旅立たせる」

ことが成長には重要だと思うんですよ。

 一緒にいることが依存になってしまうと成長を阻んでしまうわけですから、

 まあ、旅立つことが出来るから「再会」もできるわけで…

 

 そんなことを考えると「うる星やつら」の諸星あたるの、

「好きな人をずっと好きでいるためにその人から自由でいたいのさ」

 は至言。