「どろろ」を巡る冒険或いは私的備忘録

「どろろ」の記事を掲載しています。ほぼ、それだけなので、「たわし」しかない雑貨屋状態です。挙句の果てに新アニメの記事は殆どありません。「たわし」といっても亀の子しか置いてないんです、すみません状態です。書いてる本人も如何なものか… と思ってるので、どうか御容赦下さい。

悪書追放運動 その6 【貸本劇画の衰退】

 戦後、雨後の筍の様に増えた「貸本屋」の全盛期は1955年から58・9年頃の3~4年間と言われている。まだ高度成長期の入り口で、戦後の傷跡があちこちに残っていた時代で、当然、公共図書館も整備されておらず、テレビも普及していなかった。戦後の赤本マンガブームとともに貸本屋にもマンガが置かれるようになり、当初は青年をターゲットにしていた貸本屋の顧客に子供も増加、貸本屋は「町の図書館」としての役割を持つようになった。そして、戦後、娯楽に飢えていた人々の需要に呼応して、全国(特に大都市周辺で)「貸本屋」が増えていく。(1950年代後半の最盛期には全国で二万軒から三万軒の貸本屋が有ったと言われ、都内だけでも3000軒と隆盛を誇ったが、その後は衰退の一途をたどり1970年代には全国で3500軒に落ち込んだ)

 

 暴力表現を理由にした(不良図書)マンガ排斥運動は1950年代後半に貸本マンガに掲載された『劇画』にも波及していった。

 発端は『貸本』は「誰が触ったか分からない本を子供同士が回し読みしているのは問題がある」と、貸本屋の業務形態上の衛生問題が母親団体間で問題とされたことである。『竹内オサム・戦後マンガ50年史』によると全国貸本組合連合会は、厚生省公衆衛生局や国立国会図書館などに聞き取り調査を行い、指摘されたような事例の報告は無いことを確認、「一部の主婦」による「神経質な発言に過ぎなく、何ら科学的な論拠のないものである」と結論づけ、公衆衛生局に「自発的に衛生処置を考究したい」旨を申し出た。

 その後、内容・ストーリーへの批判が増加。『貸本』には当時人気が高かった『劇画』が多く掲載されており、その内容が「暴行・障害・殺人など人権を軽視している」「善悪無視のマンガが増えている」と批判の対象になった。

 1959年には、貸本屋の団体である『山梨読書普及協会』が甲府警察署少年課と協力して貸本漫画の実態調査を施行し、その結果、問題の漫画を店頭から排除。特に問題があるとされたのが『顔』『街』などの劇画誌で、白土三平氏の『忍者武芸帳』も排除の対象となった。『山梨読書普及協会』が悪書の基準としたのは「①出版名、住所がハッキリせず本に電話番号がのっていない。②責任者がつねに変わっている。③色調がどぎつく、言葉づかいがでたらめ。④暴行、傷害、殺人など人権を無視している」等である。その後、協会ではこれらに該当する「不良図書」が業界の存続にも影響を及ぼすと考え、仕入れごとにチェックし、上記に該当する作品を締め出すこととなった。1955年には「悪書追放運動」がピークを迎え、母の会による「焚書」騒動も勃発、青少年条例制定の動き…、とマンガ・児童書を取り巻く環境の急激な変化にあって、貸本業界が「悪書追放運動」の矛先を逸らすために先手を打って取り締まり強化に動いた格好である。この動きは同県内の新刊書店にも波及していく。

  しかし、業者・出版業界の自粛活動もむなしく、『マンガ・劇画』『貸本』への批判は止むことが無かった。『赤旗』(1963年5月26日)は「子どもマンガの“人づくり”」記事内で貸本屋のマンガ(忍者武芸帳白土三平著)を取り上げ、「なんと、死体千百七十一個、胴体を離れた首八十五個も出てくるのです」と残酷シーンをカウントして非難している。また、被差別部落民を主人公とした『血だるま剣法平田弘史著』もその残酷描写で同記事に挙げられている。

  1950年代後半から60年代前半にかけて『悪書追放運動』の影響を受けて『貸本・劇画』も受難の時代であり、各地で排斥運動が起こっていた。また、テレビの普及、週刊誌創刊、経済成長とともに「借りる」から「買う」にシフト、公共図書館の整備など、時代の流れもあり、『貸本屋』は街から姿を消した。しかし、貸本劇画で支持を得ていた人気作家たちは、創刊ラッシュを迎えていた週刊少年誌(主に『週刊少年マガジン』『週刊少年サンデー』)に移動、週刊少年誌が新たな活躍の場となった。全共闘運動が盛んだった時代、「右手に(朝日)ジャーナル、左手に(週刊少年)マガジン」というフレーズで大学生・青年層に『週刊少年マガジン』は支持を得ていた。「大学生がマンガを読むなんて世も末だ」と揶揄する声もあったが時代は変化していた。

  しかし、学生運動の衰退とともに大学生青年に支持されていた劇画も冷え込みを見せ始め、人気を誇っていた劇画雑誌も急激に部数を落としていく。

 その後、1970年代後半は1978年連載開始の「うる星やつら」が代表するようにライトでポップな作品が新たな漫画として出現、劇画は重く暑苦しいものとして読者であるティーンから忌避されるようになる。1979年には『週刊ヤングジャンプ』1980年に『週刊ヤングマガジン』と新しい青年漫画雑誌の創刊、ニューウェーブの台頭と、時代の波の中で、従来からある劇画は淘汰されてゆく。その後「ジャンルとしての劇画」は現在に至るまで低迷を続けているが、「復刻版」などで名作の掘り起こしは続いている様だ。