「どろろ」を巡る冒険或いは私的備忘録

「どろろ」の記事を掲載しています。ほぼ、それだけなので、「たわし」しかない雑貨屋状態です。挙句の果てに新アニメの記事は殆どありません。「たわし」といっても亀の子しか置いてないんです、すみません状態です。書いてる本人も如何なものか… と思ってるので、どうか御容赦下さい。

悪書追放運動まとめ その4

 前回までのまとめで1950年前後から1960年代後半までの「悪書追放運動」の動きを追ってきたが、ここで少し戻って1950年代末「少年漫画誌」の振り返りから始めたい。

 

 1950年代後半は「週刊誌」の創刊が続いた時期で、1956年『週刊新潮』が日本初の週刊誌として登場。1958年『週刊明星』、1959年『朝日ジャーナル』『週刊文春』『週刊平凡』と、創刊ラッシュが続き、1959年3月17日には『週刊少年マガジン』『週刊少年サンデー』が同時に創刊する。また、この頃主流だった月刊漫画誌は衰退し、廃刊になるものも多く出てきた。児童数の減少、テレビの普及によるスピード化で週刊誌への移行が進んだことが原因として挙げられるが、『僕らが愛した手塚治虫・Ⅰ』 著:二階堂黎人【立ち読みが週刊誌隆盛を加速】、の中で「月刊誌は付録付きのため、ばらけないように本誌ごと紐で括ってあった。だから、週刊漫画雑誌のように立ち読みはいっさいできなかった。逆に言えば、<少年サンデー>や<少年マガジン>は、買わなくても、書店などで何とか立ち読みができたのである(けっこう店主に怒られたが)。これは、非常に重要な事柄である。少年週刊誌が月刊誌に取って代わった理由の一つがそれだからだ」と、二階堂氏が述べている様に、当時の子どものお財布事情が週刊誌を歓迎したことも大きな理由の一つであるようだ。

※『週刊少年マガジン』『週刊少年サンデー』の発行年月日は1959年3月26日と4月5日となっており、『週刊少年マガジン』のほうが10日ほど早いが、実際には3月17日に同時発売されている。『戦後マンガ50年史:竹内オサム著』によれば、「かねてから、情報をリークしあってきた両社であったが、『週刊少年マガジン』側が先を越そうする動きを察知して、『週刊少年サンデー』側が発売を早める動きをみせた。またマガジン側も牽制する。こうした先陣争いが調整され、結局この日の同時発売におちついたのだという」と、日本初の週刊少年誌創刊に「講談社」「小学館」という二大出版社の競争という面も加わった事情が有った。

  その後、『週刊少年マガジン』『週刊少年サンデー』の二誌は競い合って部数を伸ばしていく。しかし、1965年に内田勝氏が三代目編集長に就任、『週刊少年マガジン』は貸本漫画で人気のあった劇画の掲載に力を入れ部数を伸ばし、1970年代初めには『週刊少年サンデー』の発行部数に大きく水をあけ150万部を突破する。その後『少年サンデー』も劇画を積極的に掲載。二誌ともにやや大人びた路線、ともすれば青年誌の様な紙面構成になって行く。その様な販売競争の中、後発の『少年ジャンプ』は、二誌が取りこぼした小・中学男子を取り込んで部数を伸ばした。

 

 月刊誌『少年ブック』の編集者に引き継がれて創刊された『少年ジャンプ』は、当初隔週でスタートした。この少年誌は先行の『週刊少年マガジン』『週刊少年サンデー』が読者の年齢層を上げていった隙間をつくように小・中学生をターゲットとして部数を伸ばした。成功の秘訣は、既に人気のある作家を起用できなかった為、新人の発掘とマーケットリサーチに力を入れ、人気投票を利用したリサーチ・作家の専属を徹底した点にあった。こうした編集方針のもと『少年ジャンプ』は永井豪ハレンチ学園』と本宮ひろ志男一匹ガキ大将』の二大ヒット作品を世に送り出すが、『ハレンチ学園』は当時の少年マンガにしては過激な表現が議論を呼び、PTA・教育関係者などから多くのクレームが寄せられた。

※『ハレンチ学園』が連載された1960年代後半には「8時だよ!全員集合」などの番組が人気を博しており、「ちょっとだけョ、あんたも好きねェ」と加藤茶氏の台詞が流行語になるなど性的なお笑いがブームとなっており、子どもマンガにもその影響が出ていた。

