『どろろ』を巡る冒険或いは私的備忘録

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悪書追放運動 その1

 

 戦前・戦中は出版法・治安維持法などの言論統制・図書検閲があり、出版・表現は厳しく規制されていた。

 その後、占領下の1945年9月から1949年10月までGHQによって出版物が検閲され、軍国主義的なもの、封建主義思想の賛美などの内容が対象となり、児童絵本・マンガも発禁処分を受けた。( 当時、仇討ち物などは封建思想の賛美と見做されてかなり厳しく検閲の対象となり、時代劇の制作・出版は減少 )

 戦後の民主化によって、戦前・戦中の出版法や治安維持法などの言論統制による図書検閲が無くなり、娯楽に飢えていた庶民の間で雑誌・映画が人気を博していたが、同時に当時流行していたエロ・グロ・ナンセンスのカストリ雑誌・大衆向娯楽雑誌などを「悪書」として追放しようという動きも見られた。この時期は児童書・マンガよりも大人向けの大衆雑誌、映画を規制しようという運動の方が盛んであった。

  その後1947年に「手塚治虫」が『新寶島』でデビュー、同書が当時、累計で40万部と大ヒットになり、大阪・松屋町には「赤本マンガ」の出版書店がにわかに立ち並んだ。そして、1947年末から1948年にかけて赤本マンガの出版数も増加し、毎月100~120点、多いときは150点に及ぶマンガが3万、5万という規模で出版され、戦後の児童マンガ出版をリードする事となった。

※赤本とは、戦後物資の不足している中、首都圏に比して割り当てられる紙の量が少なかった関西で、質の悪い再生紙である仙花紙を製本に使用。仙花紙が赤みがかっていたので赤本と呼ばれた。薄かった当時の漫画雑誌に対して百数十ページと厚みがあり、少ないお小遣いで、たくさんマンガが読みたい子供たちに喜ばれた。( 赤本の由来には諸説あり )

  そして、アメリカ軍の占領終了後の1950年以降、表立って動きを見せなかった日本政府内で報道・出版の法規制が検討され「青少年育成基本法」の制定も含まれたが、マスコミの厳しい反対報道もあり断念。しかし、1950年には岡山県で「図書による青少年の保護育成に関する条例」が制定され、徐々に「不良出版物取り締まり・悪書追放」への気運は高まっていた。

 

 また海外に目を向けると、日本で「悪書追放運動」が激化する1955年の前年、1954年に「これらの不良出版物は子供たちへの悪影響がある」としてアメリカ議会で公聴会が開かれた。マッカーシーのレッド・パージ ( 赤狩り ) が激化する流れを受けて、米国内でも不良出版物規制の気運は広がり、出版業界はコミックスコード ( 倫理基準 ) を設ける・評議会の設置など、政府の検閲を受け入れる姿勢を見せた。それ以外にもイギリスとアメリカでホラーコミックの規制法案が検討される。カナダで子供向けのコミックに対して性的なものを取り扱ったコミックを出版禁止とする法案が議会に提出される。などの動きが見られ、出版物に対する表現規制は日本だけの問題ではなく、世界的な潮流であった様子が伺える。

 

 1955年 ( 昭和30年 ) は、日本子どもを守る会・母の会がマンガ批判・規制運動を盛り上げ、これに大手新聞社も追従し、悪書追放運動の発火点となった年として知られている。ここから、1955年前後の「悪書追放運動」の動きを纏めたい。

  1950年に岡山県で青少年条例の嚆矢となる「図書による青少年の保護育成に関する条例」が制定され、1954年には警視庁が青少年に悪影響を与える不良出版物を取り締まりの対象にと主張。これらの動きを受けて、警察の関連団体である「赤坂少年母の会」などが、未成年に悪影響な不良雑誌を追放しようと「見ない読まない買わない、三ない運動」を提唱して不良出版物35冊を焼却。当初は家庭内の「性雑誌」を子供たちが好奇心から閲覧してしまうことが問題と見做され、家庭内の不良雑誌を撲滅することを目的とした。そのため、焼却されたのも大人向けの大衆娯楽雑誌カストリ雑誌が中心であった。この様な規制強化の動きは戦後間も無い時期から継続し、全国に波及していく事となる。

カストリ雑誌とは、終戦後の出版自由化 ( 占領下ではGHQプレスコードによる検閲はあった ) で大量に出版された大衆向け娯楽雑誌。内容は猟奇事件・ポルノ小説・性生活告白・赤線などの色町探訪記事など安易で低俗なものが多く、エロ・グロ・ナンセンスと揶揄された。三合飲んだらつぶれるカストリ酒になぞらえて、三号までに休・廃刊になるカストリ雑誌と呼ばれた。( これも名称の由来には諸説あり )

