さて「百鬼丸」は着物の模様も何かの暗喩ではないか、と昔から考察されていました。
① 錨 ( 怒り )
②スペード ( 剣 )
③性別記号 ( マスキュラ )
④イカリハンミョウ
散見される考察は、この四つでしょうか、
①は錨が “ 怒り ” と絡めて考察されているのを拝見しました。( “ 怒り ” を秘めているキャラクターだということらしいです、疎覚え … )
また、『インセクター』では「サクラニイカリゼミ」という架空のセミが描かれています。手塚先生世代で桜と錨といえば「旧日本海軍」軍人の意匠で、これを踏まえるといろいろ面白いので、このお話は後日機会があれば …
この時代の錨紋だとすると、錨は、このように四つ鉤がある形のものか、石 ( 碇 ) が使用されていたはず? -まあ『どろろ』で時代考証を云々は野暮天ですね。
映画版では、この模様が百鬼丸の母方実家の裏紋という設定がありました。
( 錨模様については当ブログの【神話の法則の三幕構成で解析する『どろろ』】 でちょっと考察しています、良かったらご一読ください )
②、スペードは貴族の剣を表しているので、両腕が刀の「百鬼丸」を表しているという考察。
「両腕に刀」は、『血だるま剣法』の主人公が「四肢を欠損し、両腕に刀を付けている剣士」で、昔から「百鬼丸」の元ネタじゃないかと言う噂がありました。
( 『血だるま剣法』もブログ内で紹介しているので良かったらご覧下さい )
③は性別記号 ♂ ( マスキュラ ) をアレンジした文様で「百鬼丸」が男性、翻って「どろろ」が女性であることを暗喩しているというもの、
④は紅葉倫子さんに伺ったもので、昆虫の「イカリハンミョウ」由来ではないか?というもの、一般的に知られている緑色でメタリックなハンミョウとは違う地味な色味も含めてアニキの着物の柄と類似点は多い気がします。また、手塚短編『ころすけの橋』にハンミョウが「みちおしえ」として出てくるので、「どろろ」の兄貴分、賢者役の「百鬼丸」がこの模様をまとっているのは暗喩として有りそうです。
先生がお書きになった架空の甲虫の背模様とも似ているでしょうか?
アニキの着物の模様もこのように変化していて、初期の模様がより甲虫っぽい? かな、( 芋虫やテントウムシにも、これに似た模様を背中に背負う種類がありますが、そこまで広げると何でもありに … なるので ) 連載後半になるにつれて模様が変化して「白い」部分が増えているのは『どろろ草紙縁起絵巻』で指摘があったとおり、
また、竹内オサム氏は 【 手塚マンガの不思議・虫の生活 】 で、
《 蝶は手塚の過去を語る素材であった。こうみると「人間昆虫記」という作品は、手塚自身の自画像のように思えてくる。十村とは、マスコミ社会を巧みに泳ぎ渡り、四〇年以上にわたって第一線で注目され続けた、あるいは注目されたいと願った手塚自身の姿なのではないか。この本の最初でマンガが <引用+加工> から成り立つ文化であり、手塚治虫というマンガ家こそがその才にもっとも長けた才能であると指摘しておいた。手塚の創作のあとを見てみると、いかにその時代に流行した文化を取り込んでいくか、時流にあわせて自らを変身させていくか、そこに腐心する創作家の必死の姿が浮かび上がってくる ≫
- 中 略 -
≪ 手塚の創作の軌跡は、苦悩のうちに変幻自在の印象がある。マスコミから忘れ去られることをもっとも恐れた手塚治虫という漫画家の自画像、それが「人間昆虫記」という作品ではないだろうか。くり返すが、水野と十村の人物設定の背後には雌雄の蝶のイメージが潜在していた。これは、象徴的なことがらだ。幼児期に退行して母の膝に甘えたり、毎日丹念に日記を書きつづける十村十枝子の姿も、こう考えると、手塚の内面と習慣を投影した形象であるように思えてくる 》
と、述べた後、
十村十志子が手塚治虫の不完全なアナグラムではないかと言及しています。
これを踏まえると「ハンミョウ」がコウチュウ目 “ オサムシ科 ” なのも、偶然では無いのかもしれませんね。アニキやどろろが、アトムやBJ先生の様に、手塚先生の「オルターエゴ」としての性質が強いのはその様なことなのだろうか? と、何となく合点してみたり、… まぁ、いつもの「理屈と膏薬はどこにでもくっつく」案件ですが、
また ー
《 つまり、この物語は、つぎのようによみこむことが可能だということだ、すなわち、主人公は、太陽爆弾 ( 原爆つまりはアメリカの科学技術文化 ) がおとされて二〇年後 ( 一九四五年の原爆と日本占領から二〇年後 ) の世界からやってくる。爆弾 ( アメリカの科学技術文化 ) によっていためつけられた母 ( すなわち日本のメタファー ) をすくうためにやってきたキャプテン・ケンは、同じく虐殺され、抑圧されてきたアメリカインディアンを象徴する火星人のパピリヨンとともに、アメリカの科学技術文化のシンボルたる太陽爆弾の進路をそらすべく立ち上がるのである 》
と、櫻井氏のご指摘にある様に、上記の物語を背負った『キャプテン・ken』の「ケン」は、象徴的に「日の丸」の鉢巻きを締め、胸に「日の丸」を付けています。
このように、手塚キャラクターはその身に纏うもので何者なのか表されていることも多いので、「百鬼丸」の纏う着物の模様も何らかの暗喩であると考えられ、昔からいろいろと考察されているのでしょう。
さて、以下は蛇足ですが、
『ころすけの橋』は主人公が橋の上でカモシカの子と出会ってストーリーが始まるのですが『どろろ』も橋の上で百鬼丸がどろろと出会って話が始まります。
死霊の声が聞こえないかと問う百鬼丸に、モブの河原者もどろろもきょとんとしますが、その後の展開は皆さんご存知の通り。これは「どろろ」がここで初めて「怪異」に出会ったこと、つまり「どろろ」が「百鬼丸」のいる世界、死霊魔物がうようよいる世界の住人ではないことを表しています。
『どろろ』の物語の主人公2人は違う世界に住んでいます。
… とかいうのではなくて、「百鬼丸」は御伽噺・怨霊譚世界の住人で、どちらかというと「水木しげる」世界のキャラクター、「どろろ」は宿命を背負った革命の子で「白土三平」世界のキャラクター、
この二つの世界は相性が水と油だと思うのですが、手塚先生はこの二人をW主人公にしてしまうんですね。こんな木に竹を接ぐような、ちぐはぐな、それでいて魅力的なストーリーを、よく違和感無く成立できたなぁ、感嘆符 ― と思います。
「どろろ」を主人公に据えて歴史物的な「一揆 ( 革命 )」を描く、と考えると?
妖怪退治譚や貴種流離譚的な枠組みからは逸脱するし、違和感なく成立させることが難しくなる気がするんですよね。
手塚作品には「非属」のものと出会って始まるビルドゥングスロマンが多いのですが、その枠組みを考えても、『どろろ』は手塚マンガでも少し異質な作品かな?