『どろろ』を巡る冒険或いは私的備忘録

「どろろ」を中心に「手塚作品」の記事を掲載。カテゴリーは【書籍・舞台・表現規制・どろろのあゆみ・どろろに影響を受けた作品・「神話の法則の三幕構成」で解析する「どろろ」・ブラック・ジャック、ロボトミー抗議事件・ジャングル大帝、黒人差別抗議事件】

景光という父

どろろ』秋田文庫2巻 : 解説 ー 錨模様、勝手にメッセージ ー 出崎統

 醍醐景光の存在のたしかさはどうだ。彼は自分が何も持っていない事をしっかりと自覚している。だけど欲望には逆らえない。その確かな「弱さ」は真実の様に僕には思えたのだ。

 ― 彼はこの世のものとは取り引きが出来ない。つまり、うんとプライドは高いか、あるいはうまく世渡りする術を持っていないのだ。そんな男が、自分のまだ生まれて来てない子供を差し出す。生まれて来てからでは、そんなことは痛々しくて、多分出来っこないことを知っていたからだ。

 そうして、罪を犯していく。自分の心に罪を犯していく。許しがたい自分へ自ら落としていく。そして、物語は始まっていくのだ。

 悲しくて、醜いけれど、それもあるんだよ ……

 かも知れないよ、と。

 

 前回「寿海」について書いたので、もう一つの物語の発端「景光」という父親についてです。『どろろ』秋田文庫2巻の出崎監督の解説が全ての様な気がするので、後は、蛇足というか、いつもの私の私見 … 「理屈と膏薬は何処にでもくっつく」です。

  原作、旧アニメでも ( 舞台の新浄瑠璃百鬼丸』・人形劇『どろろ』も )「醍醐景光」は人としての弱さをもった男として描かれています。その弱さを受け入れ、誠実に現在を生きて行けば良いのですが、景光は己の弱さや現実を受け入れることもできず、我が子を犠牲にします。ダメすぎですが、物語の外にもそのような人は多くいます。ある意味、手塚先生の描いた「醍醐景光」という虐待親 ( ハラッサー ) はとてもリアルです。

 さて、PS2版ゲーム、映画、新アニメ等の「魔神に誘惑された為 ( 惑わされた=本来の状態ではなかった ) 実は悪人じゃなかった」「民、百姓の為やむなく自分の子どもを犠牲にした」、百鬼丸の「光の子」設定。

 等は、

貴種流離譚」「英雄譚=ヒーローズジャーニー」として『どろろ』という物語の一層目を成立させるためには有効な設定だと思います。しかし、その設定は『どろろ』という物語の層になっている「厚み」を削ります。

どろろ』という物語は【 神話の法則の三幕構成で解析する『どろろ』】で書いたように表層ストーリーの神話的構造「貴種流離譚」を三層目の「反戦・反体制」テーマが裏返す、ねじれ構造を持っていて、私はこれがこの作品の胆であると思っているのですが、これらの設定を採用すると、この三層目とともに反戦・反体制のテーマも薄まります。

  また、これらの設定は物語を「英雄譚=ヒーローズジャーニー」として固定する以外にも「プレイヤー・視聴者」を安心させる働きをします。( リメイク時の創作者自身が安心したいという心理もあるのでしょうか?)

 その様な心理的な動きも、『どろろ』のリメイク時に、これらの設定が採用されている要因の一つではないでしょうか?

 子供にとって、両親・家庭は安心できる対象・場所であるのが普通ですが、毒親育ち・被虐待児とって、家庭は「戦場」です。

 いつ弾丸が飛んでくるか分からない場所。

 いつもびくびくと親の顔色を伺っていなければならない「戦場」

 これは、経験したことが無い方には、想像する事は出来ても、共感し辛い世界だと思います。NHKで『毒親特集』が放映されると、多くの被虐待児で有った方たちの共感の声とともに「育ててもらった親に向かって毒親とは失礼ではないか」と、お叱りの投書も多く届くそうです。また、被虐待児の方が成長し、友人・知人に意を決して悩みを打ち明けても、「気のせいでは …」「愛情が強すぎたのでは …」と窘められ、かえって気落ちするなどの話も良く聞きます。

 何故そうなるのかを考えると、

 これは単に自分の経験したことが無いものは想像することも、共感することも難しいという以外に、安全地帯であるはずの家庭に ( 他家であっても ) そんな惨状が存在するという事実 ( ストレス・不安感 ) に耐えられない人も多くいるからでは無いかと思います。

 なので、

「お父さんは悪い人じゃなかった、魔神に誑かされていたんだ」

「民百姓の為、国の為に仕方がなかった」

 は、戦場になっている家庭がある、毒親がいるという現実を見ることが辛い方には、心的ストレスなく物語を楽しめる良い設定、落とし所になっているのではないでしょうか?

