「悪書追放運動」とは?
Wikipedia、「悪書追放運動」より、
《 悪書追放運動 ( あくしょついほううんどう ) とは、ある書籍や文書を「悪書」と定義し排除しようとする運動である。 権力者による言論弾圧の一環として行われる他、言論と表現の自由が保障されている社会においても市民運動としてなされる場合もある 》
《 日本で「悪書追放運動」と言えば、1955年 ( 昭和30年 ) に社会問題にまで発展したマンガバッシング事件を指すことが普通である。一般的には、表現規制推進派の民間団体が主導した事件だと言われているが、実際には、表現規制に向けて政府のほうが先に動き出しており、また、警察が陰に陽に介入したり、裏から操っている面もあったので、行政、警察とマスコミ、表現規制推進派の民間団体が協同して起こしたというのが実態である 》
どうにも、この「悪書追放運動」は今も潜行して続いている気がしてならない。
私が、オタクとして活動していた時期に「埼玉連続幼女殺人事件」に端を発する「オタクパッシング」が勃発、渦中にいたこともそう感じる理由に有るのだろうが、今回「悪書追放運動」を調べてみて、もうこれは戦前から現在まで、ずーっと継続している何かなのではないだろうか、と言う思いが拭い切れない。
もともと「表現の自由」は、わが国にはなかった、戦後初めて憲法で保障されたものだ。そして、戦後GHQのプレスコードは有ったものの、これは占領が終了した1949年には終了している。突然ポンと「表現の自由」はやってきたのだろう。
※明治憲法における人権保障には『法律の留保 ( 国民の権利を行政権によって侵すことは禁ずるが、立法権によって侵すことは認めるという原理、主として憲法学上用いられる観念 ) が伴っていた。戦後、現行憲法下の基本的人権は、この意味での「法律の留保」の制限を受けていない』
戦後焼け野原の中で、新人「手塚治虫」の『新寶島』が大ヒットし、赤本ブームが始まり、俄か出版書店が大阪・松屋町問屋街に建ち並んだ。焼け野原であった東京の大手出版社を尻目に、露店・駄菓子屋でも販売された赤本漫画は子供たちに受け入れられ、大量に販売・消費された。これは大衆娯楽雑誌も同じで、同様に戦後娯楽に飢えていた一般大衆に受けた。どちらもにわか出版社が粗製乱造した質の悪さは有ったものの、
そして、戦後の復興とともに淘汰されていく。
行政は、戦前の「国家総動員法」「出版検閲」が無くなり、出版物を取り締まる術を失うが、GHQのプレスコードが終了した1949年の翌年には 「青少年条例」の制定に動き出している。PTAや母の会の運動が激化するのは1954~1955年、悪書が青少年の健全育成の妨げになる、取り締まらねばならんと、警視庁の防犯部との連携も運動の初期からあった。
出版社・書店等業者の「品質の悪い不良書籍の淘汰・業界の自浄」という思惑と、「青少年を守るため悪書を追放」というPTA・母の会・学校関係者の思惑と、「青少年条例」の制定、特に出版社の9割がある東京都で、という行政・警視庁の思惑は、良い感じに合致したのだろう、足並みの揃い方を見ているとそう思う。
出版社の動きは自分たちの業界を守る為であり、行政処分の先手を打って自主規制に動いている。しかし、条例の制定には強固な反対運動を展開しており、現在も条例の改正案が出る度に反対運動・異議申し立てはなされている。
戦後、行政は、戦前有った「検閲法」などの表現を規制する法を失ってしまった、そして新たな拠り所、有体にいえば「利権」を取り戻すために影に日向に動いていた。とも、見える。利権とは金銭云々だけではなく、「取り締まる」ための法律、権力もそうだろう。
さて、悪書追放運動のその後はWikipediaには下記の様に記述があるが、
《 1955年 ( 昭和30年 ) の悪書追放運動が焚書までエスカレートしてから、その後どのように収束していったのかを明瞭に書いた文献は見当たらず、明快に説明することは難しい。ただ、この悪書追放運動は、その後も止むことなく、1950年代の後半まで続いた 》
