『どろろ』を巡る冒険或いは私的備忘録

「どろろ」を中心に「手塚作品」の記事を掲載。カテゴリーは【書籍・舞台・表現規制・どろろのあゆみ・どろろに影響を受けた作品・「神話の法則の三幕構成」で解析する「どろろ」・ブラック・ジャック、ロボトミー抗議事件・ジャングル大帝、黒人差別抗議事件】

どろろのあゆみ【9】

 1970年代、第二次世界大戦後の経済成長がオイルショックにより終わりを迎え、米ソ冷戦も緊張緩和を見せる中、1973年には泥沼のベトナム戦争が終了します。これによりアメリカの軍事力の限界が露呈、ニクソンショックによりドル支配にも陰りが見えはじめます。中国が代表権を得る、イラン革命、と国際社会に多極化が見られる様になり、一つの時代の終了と新たな始まりを予感させる時代「戦後からポスト戦後へ」の到来でした。
 日本は高度成長が終わりを告げ、経済は安定成長に移行。
 1970年には大阪万博が「人類の進歩と調和」をテーマに掲げ開催されています。
 1970年の安保闘争を意識した学生運動が、前年・1969年の東大安田講堂占拠事件の失敗で衰えを見せる中、大衆の異議申し立て運動に、ベトナム反戦運動・環境問題・ウーマンリブなどの政治運動が現れ、人権意識の高まりに伴う運動も活発になってきます。
 また、戦後の消費主義・科学への期待など明るい雰囲気の中で成長した世代が、しらけ世代と言われながらも、この時期に青春時代を迎えます。この世代からは、その後のオタク文化を担う人材が多く輩出されており、これらのオタク第一世代がその後のオタク文化を牽引していく事となります。

 終末と新たな始まりを感じさせる世情の中、
 1973年、手塚先生が漫画家生活30周年を迎えたこの年、虫プロ商事に続いて、虫プロも倒産し、マンガ・アニメ史に於いても一つの時代が終了しました。
 この年にはベトナム戦争終結、出版では小松左京氏の『日本沈没』が大ヒットし、翌年映画化。『ノストラダムスの大予言』も出版され大きく話題となり、終末・オカルトブームが到来しています。
 戦後の少年マンガ誌とともに成長してきた世代は入れ替わりつつありましたが、この時期には、次の世代がマンガ読者として定着し「週刊少年ジャンプ」は次世代の読者の取り込みに成功、この頃より部数を大きく伸ばしています。
 また1973年に手塚治虫漫画家生活30周年記念企画として『ブラック・ジャック』が「週刊少年チャンピオン」で連載開始。当初は数回の連載で終了する企画でしたが、徐々に人気が加速、手塚治虫復活を遂げるヒット作へと成長します。
 1974年には『W3』事件以来疎遠となっていた「週刊少年マガジン」に手塚先生が『おけさのひょう六』を発表。その後マガジンで『三つ目がとおる』連載開始。超古代史・オカルトが注目を集め始めていた時期で、これもヒット作となります。
 1977~83年には『スターウォーズ』が世界的に大ヒットし、その影響でSFブームに、この流れは後の大衆文化に大きく影響を与えます。また同時期に『宇宙戦艦ヤマト』のヒットでハイティーンを巻き込んだ、第二次アニメブームも本格的に始まります。

 そして、1980年代に入ってからもマンガを掲載するメディアは増加、これにより趣味・嗜好によるマンガジャンルの細分化はさらに進んでいきます。
 80年代前半には吾妻ひでお先生が人気作家となり、ロリコンマンガがブームに、
 手塚作品では82年『プライムローズ』連載開始。
 また、ニューウェイブと呼ばれた時代の旗手たちが80年代初頭に現れ、この流れはその後サブカルと呼ばれた大衆文化に結実していきます。
 マンガでは大友克洋先生が脚光を浴び始めた時期がニューウェイブの始まりでしょうか、『宇宙戦艦ヤマト』から始まった一連のアニメブームが若者文化 ( サブカルチャー ) として認知され定着したのも70年代を経て80年代でしょう。現在のサブカルは80年代に各ジャンルのベースが確立されており、それはアニメ・オタク文化にも言える事だと思います。
 

 また、スペースインベーダーの流行からゲームブームが一般化、1983年7月15日任天堂が家庭用ゲーム機「ファミリーコンピューター」発売。
 これによりテレビゲームが若者文化として本格的に定着。1986年には『ドラゴンクエスト』がスクエアエニックス ( 旧エニックス ) から発売、社会現象ともいえる大ヒットとなります。
 その翌年、1987年『魍魎戦記MADARA』連載開始。
どろろに影響を受けた作品」でも紹介しましたが、この一連の “ MADARA・SAGA ” と呼ばれる作品群は1980~90年代オタク文化の一面を代表する作品で「運命の双子」「前世・転生もの」( この連載一年前に『ぼくの地球を守って』が連載開始、オカルトブームもありヒットしています )「過剰な描き込み」「創り込まれたバックストーリー」「膨大な裏設定」など、当時の流行が盛り込まれています。また『魍魎戦記MADARA』の同人界を巻き込んだメディアミックスによるヒットは革新的で、その後のオタクコンテンツのマーケット展開に影響を与えたと思います。

 さて、
『魍魎戦記MADARA』連載開始から一年後の、1988年に「どろろゲームブック」発売、翌年には、1989年「どろろ・PC版」ゲーム発売。
と、当時 “ 新大陸 ” であったゲーム業界で『どろろ』関連商品が発売されます。
 私見になりますが、この『どろろ』再発見には『魍魎戦記MADARA』で、大塚氏が「“どろろ”が元ネタ」とあちこちで喧伝して下さったことも大いに影響があったのではないでしょうか、

 後年、
《 妖怪に奪われた生身の体を一つ一つ取り戻す、という「どろろ」のストーリーの骨子を流用してファミコン漫画のシナリオを書いたら単行本が250万部も売れた。
( 中 略 )
どろろ」のリメイクを試みている、他にも同じことを考えている漫画家を何人か知っている。しかし、僕のファミコン漫画を含めて「どろろ」は越えられない、複製は複製でしかない。オリジナルとしての手塚治虫に及びようがないことを引用者である僕は知っている 》
と、大塚英志氏が語ったように、『どろろ』と言う作品のリメイクを試みようとしている創作者は今も昔も多くいらっしゃった様子です。

どろろ』リメイクには差別用語・身体表現などの表現規制問題が絡むため、1980年代後半になっても厳しい状況の中で「ゲーム」という新しい分野でのリメイクが試みられたのではないかと考えられます。

 しかし、
 手塚先生が身罷られた1989年、出版界・オタク界を含めて創作物を扱う業界全体を激震させる事件が起こります。

 

 1988 ~ 89年「連続幼女誘拐殺人事件」
 この事件の直前に、最高裁は青少年条例で有害と指定された「図書」の販売規制を合憲と判決。80年代末までに長野県を除く全都道府県で青少年条例を制定。
と、青少年の健全育成を大義名分に創作物の規制が加速していた時期でした。
 ゲームやマンガ・アニメを含む創作物を取り巻く環境が厳しくなっている中で起こった、この事件により、創作物の表現・販売規制は因り厳しいものとなって行きます。

どろろ』成分は少なめですが、続きます。