 でも、その設定を採用すると『どろろ』という物語の発端がひとつ無くなり、

 三層目のテーマや暗喩 ( 反戦・反体制 ) は御座なりになって、

 一層目の貴種流離譚・英雄譚の成立に焦点を絞ることになるので、

 作劇的には楽だと思うのですが、『どろろ』という物語の持つテーマからは外れていきます。また、新アニメの様に「子供一人と国一つは釣り合わない」と、強者の倫理でハラスメント容認を言い出されると、もうそれは手塚先生の『どろろ』では無いのでは? 構成する要素とテーマが削られ過ぎて? と思うんですよね、私は。

 

f:id:moke3:20210326154849j:plainf:id:moke3:20210326154932j:plain

 また、景光と寿海の着物の柄が作中で被っていて、

 寿海が医師になる以前に侍であった事を匂わせる台詞もあるので、寿海さんは景光父と同じ家中にいたのかな? その家の家紋かな? とか、醍醐の領地でこの様な柄が流行っているのかな? と、思ったのですが、 … 物語終盤、景光の文様に縁取りがあるように見えて、私の気のせいかもしれませんが、この文様はあれに似ています。

 ナチスドイツの「鉄十字」

 装飾的なギリシャ十字にも見えますが、この文様をシャープにしてみると何となく形状が似ているような気がします。寿海も景光も侍、侍が着ている着物に「鉄十字」?

 軍人であった二人の男がこの柄を着ている。

 侍をストレートに現代の職種で考えると「職業軍人・官僚」ですから、そう考えると面白い文様です。

f:id:moke3:20210326155417j:plain

 まぁ、偶然、この様な文様になっただけで、特に意味は無いのかもしれません。序盤の文様は十字ではありませんし …

 しかし、この物語を描いているのが「手塚治虫」その人であることを考えると、ついつい、アレコレ推理してしまいますね。

  さて、

 景光百鬼丸の「影 ( シャドウ )」であり、最後に対峙する敵であることは【 神話の法則の三幕構成で解析する『どろろ』】で書きましたが、この物語の景光という男の「コインの裏」は寿海です。虐待して子供の生を奪う親と、慈悲の心で慈しみ育て、手放し成長を促す親、という構図です。

  また、物語の外にも意外な比較対象が有って「景光」の裏と言っていいキャラクターが、「目玉おやじ

 そう、『ゲゲゲの鬼太郎』のお父さんです。

 有名なキャラクターで説明も今更なので省きます。

 ( 鬼太郎を育てたのは水木さんと水木さんのお母さんだけども … )

 病で身体が崩れて目玉だけになりながら鬼太郎を育てて?いる彼が見守るための「目」だけになっているのが象徴的だと思うのですが、

 目玉のお父さんの場合は、

 親が身体を失う → 子供は生きながらえる ( 生を得る )

 醍醐景光の場合は、

 親が栄誉、富を得る ( ために ) → 子供は犠牲となって生 ( 身 体 ) を失う

 と、きれいにひっくり返った構造になっています。

 洋の東西を問わず、昔話にも多い物語構造で、お金・土地や名誉を手放すが子供 ( 子宝 ) を得る。その反対に栄誉や富に執着した為、子や妻など暖かい関係性を失い、結果として没落する。などの物語構造です。

 後者は、大体、最後に己の欲心で破滅するんですよね。

 

どろろ』連載開始前後に『ゲゲゲの鬼太郎』『巨人の星』がヒット作であったことも含めて、いろいろ面白いなぁと、思います。

寿海という男

  この『どろろ』という物語は「寿海」という一人の男の慈悲から始まった物語。

 そんな切り口で一節、

 

