『どろろ』を巡る冒険或いは私的備忘録

「どろろ」を中心に「手塚作品」の記事を掲載。カテゴリーは【書籍・舞台・表現規制・どろろのあゆみ・どろろに影響を受けた作品・「神話の法則の三幕構成」で解析する「どろろ」・ブラック・ジャック、ロボトミー抗議事件・ジャングル大帝、黒人差別抗議事件】

【 マンガの中の障害者たち -表現と人権- 】 永井哲著 解放出版

 【 マンガの中の障害者たち -表現と人権- 】 

 永井哲著 解放出版 1998年7月2日発行

 マンガの中にいろいろな形で登場する “ 障碍者 ” その描かれ方を点検・分析しながら紹介した一冊。《 間違った内容を間違ったまま覚えてほしくない、本当のところも知ってほしい 》と、ろうあ者である著者が、収集した多数の作品を個々に検証。マンガの中の障碍者像を通して社会の「障碍者観」がどうだったのか? その作品が描かれた時代に障碍者がどのように見られていたのか? と、詳細に紹介しています。

《 そして、わかってほしいことは、障害者というのは、何も「特別な存在」ではなく、「聞こえない」「しゃべれない」「見えない」「歩けない」という特徴を持った、ただのあたりまえの人びとだということです。そうしたこともぜひわかってもらいたいと思ってます。でも、もともと「マンガ大好き!」ってとこから始まった本だから、そんなに難しくなるはずがないの! どうか読んで見てね!》と、堅苦しさは無く、楽しく読めますが、読後に考えさせられる学びの多い良書です。

 特に、創作に関わっている方には参考になる部分も多いと思います。

 

― 第三章 ここにも、あそこにも… さまざまな聴覚・言語障害者たち -

百鬼丸が、権力を求める父によって奪われたものは、たんに身体の手足や目耳と言ったものではないのです。人間としての生き方、生きる権利、家族や周囲の人びととのつながりや愛、その他さまざまな権利を根こそぎ奪われたのです。百鬼丸が四八匹の妖怪と、それに奪われた身体にこだわらざるをえないのは、それが自分の否定された「生きる」ということを奪い返すことにほかならないからです。そして、それこそが障害者、健全者といったワクを超えて、人間として最も大切な「生きる」ということ、自分は今生きている、だから生きる権利があるんだ!と主張することなのです。

 現代の障害者たちも同じなのです。「不幸な子を産まないように」と生まれてくることさえ否定されがちです。一生をほとんど外に出られないままに、家や施設に閉じ込められたまま過ごす人びとも少なくありません。自分たちも生きる権利があるんだと、「人間らしく」生きるんだと、障害者たちは街に、社会に出ていこうとします。その時に四八匹どころか、よりたくさんの「妖怪たち」がその前に立ちふさがります。医者の診療拒否、バスの乗車拒否、飲食店の入店拒否など、それらの「妖怪たち」を一匹一匹倒していくなかで「生きる」というものがはっきり見えてくるのです。

 ぼくが百鬼丸の闘いに気持ちをひかれるのは、生まれてすぐ捨てられ「生きる」ことを否定された彼が、一生懸命自分自身の生をその手に取り戻そうとする、その姿なのです 》

 

 

 さて、この本から離れて、気になっていたことを少し、いろいろ論争を呼んでいる議論に「百鬼丸は身体障碍者か?」というものがあります。 つか、あるんですね。

 これに関しては、手塚先生は「百鬼丸」を「和製サイボーグ・ミュータント」として描いていると思うので、この問いで問われている意味での「障碍者」としては描かれていないと、私は考えています。また、自身の奪われた「生 ( 権利 )」を取り戻す戦いに「健常者」「障碍者」であるかどうかは関係ないし、この作品のテーマはそこには無いと思います。

 ただ、美術品でも文学作品でも、見た後に「その人」がどの様に考えるか、その作品を「どのように」とらえるかは、文字通り「人それぞれ」です。

 どの人の心も微妙に、あるいは大幅に認知が歪んでいるので、感想・感じ方は似たものは有ったとしても、全て同じになることはありません。誰も多かれ少なかれ「認知 ( 鏡 )」の歪みがあって、「感想 ( 像 )」「どのように感じたか」は人それぞれ、一つ一つ違って当たり前だと思っているので、( 完全にフラットな鏡も、同じ鏡も無いので、結ばれる像はみんな違う、みたいな? )

「歪み」というと良くないモノのように思うかもしれませんが、そうではなく、その人の経験・学習 ( 持っている知識 ) その他諸々で、微妙に、あるいは大幅に、フィルターがかかっている状態、でしょうか? 良いフィルターであれば、その人の感想や解説は知見が広がる良いもの・面白いものになりましょうし、逆に、その人自身を苦しめるもの、偏見じみたフィルターもあるわけです。

 だから、作品を観て「こう感じた」「いや、違う」は、有って当たり前。

 皆が同じように考えている、100%一致するような「もの」があったら、それは奇妙で逆に歪であると思います。 -ので、「百鬼丸」というキャラクターをどう捉えるか、それは原作『どろろ』を読んだ、ひとりひとりに委ねられています。世に発表された作品 ( テキスト ) が、作者が意図しなかった「読み取られ方」をすること、作者が意図した以上の読み方をされることも少なくないワケですし ー

( ただ、『どろろ』は差別マンガである、「百鬼丸」は障碍者である、この漫画はケシカランといわれれば、私は「それは違う」と、いうと思います。ましてや「この様に感じるのが正しいから同じように考えて」とかいう輩がいたら「あんたはアホか」と返します )   

― なので、逆にその作品をどのように「読んだ」のか、「感じた」のか? は、その人の心の有り様を反映していて、それを否定されると「自分自身」を否定されたような気分になる、というのはよくある話で、板やらタイムラインが荒れる理由もその様なところにあるのでしょう。でも、それは感想が「人それぞれ」なだけで「自分自身」が否定されたワケではありません。意見や感想が食い違っただけで、それは当たり前のことです。だから、すり合わせが必要な事象なら、議論して落としどころを見つける、また、議論してより高い知見を得る、と言うのが建設的だと思います。

 -閑話休題

 

 さて、「百鬼丸」が障碍者であり、その様な作品は不適切であるという声が上がったのであるとしたら? どのような問いをたてて考えればいいのか?