 

 1955年1月には都内で開催された「第四回青少年問題全国協議会」で「不良出版物の追放問題」が議題として挙がり、その直後には、当時首相であった鳩山一郎氏が施政方針演説内で《 覚せい剤、不良出版物のはんらんはまことに嘆かわしき事態でありますが、特にわが国の将来をになうべき青少年に悪影響を与えていることは、まことに憂慮すべきことであります。政府としては、広く民間諸団体の協力を得まして、早急にこれが絶滅のため適切有効な対策を講じ、もって明朗な社会の建設に邁進いたしたいと存ずるのであります 》と発言。『日本週報・1955年5月5日号』に滝本邦彦内閣官房審議室参事官が「取り締まらねばならん ヤクザ本の実態」という記事を寄稿するなど、政府は規制に意欲的だったことが伺える。

  そして、1955年に鳩山一郎首相が施政方針演説で《 青少年に悪影響をおよぼしている不良出版物を絶滅 》と強い文言で発言したことを受けて、朝日・読売新聞などの大手新聞社が「不良図書の追放」を大きく取り上げ運動は一気に拡大した。その後、『1955年4月12日付・読売新聞』の見出し「ひろがる悪書追放運動」で「悪書追放運動」という文言が初めて使用された。

 

 以下、朝日・読売新聞各社の批判記事一例

朝日新聞1955年2月11日 滑川道夫

「青少年読み物を健やかに 出版界への警告と民間勢力結集の提案」

・読売新聞1955年3月30日

「見ない読まない買わない運動」

朝日新聞1955年4月3日

「エログロ出版は致しません 出版団体連合 業界浄化に乗出す」

・読売新聞1955年4月12日

「ひろがる悪書追放運動」

朝日新聞1955年4月21日

「ひど過ぎる児童雑誌 出版社に“もの申す”会」

朝日新聞1955年4月27日

「悪書追放 出版界、自粛へ動く 近く倫理化に実行委」

・読売新聞1955年5月8日:夕刊

「悪書五万冊ズタズタ 悪書追放」

・読売新聞 1955年5月14日:社説

「ひろがる悪書追放運動」

 

 総理府の付属機関『中央青少年問題協議会(中青協)』が1955年5月を「青少年育成保護月間」と定め、「東京母の会連合会」「日本子どもを守る会」「東京防犯協会連合会」「中青協」などが活発に活動を行い、運動は最高潮になる。そして、母の会連合会・会員有志がエプロン・割烹着姿で不良雑誌・マンガなど五万冊を焼き捨てる「悪書追放大会」を開いた。

※ ( 1945 ~ 55 ) 昭和20年~30年頃の少年問題、「ヒロポン禍」「浮浪児問題 ( 人身売買問題 )」「俗悪映画 ( 太陽族 ) 問題」などがあり、20年代中頃には第一次少年非行・人身売買事件がピークになる。昭和21年に都道府県の警察部に少年課設置開始。

 

日本読書新聞」は「児童雑誌の実態」という記事を連載。

1955年 3月21日・その一 お母さんも手に取ってごらん下さい

1955年 4月 4日・その二 少女系雑誌

1955年 4月18日・その三 マンガ・ふろく・言葉など

1955年 5月 2日・その四 良いものを探す

1955年11月28日・その五 児童雑誌は良くなったか

1955年11月28日 ( 総 括 ) 悪書追放運動を顧みる

 

 これらの記事には「内容の荒唐無稽さへの批判」「復古調の漫画に対する戦後の民主化を背景にした批判 ( 児童漫画に戦争を扱ったものが多いと新聞各社が批判など )」も多くみられた。これらの流れを受けて、警視庁は不良出版物の取り締まり強化の方針を打 ち出し、「性的刺激を与えるもの」「暴力肯定」「人間軽視」「射幸心をそそるもの」「民主主義の破壊」等を取締りの基準とした。

 

 また「見ない読まない買わない、三ない運動」として、積極的に悪書追放運動を繰り広げていた「赤坂少年母の会 ( 赤坂少年母の会は東京母の会連合会の一支部 )」は1954年5月に不良出版物35冊を焼却したのを皮切りに活動を活発化、不良雑誌の撲滅を広く呼び掛けて3000人の会員から提出された500冊に上る雑誌・書籍を焼却処分し、これが、『1954年7月17日付 朝日新聞・夕刊』で報道された。