 百鬼丸の養い親である「寿海」は、

 

棄てられ水に流された赤子を拾う

  ⇓

養育する

  ⇓

信じて? 出発を見送る ( 刀を贈る )

 

 上記の行動を取るのですが、養父の行動を養い子である「百鬼丸」も準えます。

 

簀巻きにされ水に流されかけた浮浪児 ( どろろ ) を助ける

  ⇓ 

何くれと世話をやく

  ⇓

信じて? (刀を手渡し ) 別れる

 

 この物語の舞台となった乱世は、浮浪児も捨て子も珍しいものではなく、障害のある子供は出生時に流されたり、間引かれていた筈です。そんな時代に育つかどうか分からない「百鬼丸」を拾って養い育てることが出来た心情 “ 慈悲 ” を持っている男が「寿海」です。

 そして、彼の養い子である「百鬼丸」も養父「寿海」の行動を準えた動きを作中で取っています。

 寿海が百鬼丸を助けたことがどろろを助けることに繋がり、どろろ百鬼丸とともに旅をしたことが、この『どろろ』という物語の第二部「虐げられた百姓の蜂起」に繋がって行くー

 一人の男の「慈悲」が、この物語の発端です。

 

 また、冒険王版で追加された《 百鬼丸の奪われた身体でどろろはできている 》と言う設定は、魔神 ( =運命 ) が百鬼丸に仕掛けた誘惑で、これに応じたら百鬼丸は実父「景光」と同じになります。( 魔とは直接悪を成すのではなく、誘惑し人を堕落させるものです )

 これは、作中での関門で「寿海への道」を進むのか「景光」の様になるのか、百鬼丸の選択が問われているシーンなのです。

 伝説マガジン№7:手塚調査ファイル第2回での二階堂氏の御指摘、

《 あとから付加した設定は、どちらも相当に無理がある。前者は、百鬼丸どろろとの関係に緊張感を持ち込む効果はあったが、百鬼丸が体の一部分を取り戻す度に、今度はどろろの体が少しずつ失われるはずである 》

 ですが、

 表層上のストーリーでは辻褄が合わなくても「人になる ( 人でなしにならない )」という本作のテーマに沿った場面で、百鬼丸の成長を描く興味深いシーンだと思います。

 旧アニメが第二部から『どろろと百鬼丸』になり、冒険王で再開した第二部で百鬼丸に物語の焦点が移動した為と思われますが、それに沿って上記のエピソード ( 百鬼丸の成長の関門 ) とライバル「賽の目の三郎太」が追加されています。

 打ち切りで連載終了にならなければ、これらの設定が生きた世界線が描かれたのか?

 歴史に「if」は無いので、描かれたかもしれない物語については想像力を逞しゅうするしかないのですが……

 

 ネットで、原作の寿海は怪異が出現したからと百鬼丸を追いだしてひどい。という意見を拝見したのですが、

 百鬼丸が旅に出ないと話が始まらないというのは置いといて、

 むしろ、自分の育て上げた養い子が必ず百鬼に打ち勝ち帰還する、と信じて出立させることが出来た「自立した大人」が寿海と捉えていた私にはこの感想は意外でした。

 信じているから手放せる、そんな慈悲の心を持った人に育てられたから、

 簀巻きの「どろろ」を放っておけなかった「百鬼丸

 四肢は欠損していたかもしれませんが、彼はこの作中で誰より「人間性」豊かに描かれています。彼の最後の試練がその旅路であり、その旅路が第二部の主人公どろろの旅路を照らし導く展開になったのではないかなと、時々夢想するのですけれども、

 

 いつものことですがオチないままでごめんなさい。

 どっとはらい

 

 

 子供を「手元におく、一緒にいる」こと以上に「自立させる、旅立たせる」

ことが成長には重要だと思うんですよ。

 一緒にいることが依存になってしまうと成長を阻んでしまうわけですから、

 まあ、旅立つことが出来るから「再会」もできるわけで、

 

 そんなことを考えると『うる星やつら』の諸星あたるの、

「好きな人をずっと好きでいるためにその人から自由でいたいのさ」

 は至言。

 

 

