『どろろ』を巡る冒険或いは私的備忘録

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ブラック・ジャック、ロボトミー抗議事件・⑤ 雑感まとめ

 -どのように問いを立て、考えるのか? 

【 マンガ環境・現代風俗’93 発行:リブロポート マンガと差別 灘本昌久 】

《 青い芝の会の人たちが指摘する第二の点、すなわち手塚が「障害者を健全者に同化すべき者として描」いたということが、問題の指摘としては重要である。つまり、「ブラック・ジャック」の筋書きが、障害者はかわいそうな存在で、治療することでその境遇から抜けでられると考えているというのだ。障害問題になじみのない読者には、治療することのどこがいけないかわからないかもしれないが、青い芝の会の会の存立を支える重要な思想が、この「障害」をどうとらえるかということにある。従来の障害者運動は障害を健常な状態からの欠損とみなし、治療を当然のこととしてきたが、青い芝の会は、一九七〇年以来の、親による重症身体障害者殺しに対する告発運動などを通じて、脳性マヒ者を「本来あってはならない存在」として見る見方に重大な意義申し立てをしてきた。この内容には、私自身は異論がないわけではないが、ここでは立ち入るのをやめよう。しかし、この障害者はあってはならない存在なのかという問いかけは、十分尊重に値すると思う 》

 

 さて、

ブラック・ジャック』への抗議は秋田書店手塚プロダクションの謝罪内容から、“ ロボトミーを美化して描いた ” “ 障碍者を健全者に同化すべき者として描いた ” ことに抗議が寄せられていたことが分かります。

 ロボトミーを美化しているという抗議は、手塚先生も作中での「ロボトミー」は誤用であることを認めていて、美化しているという批判は当を得ているとは言い難いと思います。しかし、もう一つの “ 障碍者を ( 治療して ) 健全者に同化すべきものとして描いた ” という指摘についてはどうでしょうか?

 

 これまた、私見ではあるのですが、

 この問題は「切り分けて」考えたほうが良いと思います。『ブラックジャック』は本間氏が語ったように「普通に障碍者が出てくる」ストーリーが多くて、主人公は天才的な外科医ですから「治療」がメインに描かれることが多いのですが、「治療」は ” 障害者を健全者に同化する ” ことではないし、“ 障碍のある方を健常者に同化されるべきものだと ( 劣ったものだと ) 憐れむ ” ことでもありません。

 医師をはじめとして多くの医療に携わる方たちが大変な思いをして働いて「患者さんを治療して」いるのは ( 生活のため、おちんぎんのためもありましょうが )「QOLを上げるため」です。

 簡単にいうとみんなを「しあわせ」にする業務です。

 病や障碍で苦痛や不便が有る状態では、皆さん「しあわせ」の追求どころじゃないですから、

「治療」と “ 健常者に同化されるべきものだと ( 劣ったものだと ) 憐れむ ” ことは切り離して考えないと、変な結論にたどり着きます。

「治療」を受ける受けないの選択は個々人が持っていますし、例えば、その方が「治療」を望んで、結果として持っていた障碍や病いが無くなったとしても、それは “ 健常者に同化された ” “ 障碍者が否定された ” わけではありませんよね?

「治療」は「健常者に同化」させることではありません。

 障碍のある方たちを、病に苦しむ人々を「安楽」にして「しあわせの追求」が出来る状態にして差し上げる、そんなものです。

 

 なので、この問題を考えるとしたら、

 “ 障碍者はあってはならない存在なのか ” という問いかけだろうかと思います。

 当然、そんなことはありません。

『ある監督の記録』も “ 障碍者はかわいそうな存在で、治療することでその境遇から抜けでられる ” と考えて描かれた作品ではないと思います。

 でも、当時の「青い芝の会」や「東大精医連」はそう思ってしまった。

 何故か?

