※怪談注意
冬の北海道で踏切事故が発生、はねられた女子高生は上半身と下半身が完全に切断されたが、寒さの為に切断部分の血管が収縮し数分間生存していた。上半身は下半身を探して息絶えたという。この話を聞いた人のところには三日以内に下半身の無い女性の幽霊が現れ、逃げても時速150キロの高速で追いかけてくるので逃げられない。「地獄へ帰れ」などの追い払う呪文を唱えないと恐ろしい目に会う。
多くの場合女性が事故にあうが、まれに男性とされるバージョンもある。
切断面が凍結したため死亡まで時間がかかったとされるバージョンもある。
突然何の話か? 表現規制と何の関係が?
と、面食らわれたと思います …すみません。
ご存知の方は「アレ」かな、と気が付かれたでしょうか、
これは都市伝説「テケテケ」です。
バリエーションが豊富で複数のバージョンが有り、線路事故後に上半身が見つからず、その後付近で高速で這いよる上半身だけの男あるいは女を目撃する。交通事故で自動車の下敷きになった人を引っ張り出そうとするが下半身が轢殺されており……
と、この二つが巷間に流布されている「テケテケ」誕生エピソードです。
1990年代には人気の都市伝説で、児童たちの間で広く語られるうちに、学校バージョンも出現しました。
「一人の女の子(男の子)が忘れ物を取りに学校に戻ると、もう遅い学校の窓に人影が見える。人影は窓の縁に手を組んで外を見ており、忘れ物を取りに来た子は自分以外にも忘れ物を取りに来た子がいるのかと校舎に入って、その窓のある教室をのぞくとその子には下半身が無く、上半身だけでテケテケ追いかけてくる」
と言うのが学校怪談として有名なもので、こちらを聞いた方も多かったのではないかと思います。
最初に紹介した「高速で追いかけてくる怪異」が都市伝説として広く巷間に流布した結果、怖い話が好きな小学生児童によって、出現場所が「学校」名前が「テケテケ」と設定され、さらに妖怪としてのキャラが立ち、人気の学校怪談として定着した様です。
さて、1990年代には不安な世相を反映してかテケテケのような都市伝説が良く流行った時期で、民俗学者・常光徹先生が児童書「学校怪談」を上梓、子供たちの心を掴んでヒット作となり、1995年には映画化されてシリーズとなりました。
当然、当時流行の都市伝説であった「テケテケ」も映画「学校怪談」1~3に出演していますが、都市伝説の「テケテケ」描写とは大幅に異なり、映画中ではコメディタッチの妖怪となって登場。もはや下半身が無いという設定も無くなり、鎌を手に「あぐら」をかいて宙を飛んで登場します。
何故かというと、
1989年の「連続幼女殺人事件」以降、強くなった「表現の自主規制」の波を「テケテケ」もかぶってしまったんですね。
「下半身を欠損」した少女の怪異、
怪異であっても、都市伝説というファンタジーであっても、「人の形をして身体の一部を欠損」している時点でOUTです。
あぐらをかいてしまっては、もはや「テケテケ」ではないと思うのですが、映画の中では高速で追いかけてくる妖怪という属性のみ残して登場しています。
本来はただの都市伝説、怪談話であったものが「場所」と「名前」を与えられて、よりはっきりとした怪異・妖怪となり、メディアに持ち上げられて知名度が全国区になり、「表現規制」というメディアの大人の事情で人としての形を失う…… と「テケテケ」の辿った歴史を考えるとなんだか物怪の哀れを覚えずにはいられませんが、
その後、2009年にはそのものずばり「テケテケ」というB級ホラーとして復活、こちらでは本来の形に戻って下半身の無い少女として描写されています。
以前より有った「表現の自主規制」「オタクパッシング」は1990年代に吹き荒れ猛威を振るいましたが、2000年代に入って徐々に(LGBT・ジェンダー問題など、新たな裾野は広がり、依然として有るものの) 緩和?されていると感じます。
それが良いことなのか、如何なのかは時間の経過を待たなければならないのでしょうが……
メディアで叩かれにくくなったのは、さらなる人権意識の高まりにより、身体の欠損も個性と捉え、もはや欠損を隠す必要は無くなった時代背景と、
時代の変化とともに「オタクカルチャー」評価の上昇、幼少時からマンガ・アニメ・ゲームが豊かに有る環境で育った「オタク」がライフスタイルとなっているライトオタク層の増加、海外でのジャパニーズサブカルチャーの人気上昇、etc……
まあ、ぶっちゃけてしまえば、この時代、オタクカルチャーは「ビックビジネスに成り得る」「お金になる」ことが、大きな理由のひとつなのでしょう。
※「表現の自主規制」とは、使用したとしても(法律化されてはいないので)処罰されないが、公共の利益に反したり、社会通念的に不適当と思われる表現を行政に拠らず、創作者個人・団体が自律的に規制することですが、各業界の暗黙の了解で成り立つ部分が多く、同調圧力の強いこの国では、法律などの外的規制で律せられるよりも、創作者個人が内的な価値観の変化を強いられることになり、裏を返せば「表現の自由」への侵害となる問題でもあります。