実際は『ハレンチ学園』のハレンチ・マンガ騒動や、残酷描写が問題となり『アシュラ』が「不良出版物」として指定されるなど、1970年代に入って、週刊少年マンガ誌が部数を伸ばすにつれて、新たな「不良 ( とされた ) 図書の排斥」がマスコミも巻き込んで起こっており、「青少年の健全な発達のため」との旗印のもと「青少年条例」の積極活用も継続している。
この時期以降「青少年に有害な」ものはマンガ・雑誌以外のものもずいぶんと淘汰されていった。時代の変化も有ろうが、通学路に有ったいかがわしい看板やいかがわしい本を売る自動販売機も消えていった。むろん「悪書」として絶版・販売停止になるマンガも後を絶たない。1980年代後半から1990年代にかけてのオタクパッシング・表現規制も形を変えた「悪書追放運動」の様に思える。それら騒動・運動では、毎回「青少年 ( 子ども ) の健全な発育のために」との文言が旗印の様に振り翳されているが、政府も民間団体も、本当に「子どもたちのために」動いていたのか? 疑問は尽きない。『ぼくはマンガ家』で、手塚治虫氏が《 なにか根本的な問題の検討が欠けている。それは、現象面のさまざまな批判より、「なぜ、子供は漫画を見るのか?」という本質的な問題提起である 》と指摘したように、主役である青少年 ( 子ども ) を置き去りにして本質的な議論からは遠ざかっている様に思える。
これらの運動の後、1985年には、有害指定された図書を自動販売機で販売したとして岐阜県青少年条例違反に問われた事を販売業者が不服として、指定制度は検閲にあたり「表現の自由」を侵害するとして法廷で争ったが、1989年、最高裁が青少年条例により有害と指定された「図書」販売規制を合憲と判決している。
この判決のあと、性的な写真集とともに自販機の販売品目であった「エロ劇画誌」も批判にさらされ急速に姿を消す。そのような書籍を自販機で売ることの是非はともかく、この判決で「合憲」とされた事の意味はきわめて重いと思う。当ブログの【 悪書追放運動・その1 】で取り上げた警視庁防犯部長の《 その性格が十九世紀的な、いわば国家に先行する純粋に個人的な自然の権利であるとは、到底考えられない 》《 憲法に保障された自由を主張できる本来の出版物のラチ外にあるものとすら考えたい 》と、不良出版物は出版・表現の自由が保障されなくても問題なく、その自由は制限されて当然という見解を示していた事と併せて、マンガ・アニメなどのサブカルチャーを愛するものには重い現実だと思う。
「青少年条例」の改正、表現規制の強化、今後も幾度となく「青少年の健全な発達のために」と、善良な文言を掲げて浮上してくる問題の裏に「どのような意図があるのか」を注視していきたいと思う。
今回、いろいろ調べていて大衆娯楽雑誌を多く出版していた講談社さんも「悪書追放運動」時に、行政にボコボコにされていたのを知りました。講談社さんはコミックマーケットが急成長していた時期 ( 1980後半~1990前半くらい? ) に、「二次創作を容認はできませんが、多くの創作者のゆりかごになっている “ コミックマーケット ” という場との共存を講談社は考えていきたいと思います」とコミケカタログに広告を出して下さったんですよね。その頃はオタクパッシングにもめげず、「C翼」「星矢」の二次創作が華やかなりし頃で、ジャン〇編集部に「 … 陽一先生がかわいそう。みなさん、これ以上キャラを傷つけないでください」とか書かれていた時期でしたので、比較云々ではなく「講談社、太っ腹だなぁ」と思っていました。
「黒人差別をなくす会」の「手塚漫画の黒人の描き方は差別を助長するから、このような作品での営利活動を停止してほしい」との要求に1年に渡り協議を続け、最終的に解説文を付けた形で全集の出版の継続を決定して下さったことも含めて、このようなところでアレなのですが、お礼をー 「講談社さん、ありがとうございます」