 

封印作品の謎-2004年10月発行・太田書店 著者:安藤健二

《 長嶋医師は「反対運動がちょうど盛り上がっていたときに、手塚さんはロボトミーという言葉を使ってしまったんです。手塚さんに抗議してマスコミに取り上げられれば、『ロボトミーは悪い手術だ』と広くアピールできるんで、非常にタイミングがよかったというのもあったと思います。誰でも知っている漫画家の手塚治虫が間違った表現をしたということであれば、今までロボトミーを知らなかった人たちにも、その問題点をPRできるわけですから」と語っており、この様な経緯で、「東大精医連」や各団体から『ブラックジャック』への抗議がなされるのも当然の成り行きであったと言える 》

 

ブラック・ジャックロボトミー抗議事件・② 】でまとめたように精神医療の悲惨な歴史があり、反対運動が盛り上がっていた時期に、この作品が発表されたことが抗議事件の発端のひとつでしょう。そして、このタイミングの悪さも原因の一つだと思いますが、大本の原因は心身に障碍のある方達の辿ってきた過酷な歴史※にあると思います。「兄弟の縁談にさわるから」「風聞が悪い」と心身に障碍のある方たちを「私宅監置=治療なき監禁」してきた歴史。また、抗精神薬が現れるまでの前時代的な治療の拷問の様な過酷さ、特に重篤な後遺症が予測できないロボトミー手術は人体実験のような側面もあり、多くの被害者を生むことになってしまいました。

 1970年代後半から、人権運動の活発化とともに、悲惨で前時代的な医療現場への糾弾運動が興ってきた時代を背景として、歴史の中で常に存在を否定されてきた「精神疾患患者」「障碍者」の「強い怒り」が、大きな抗議活動として噴出してきた時期に、手塚先生が『ブラック・ジャック』で「ロボトミー」を誤用してしまった。これが今回の事件につながったことは疑い様も無く、手塚先生が ( 御多忙であったこともありましょうが )「ロボトミー」について、きちんと調べて『ある監督の記録』を描いていたら避けられた抗議だったかもしれません。

 

※これは、日本精神神経学会の【 写真で見る学会百年のあゆみ 】が参考になると思います。また、Wikipedia【 私宅監置 】の項目も詳細です。( ショッキングな画像もありますので、閲覧はご注意下さい ) 私は『写真で見る学会百年のあゆみ・その3 私宅監置と拘束具』の画像にある「濯水籠」を拝見したことが有るのですが、この器具は、かなり小さいです。主に治療に使用されていましたが、拘束目的でも使用されました。

 治療といっても、この檻に患者さんを入れて上から水を浴びせる治療で、現在から考えると拷問の様ですが、当時は抗精神薬もなく、発作を起こして自傷他害の恐れがある場合は拘束するしかなく、また、今ほど医療が発達していませんでしたから、精神疾患の原因も不明で「脳の器質的」な障害が原因と考えられていたので、とにかく頭を冷やしていた ( 水を浴びせていた ) んですね。

 この治療だけでも前時代的な精神医療の悲惨な状況が垣間見えると思います。

 

手塚治虫漫画全集ブラック・ジャック』18巻・あとがき 】

《 あるとき、東大医学部の学生の活動家グループがぼくに、「そんなでたらめをかくのなら、漫画家をやめちまえ」と、どなったことがあります。東大の医学部とかなんとかいったって、まったく幼稚な連中です。でたらめなことがかけない漫画なんて、この世にあるものでしょうか 》

 

 精神疾患患者さんや障碍のある方達の辿ってきた苦難の歴史と、それでも無くならない差別を思うと「青い芝の会」「東大精医連」の抗議運動が過激なものになった背景も、「けしからん、こんなマンガは描くな」と憤慨したことも理解はできるのですが、その作品が不快だと感じた時に「不快なので削除」と短絡的に結論づけるのではなく、何がいけないのか、不快なのか、きちんと議論を尽くさないと、けしからんと怒って抗議した、謝罪・削除された、絶版になった、それで終了  ―と、前回のブログでも書きましたが、ぺんぺん草も生えない不毛なことになってしまうと思います。

 