 

 そして、『朝日新聞』が1970年1月8日付・連載記事『マンガの世界』で「うわぁハレンチ」の見出しで本作を紹介。本屋の店先で小学生の男子たちが男性週刊誌のヌード写真をおどおどしながらめくっているのを見て、彼らにも明るいエロティシズムをと考えたのが創作の動機と語った永井豪氏のコメントを掲載している。9日には『毎日新聞』が『性の早熟と若者たち』で『ハレンチ学園』を紹介、どちらも一方的に非難するような記事ではなかったが、両紙が大きく取り上げたことによって、本作を巡る騒動は拡大を見せた。

 『ハレンチ学園』は1968年から連載開始、すぐに『少年ジャンプ』を牽引するヒット作となるが、上記の様に新聞大手二誌が記事内で『ハレンチ学園』を取り上げたことで、世間の衆目を集めPTA・保護者のパッシングを受ける事態となった。主に問題視されたのは女性キャラクターの裸やスカートめくりなどの性描写、教師を性的に奔放で自堕落な人物として描いた事(教師批判)の二点である。

 その後の動きは、『戦後マンガ50年史:竹内オサム著』によると、『毎日新聞』が1970年1月17日付の記事『ハレンチ・マンガ どう見る』で、三重県四日市市の中学校長が本作品を問題視し、県青少年保護条例審議会に有害図書(成人向け)指定するように働きかけたことをレポートしている。これは実現には至らなかったが、『週刊新潮』『週刊文春』などの週刊誌、NHKの報道番組でも取り上げられ、三重県の県青少年保護審議会と青少年育成県民議会は、連名で集英社へ「俗悪本を発刊しないよう」要望書を送付、校長会やPTA・婦人会にも追放協力を呼び掛けた。同年には福岡県でも問題となり、『少年ジャンプ』編集部へも、各地のPTA・教育委員会から多数の苦情が寄せられた。

 むろん批判ばかりではなく擁護する声も多く、『毎日新聞』は1970年1月19日付・社説『子供とハレンチ・マンガ』で大人の価値観で規制することに疑問を投げかけ、同年2月6日には『ハレンチ・マンガ好きな子でも心配はない』との見出しで「東京子ども教育センター」の調査報告をもとに、ハレンチ・マンガと精神発達の阻害との関連性は薄いという結果を報告している。また、教育評論家の阿部進氏(カバゴン先生)は会合に参加し議論をするとともに、テレビ出演して擁護を行った。同作品を応援する読者のお便りも編集部に多数届けられたという。そして、永井豪氏本人もテレビのワイドショーに出演、学校関係者からの説明要請に応じるなど積極的に対応している。

 氏は後年、『デビルマンは誰なのか:永井豪著・講談社』で、「女生徒に今で言うセクハラをしたり、ひどい暴力を振るったりする。これを見た教師たちの一部は、ある種の恐怖を感じたのではないだろうか。おそらく、自分の中に隠し持っている反道徳的な欲望を見透かされ、暴かれてしまったような気がしたのではないだろうか」と語っている。また、評論家の石子順造氏や当時、編集部員の西村繁男氏も、不道徳な教師を描写し、教師という権威を批判・からかいの対象にしたのが性描写よりも問題視されたのではないかと推察している。

  この『ハレンチ学園』が社会問題となった一連の騒動が代表する様に、1970年前後は特定の連載マンガがPTA・教育関係者に問題視され、それを掲載した漫画誌が次々と「有害図書」に指定されるという事件が連鎖して起きていた。『少年マガジン』『少年サンデー』『少年ジャンプ』と多くの週刊少年マンガ誌が切磋琢磨し部数を伸ばし、マンガのジャンルにも「性」「暴力」など新しいテーマを取り扱ったものが出現したことも理由の一つであるが、戦後の高度成長とともに娯楽がテレビ、マンガと視覚化し、情報量も増加していく中、大人世代と新世代の青少年との世代間のギャップが大きくなったことも関係しているのではないだろうか? これは、ゲーム・ネット・スマホ…と、新たなメディアが誕生するたびに規制が問題となる現代にも見られる、古くて新しい問題である。