 これら母の会の積極的な「悪書追放運動」には警察も賛同し、上記の記事に《 母の愛の現れ 養老警視庁防犯部長の話 - 本を焼くというのはよくよくのことで、子供を悪い社会環境から守ろうとする母の愛情の現れだと思う 》《 この種のものの根絶を図ることは非常に難しいし現法規では取締りは限界点にきているが、警視庁としては重点的にやれる範囲のきびしい取締りを行うつもりだ。結論として赤坂母の会の行為には大いに共鳴を感じる次第だ 》と、コメントを寄せた。

 また、この記事にコメントを寄せた「養老警視庁防犯部長」は『2月17日付・朝日新聞』で《 世論の支持さえあれば、いつでもビシビシ取り締まる用意がある 》と発言。『3月2日付・朝日新聞』の『論壇』欄で、これらの出版物を《 その性格が十九世紀的な、いわば国家に先行する純粋に個人的な自然の権利であるとは、到底考えられない 》と書き、その自由は制限されて当然という見解を示した。更に《 憲法に保障された自由を主張できる本来の出版物のラチ外にあるものとすら考えたい 》とも書き、不良出版物は出版・表現の自由が保障されなくても問題ないとの自説を述べ、「不良出版物」も警察の取締りの対象にするように訴えている。そして、これらの記事の掲載直前に、警視庁少年課が「不良雑誌その他に関する資料」をまとめて、資料内で100点以上の雑誌を挙げた。また運動当初、母の会が問題にしたのは大人向けの性的な内容を扱ったエログロ・ナンセンスといわれたカストリ雑誌や成人向雑誌であったが、運動の激化とともに子供向けマンガも排斥・焚書の対象となった。

「悪書追放運動」は表現規制に向けて民間団体が主導した様に見える運動であるが「東京母の会連合会 ( 赤坂少年母の会 )」は警察の関係団体であり、政府・警察の介入は常にあった様子が記事からも伺えるので、政府・マスコミ・表現規制推進派の民間団体が共同して起こしたものというのが実情であろう。その後、『学校図書・1963年12月号』に「日本子供を守る会」神崎清副会長が「悪書追放の諸問題 -神崎清先生にきく- 」を寄稿。この文章内で1955年前後の焚書事件・悪書追放運動の実情について触れ、婦人会を中心とする運動は「お膳立ては全部警察の方でして、その筋書きに従っているだけで自主性がないわけです」と述べている。また、東京母の会連合会も『1955年6月25日号・読書タイムズ』「特集・児童出版物をめぐって『良書』普及のために」座談会で、

 本吉「( 前 略 ) お母さんたちの純粋な運動が官僚や政治家に利用されるということ又悪書問題が起きている際、雑誌社のはよくない、出版社のはいいというような行き方が見えはじめましたが、新聞連載の子供読物を例にとっても朝日、読売、サンケイのものと児童雑誌に載っているものと違った印象を受けませんね。新聞社の商売の下準備に利用しているのではないか、というような面も考えられるんですね。尤も踊らされるようなお母さん方じゃないと思っていますけど……」

宮川「何処かに踊らされているんじゃないかとよく言われましたが、反対に私共の仕事に対して警視庁も新聞も、手伝いした。利用したのはこちらですと思っています」

本吉「利用されてあとで官僚に法律をつくられる、このような傾向だけは注意したい」

宮川「その点はあらゆる機会に言っております。警視庁が乗りこむような態度はまっぴらですと」

 

 上記の様に「母の会連合会会長:宮川まき氏」が語っており、母の会の善意の運動ではあるが「防犯活動」として警察との連携は常に在り、純粋な善意の活動とは言い難い一面が存在したことは特筆しておきたい。

 また、当時のカストリ雑誌や赤本マンガは取次店を経由せず販売されるものが多く、その為、赤本マンガは駄菓子屋・夜店・露店など書店以外でも販売されていた。私見ではあるが、大手出版社・新聞社などがこれらの俄か出版店を快く思わなかったことも「悪書追放運動」に関係していたのではないだろうか? 戦後の児童マンガ出版は当初、東京が多かったが『新寶島』のヒットで赤本が大量に出版され、関西がリードすることになる。このムーブを牽引していたのが、戦後俄かに建ち並ぶこととなった大阪・松屋町問屋街の振興出版店だったことは言うまでもない。

 

 

②に続きます。