【 被差別者の被差別感情 】

《 自分が何か不快だというふうに思った時に、「不快だからけしからん」とは結論づけられないということです。例えば、「エタ」という字を全部消してしまいたいというような感情に襲われているとしたら、その人自身の中に、克服すべき課題が山積みしているということを指摘できると思います。「エタ」という言葉が嫌いで、それに墨でも塗りたいと思っている部落出身者がいたとします。その友人は、この部落民に対してどういうことを言うべきか。一緒に本から文字を消すのを手伝ってあげるのが、本当の友人であるのか。あるいは、彼の、彼女の話をよく聞いて、言うべきことは言うのが、本当の友人であるかは、よく考える必要があることです 》

 

 私たちは否定されるべき存在なのか? という問いかけは、悲しい歴史と無くならない差別に対する「不安 ( 私たちは否定されるのか )」から発生したもので、「不安」は「怒り」の一次感情ですから、「青い芝の会」の社会運動や「東大精医連」の告発が「強い怒り」に裏打ちされた過激な主張になったのも、不安の過剰保障として怒りを足掛かりにした過激な抗議活動になっていったのも、時代背景とともに仕方無いことであったのだろうと思います。

 しかし、それは障碍や疾病の有る方たちを取り巻く社会環境の問題であるとともに、個人の克服すべき課題もはらんでいて、マンガや絵空事であっても「でたらめ」は許せないという不寛容さも、この「怒り ( 不安 ) 」が根底にあり、( 確かに今だに如何なものか? と思う作品もありますが ) この「怒り ( 不安感 )」と向き合っていく事が、今後、一人一人の課題なのだろうと思います。また「すべてけしからん、消してしまいたい」という人たちの感情の裏に何があるのか考えて、その人たちをケアすることも大切なのだと思います。

 私は、障害の有無に価値観を置かない「価値観の再構成」が、個人にとっても、社会にとっても大切で、それには、今ある差別を皆で考えて議論することが出発点なのだと考えます。

 なので「安易に削除」は悪手なんだよなぁ、ホントに、

 

封印作品の謎 -禁じられたオペ- 著者:安藤健二 】より

ブラック・ジャックロボトミー手術抗議事件」直後の本間氏によるインタビュー

《「ある監督の記録」は脳性マヒの患者を扱っていたこともあり、「青い芝の会」の抗議は「本来治る見込みのないはずの脳性マヒ患者が『ブラック・ジャック』の手術で完治するのはおかしい」というものだったという。これを受けて、手塚は『ブラック・ジャック』の中で障害者を描くことも自粛してしまっていた。「身障者の気持ちは健康体の者にはわからない」というのがその理由だった。

『それは間違っていると、はっきり伝えました。確かに障害者の気持ちは障害者にしかわかりませんが、そしたら障害者は健常者の気持ちがわからないから、健常者のことは何も描けないとなってしまう。僕は、手塚さんの描いた障害者の物語を読みたかったんです』》

 

「でたらめをかくな」という批判には「デタラメが描けない漫画なんてありません」と気炎を上げた先生も、障碍の有る方達からの抗議は辛かったのだと思います。しかし、「身障者の気持ちは健康体の者にはわからない」と、そこで思考を止めるのではなく、さらに「問い」を作品で深めていただきたかったと、私は思います。なので、【 月刊:障害者問題 】編集長の本間康二氏が手塚先生に『僕は、手塚さんの描いた障害者の物語を読みたかったんです』と、伝えて下さったことはファンの一人として嬉しく思います、ありがとうございました。

 

 

 

 釈尊四門出遊で「老い・病気・死」は人が逃れられない苦しみとして挙げられているのですが、これとガチンコしているのが医療職の方たちなんです。最大にして逃れられない苦しみと日夜戦っている、しかも、必ず人は死ぬ、ブラックジャックや医師の闘いは常に負け戦なんです。

 それに「ブラック・ジャック」はずっと抗っている「何のために」

 それこそが手塚作品の根底にあるものだとおもうのですけれども、