手塚治虫原作『どろろ』のストーリーを「百鬼丸」のストーリーライン一つにまとめた本作は「呪われた子供の再生」という主題に焦点を当てて翻案されており、毒親育ちの子供ならこの舞台はいろいろと腑に落ちる点も多いのではないかと思う。
実の父である「醍醐景光」に生贄にされ、川に流された彼は、中有で五行上人に出会って修行を積み、十七年後に蘇る。この時点で彼は生きているとも生きていないともいえる状態で、再びこの世に生をうけるためには、体 ( 自分自身 ) を取り戻すために戦わなくてはならない。
身体四十八箇所を魔物に奪われ、一人では移動もままならない「百鬼丸」は戦火で妻と子を失って「こそ泥」で生計を立てていた「どろろ」に自分の旅の供を依頼し、二人の旅が始まる。
原作の養父「寿海」が出てこない本作で「百鬼丸」の養い親は「五行上人」「どろろ」の二役が担っている。無垢な赤子だった百鬼丸には、旅の途中で多くの辛い体験があり、実の母にもその「生」を否定され、「百鬼丸」は自身の「生」に疑問を抱く。
養父である「どろろ」はそんな百鬼丸を最後まで「生きて下され」と支え続け、
二人が育んだ信頼と養父「どろろ」の愛情が「百鬼丸」を再生、そして成長に導く。
この劇中では百鬼丸は無垢な幼児の状態で登場し、人の世の穢れや欺瞞は理解できない。村人から罵られても、裏切られても、怒りを表出するのはどろろで「若様、お辛いことばかりで …」と、どろろは百鬼丸のために涙し、理不尽に怒る。
そして、劇後半「血の滾り、感情」を取り戻した百鬼丸は己の受けていた仕打ちに気が付き、両親への「怒り」が表出される。
この流れは毒親育ちの子供たちが「家族・両親」が異常だと気付かず、成長し他家と比較することできるようになってから家族・両親がおかしいと気が付き、自身が受けた虐待に対して「怒り」を表出することが出来るようになる流れに沿っている。
怒りに我を忘れた「百鬼丸」は両親への復讐の為、父母のもとに駆け付け、復讐を果たそうとする。しかし、ギリシャ悲劇でも語られるように「親殺し」を果たすことは自身の破滅も意味するので、手塚原作では「親殺し」は果たされず百鬼丸は成長し「物語の外」に旅立ってゆく。
この劇中でも「百鬼丸」は再生と成長を果たし旅立つ。
初演と二回目の公演では旅立つ前に本作ヒロインの「橘姫」から橘の花を贈られているが、三回目の公演では咲き誇る花の前で「橘姫」の首飾りが手渡された。
中国では果実と玉が妻問いになるので「百鬼丸」の帰還と明るい将来をより強く印象付けるための演出、とは穿ちすぎか、
本公演は2004年、2009年 ( 手塚治虫生誕80周年記念公演 )、2019年 ( 生誕90周年記念公演 ) と、三回上演されている。
「どろろ」がおじさん、「百鬼丸」が赤子と、大きくキャラクターが改変された本作の好みは分かれると思うが、『どろろ』ファンなら観て損は無い良質の物語が在る。