前回の「劇団☆新感線」からリンクして「中島かずき」先生つながりで、
「天元突破グレンラガン」です。
この作品の元ネタは山田正紀先生の「宝石泥棒」「螺旋の月」です。
未読で興味のある方にはオススメです。
好みが分かれる作品だと思いますが、ヒロイックファンタジー世界からSFへ、
後半怒涛の展開とどんでん返しはべらぼうに面白いと思うので、
1997年の「オールタイムベストSF・4位」「星雲賞受賞」の骨太いSFです。
以下、あらすじ・ネタバレもございますので未読の方はご注意下さい。
あらすじ
「甲虫を守護神に持つ少年戦士・ジローは、従姉妹ランを愛してしまう。禁忌を破ってその想いを遂げるため、ジローは、女呪術師ザルアー、“狂人”チャクラとともに失われた宝石「月」を求めて旅立った。異形の怪物たちの跋扈する地を経て、三人は「空なる螺旋」を目指す。(中略) そして、戦士ジローは旅路の果て、人類は異星人に進化を封ぜられ、地球に縛り付けられていた事実を知る」
そして、続編である「宝石泥棒Ⅱ・螺旋の月」では、
失われた進化を取り戻す為、次元を超えた戦いの果て、戦士ジローは「もう一人の自分」に敗れ去り、人類も滅び、
エピローグでは、次世代を担う進化した頭足類の戦士が力強く冒険の旅路へ旅立つ…
悲しいが「命は決して進化を諦めない」「次世代に進化(希望)を託す」結末となっています。
この作品の高位存在を「親」の暗喩と捉えると「子供の成長(進化)を押しとどめようとした親とそれに抗って真実に気が付き、戦い破れるが次世代に思いを託す子供の物語」で、グレンラガンは「抗って戦い勝利し、その進化の先には多くの他の惑星・友人(広い世界)が広がっていた」となりそうです。
☆(「親のいない子供は神を親にしようとして信仰にのめりこむ」ことが往々にしてある様に「神・高位存在」は親の暗喩であることが多いので、)
ニアの父であったロージェノムが戦いに破れ、人類を抑圧する側に回るのも、何処か暗示的です。
その様に捉えると「グレンラガン」は、この二つの作品で問い掛けられたことに対する答のようなストーリーになっていると思います。
山田正紀氏は、文庫「21世紀に残す名作漫画」で「百鬼丸は僕だ」と書いておられて、この短い文章では真意は測りかねますが、
氏にとって「どろろ」という作品は強い思い入れのある作品の様に思われます。
また、「プロメア」のヒットで波に乗っている劇団☆新感線座付き作家の中島かずき先生が「どろろを演りたい」と語っておられましたが、劇団☆新感線の「おまけ」で結構本格的な「どろろ」を演っていたということは当時から構想があったのでしょうか、
「うしおととら」の藤田和日郎先生も最近「どろろやりたい」とTwitterで語っておられましたし…(西原理恵子先生との画力対決でも「百鬼丸」を描いておられたような…)
「どろろ」という作品は、多くの人を魅了してしまう何かが有るのでしょう。
映画化の時に誰かが、
「『どろろ』っていうのは多くの創作者の憧れ、高嶺の人なんですよ、そんな作品を正式に映画化できたのだから批判が多いのは止む事を得ない」
と書いておられて、確かに映画は賛否両論あり、主演二人の恋愛話もあり、話題になった映画でした。(当時、某匿名巨大掲示板の「どろろ」板がたいそう荒れたのを覚えています…)
多くの人を魅了する「どろろ」という作品を憧れの人に形容したのが言いえて妙で、今も印象に残っています。
ある漫画家さんの人気作品に「シンガーなんてストリッパー以上にストリッパーよ」という台詞がありまして、
「歌手は歌で聴衆に訴える、その行為に歌手のすべてが現れ、丸裸にされる。覚悟が無くてはできない職業」という意味なのですが、これはすべての表現者に言える事の様に思います。
漫画もアニメーションも、それ以外の創作物も、程度の差こそあれ、何かを表現したものは作り手を反映する、その人自身が計られる。
手塚先生の作品は三層・四層とマインドツリーの根が深く広い作品です。
だから、リメイクという形で手塚作品と切り結ぶとき、その創作者の資質は厳しく問われる。
恐ろしい作家だと思います、
でも挑戦者が次々現れるのは、
やっぱり「どろろ」という作品は人々を引き付けて止まない何かがあるのでしょう。