 これは、当ブログで紹介した【 ブラックジャックロボトミー抗議事件 】【 ジャングル大帝、黒人差別抗議事件 】とリンクしている問題だと思います。前者は天才的な外科医の手術や実際にはありえない技術で作中の人物が「治療」されている事へ「デタラメを描くな」と抗議があった事件ですね。

 また、当ブログの悪書追放運動関連・抗議事件のまとめを読んで頂いてから、以下を読んで頂ければ何となく、参考になるのではと思うのですが、

 それでは、また遠い所からになりますが、

 

 2003年春の統一地方選時に視覚障害者団体から「ダルマに目を入れて選挙の勝利を祝う風習は、両目があって完全、という偏見意識につながりかねない」というクレームが入ったことで選挙勝利時の「ダルマに目入れ」が問題化。それ以降、ダルマを置く選挙事務所も減少傾向となっているそうです。これに関して、乙武氏のTwitterを記事にまとめたものが興味深かったので、ご紹介させて頂きたいと思います。

《「だるまに目を入れるという風習が差別や偏見に当たってしまうというのなら、世の中の多くのことがグレーゾーンになる」、「手を焼く」や「足並みをそろえる」などといった慣用句も、「手足のない僕が、これらの言葉を『差別だ』と騒ぎたてたなら、こうした表現も使えないということになる」》

《 障害だけではない。美肌を良しとする風潮を、アトピー患者の方が『偏見を助長する』と主張する。モデル=高身長という概念は『差別だ』と低身長の人が訴える。現時点でそんな話を聞いたことはないが、これだって『だるまに目を入れる』のと大差はないように思う。正直、言いだしたら、キリがない 》
 しかし、乙武氏は、障害者団体の問題提起を「考えすぎ、そんな意図はない」と受け流してしまうことについても異論を述べています。

《 幼少期にいじめに遭い、親にも受け入れられず、しんどい環境のなかで育ってきた方に、『障害なんて、乙武のように笑い飛ばせ』と言っても無理があるし、僕らが『それしきのこと』と感じることにも敏感に反応してしまう。『やめてくれ』と思ってしまう 》

《『いやだ』という人に『そんなの気にしすぎだ』と言うのはかんたん。でも、彼らがなぜ『いやだ』と感じてしまうのか、そこに気持ちを寄り添わせる視点は忘れずにいたい 》

 乙武氏は自身をネタにすることもあり、エイプリルフールに《 手足が生えてきた 》と呟いたり、Twitterを見た人をギョッとさせることも少なくありません。それは氏が自らの障碍を「ただの特徴」だと思っており、「障碍の有無」に価値観を置かない考え方ができているからだと思います。しかし、それは氏の心の有り様がそうなのであって、そのような考え方ができる方ばかりでは無いのが現状でしょう。

 最後に氏は《 幼少期に「障害がある」という理由でつらい思いをする人々が少しでも減るように、僕自身、尽力していきたい 》と、結んでいます。

 私は『ブラック・ジャック』『どろろ』が差別的な意図で描かれたケシカラン作品とは思いませんが、読んで不快に感じたり、傷つく方々の「心」の状態がどんな有り様であったのか、慮る視点は持っていたいと思います。

 ただ、残念ながら誰も傷つけない表現は無いです。

 もともと創作者は観測者の心に何らかの足跡 ( 傷跡 ) を残したくて創作していると思うので、( ゾーニングや配慮は無論、必要だと思いますが ) なので、最近多いアレコレは「木に寄りて魚を求める」みたいなものなんじゃないかと思うんですよ。「だれも傷つけない表現にしてください」と「ありえないもの」を要求して相手をずっと非難するのも「ハラスメント」ではないでしょうか、

 また、原作『どろろ』の「百鬼丸」が体を取り戻して喜ぶ場面を取り上げ、配慮が足りない作品だとみる向きもあるようですが、一部分だけ取り上げて作品をアレコレいうのは意味の無いことだと考えます。この作品で「五体満足で侍大将」である醍醐景光、「五体満足で村という共同体に属する普通の」人々の描かれ方を見ていたらいろいろ違って見えるのではないかと思うのですけども、

 寄る辺無い ( 非属の ) 身の上で人間以下とされている「どろろ」「百鬼丸」と、「所属する場所を持つ」普通の人々の「どちらが人なのか」「人にとって大切なものは何か」「何が人を人たらしめているのか」多くの問いかけが本作品中にはあります。そして、「五体満足」で「普通」で有るはずの人々の作中での描かれ方を見ていると「五体満足」であることが「人に成る」ための条件として作中で設定されているとは思えません。作中に出てくる共同体は百鬼丸の探していた「しあわせの国」として描かれていませんし ……

 卑近に書くと「百鬼丸どろろと、彼らを追い出す村人や醍醐景光と、どっちが〇ズなの?」という問いかけ …? うーん、平たくしすぎて話がズレてきましたね。

そろそろ、この辺りで失礼致しましょうか、

 

それでは、どっと祓い

皆さま、良いお年を!