『どろろ』を巡る冒険或いは私的備忘録

「どろろ」を中心に「手塚作品」の記事を掲載。カテゴリーは【書籍・舞台・表現規制・どろろのあゆみ・どろろに影響を受けた作品・「神話の法則の三幕構成」で解析する「どろろ」・ブラック・ジャック、ロボトミー抗議事件・ジャングル大帝、黒人差別抗議事件】

『どろろ』は妖怪マンガか? 【 妖怪の理、妖怪の檻 】

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【 妖怪の理、妖怪の檻・京極夏彦著 角川書店、2007 】

― 本当はみんな知っている。“ 妖 怪 ” とはなんなのか。

《 知っているようで、何だかよくわからない存在、妖怪。それはいつ、どうやってこの世に現れたのだろう。妖怪について深く愉しく考察し、ついに辿り着いた答えとは。全ての妖怪好きに贈る、画期的妖怪解体新書 》

 私たちが普段何気無く使っている “ 妖怪 ” という言葉の成立・概念について、博覧強記な著者・京極夏彦氏が、学術・伝承・美術・マンガなどサブカルチャーから民俗学鳥山石燕、井上圓了、江馬務、藤澤衛彦、柳田國男水木しげる好美のぼる、大伴昌司と、多彩に引用し “ 妖怪 ” という不確実で不定形なモノを縦横無尽に解き明かす “ 妖怪 ” 好きにはおすすめの一冊です。

  本書の構成は、

・妖怪という言葉について

 妖怪という言葉の歴史的変遷

・妖怪のなりたちについて

 現代の妖怪概念はどのように形成されたのか?

・妖怪のかたちについて

 特に、現代における “ 妖怪のかたち ” デザイン・キャラクター化に水木しげる氏の果たした役割は大きく、その影響と功績について詳細に語られている部分は “ 妖怪好き ” 必読。書肆一覧と妖怪年表も詳細で、文庫化され入手しやすくなっているので興味の有る方は是非、

 

【 妖怪の理、妖怪の檻・P250 】

《 漫画の神様とまで謂われる手塚治虫にも「どろろ」( 1967 - 1968 )という傑作漫画があります。『どろろ』にも “ 妖怪 ” はたくさん登場します。さすがは手塚治虫、江戸の化け物絵などから材を採り、オリジナルながらも本物の “ 妖怪 ” を装った、いかにもなフォルムのキャラクターが登場しています。

 ただ、それでも『どろろ』はどこか “ 妖怪 ” 漫画らしくない佇まいなのは、やはり作者である手塚の顔が透けてしまうこと―― テーマ性、ドラマ性が前面に押し出されていること―― 手塚作品として完結してしまっていることに由来するのでしょう。『どろろ』は手塚作品としては申し分のないでき栄えではあるのです。しかし、作者である手塚治虫は現代人です。登場する “ 妖怪 ” が、その手塚の作家性を色濃く感じさせる「手塚キャラ」であった場合、それはどうしたって前近代的ではあり得ない、ということになります。

 また、隙のない物語性は、時に作品から通俗性を剥奪してしまう場合があるのです。

 

C・妖怪は「通俗的」である。

という条件を満たすうえで、『どろろ』の物語は上手くでき過ぎているわけです。

 崇高なテーマや高尚な芸術性、カッコ良さといったものは、あまり “ 妖怪 ” と相性の良くないもののようです。水木作品の場合は「そうしたものを感じさせないようにする」という逆向きの計算が―― 作品を外に開く周到な配慮が―― なされているわけです。さらに、『どろろ』の場合、作品の舞台が戦国時代だということも考慮するべき事柄なのかもしれません。その時代に “ 妖怪 ” はいません。時代設定は戦国、デザインは江戸、概念は近代という取り合わせは、やはりちぐはぐな印象をもたらします。精密な設計で成り立っている手塚漫画において、読者は通俗的 “ 妖怪 ” 概念を排除せざるを得なくなるのです。

 また、戦国時代を舞台にしたせいで、

 

B・妖怪は「民俗学」と関りがある。

という条件も満たされにくくなってしまいます。

 歴史学ならともかく、民俗学は戦国時代を直接的には扱いません。加えて、いうまでもなく古過ぎる時代設定はノスタルジーを抱かせるのに相応しいものではないのです 》

 

 

どろろ』は中世日本を舞台とした妖怪マンガ、だというのが、一般的な認識だと思うのですが、京極夏彦氏が語っているように、「どこか “ 妖怪 ” 漫画らしくない佇まい」だと感じた読者も、私の様に少なからず存在したのではないかと思います。

 

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【 アニメーションに挑戦した「どろろ」 豊田有恒

どろろ」はすぐれた伝奇文学である。

《 伝奇文学という点では、「どろろ」は、もっとも早く発表されている ( 昭和四十二年、少年サンデー誌上 ) 。小説のほうでは、伝奇SFが、SFのひとつのジャンルとして定着してくるのは、半村良の「石の血脈」が発表されてからであり、「どろろ」からは数年おくれている。

 小説とマンガが並行して存在し、相互に情報交換があるところが、SF界の特徴であるが、「どろろ」が現れた時点では、日本の伝奇SFは、まだ、その芽生えもなかった。国枝史郎など一時代まえの作家が、ゴシック・ロマン風に書いた伝奇小説と、現在、半村良、荒巻雅夫、山田正紀、などの作家が、SFマインドで書いている伝奇SFとは、あきらかに断絶がある。伝奇文学を系統づけるためには、小説のメディアばかりを追っていては、この断絶の説明がつかない。「どろろ」は、あきらかにこの両者の間に位置づけられるものである。奔放なイマジネーションに支えられた手塚マンガは、ここでひとつの転換点を迎えたのかもしれない 》

 

  秋田文庫『どろろ』のあとがきでSF作家・豊田有恒先生が指摘している様に「伝奇SFマンガ」という性質も『どろろ』にはあり、和製サイボーグ・ミュータントとして描かれた “ 百鬼丸 ” をはじめとする、その「伝奇 ( 時代劇 ) SF」のテイストが物語の大きな土台の一つになっていて、これが「妖怪マンガらしく無く」見える要因の一つだと思います。手塚マンガの「転換点」であり、実験的な作品としての側面も強かった『どろろ』は、妖怪 “ 鵺 ” のようにいろんなテーマや要素を内包して、切り口・視点の変化で、千変万化の色彩を魅せる感興尽きぬ作品であり、それらが、ほぼ破綻なく、ひとつの “ 成長物語 ” として成立しているところに手塚先生の非凡な力量が表れていると思います。

 

 

ーなので、リメイク時に視点を絞ろうとすると “ ズレ ” が生じ違和感の原因になってしまうのも、止むを得ないんですね。アイデアやテーマの流用が、むしろ違和感なく『どろろ』らしさを感じられるのはその様なコトなのか、と改めて合点してみたり、