「手塚治虫WORLD - 少年マンガ編」 著者:手塚治虫 監修・文:みなもと太郎

手塚治虫WORLD - 少年マンガ編、これがホントの最終回だ!】

発行:ゴマブックス株式会社 著者:手塚治虫 監修・文:みなもと太郎

f:id:moke3:20210316154610j:plain

 

 手塚治虫の代表作『鉄腕アトム』『ブラック・ジャック』『リボンの騎士』『どろろ』『ジャングル大帝』『W3』の6作品の雑誌初出時のオリジナル最終回を掲載、漫画家のみなもと太郎氏が解説する一冊。

鉄腕アトム』では「少年」の最終回の後「別冊少年マガジン」に掲載された外伝的な最終回「アトム今昔物語」小学館の「小学2年生」に掲載されたストーリーなどを多彩に取り上げ、『W3』では当時事件の発端となった『宇宙少年ソラン』の漫画を担当された宮腰義勝氏のコメントも紹介されていて、これはなかなか貴重な証言? また初出と現在購入可能な書籍も掲載されていて親切設計。漫画家であり、マンガ研究家としても活躍される「みなもと太郎」氏の博覧強記な解説が魅力の一冊です。

どろろ』は「ぬえの巻・後半」が収録されています。

 

 みなもと氏の『どろろ』解説に由れば、

『光』『どろろ』『ブラック・ジャック』の人物設定 ( ちょっとニヒルな主人公にまとわりつく少女という配置、凸凹コンビの面白さ ) が酷似していて、これら三作品は奇妙な三角関係にある。

 とのこと、

 これに関しては、三角関係がもう一つあるような気がします。

どろろ』『ブラック・ジャック』『ドン・ドラキュラ』

 これらの三作品は親子の関係性が感じられる作品だな、と以前から思っていまして、ピノコが長女のるみ子氏に似ているのは、あちこちで良く指摘されていますが、チョコラは手塚家の次女様に似ていると思いませんか?

 まあ、私見になるのでアレですが、

 どろろのモデルを手塚眞氏、ピノコをるみ子氏、チョコラを  …

 とすると、しっくりくる気がするのです。

 手塚先生が『ドン・ドラキュラ』は『ブラック・ジャック』のパスティーシュと語っておられたのも、

ピノコ、せんせいのおくたんよのさ ( お父さんのお嫁さんになるの )」

 から、

「チョコラ、わしを見捨てないでくれ」

 父はどんどんおじさんになり、娘は成長し、そんな娘を見てお父さんは ー

 という構図です。

 百鬼丸が少年期、BJが青年期、ドンドラキュラが中年以降と考えると面白いんですよ。「身体がバラバラ」になった時に百鬼丸もBJも取り戻すのに苦労するわけですが、ドン・ドラキュラは灰になっても、身体の一部になってもしつこく再生してくるんですよね。傷つきやすい少年・青年も、いつかカッコ悪くもしたたかな中年になり、いちいち傷ついてもいられないというわけでしょうか、

アニキもきっと50年後には、したたかな爺ぃになっているんじゃないかな、

どこか、物語の外で、

その時は、隣に気風が良くって口の悪い婆ぁがいるんでしょう、

 

 

どろろ』は、手塚眞氏自作の怪獣・妖怪図鑑『ババー百鬼』から先生が「四化入道」を着想したエピソードも含めて、私には眞氏の印象が強い作品なんです。

( 手塚先生の本棚には当時「鳥山石燕・図画百鬼夜行」が有り、それに掲載されていた「鉄鼠」も参考に「四化入道」のキャラクターが作られた )

 手塚眞氏とお父さん「手塚治虫」の『どろろ』に纏わるエピソードは、

【 虫ん坊:手塚マンガあの日あの時・第27回:妖怪ブームの荒波に挑んだ『どろろ』の挑戦 ‼ 】に詳しく掲載されておりますので是非。

 

 

秋田書店・秋田文庫「どろろ」3巻・解説「正統的な妖怪漫画」手塚眞

「ところで僕も自他ともに認める妖怪好きなのですが、これが父親の漫画のせいなのか、それとも息子の妖怪好きが父親に妖怪漫画を描かせたのか、今となっては分かりません。しかし、僕はわずかにこの漫画に貢献したようです。そのひとつは「どろろ」という題名。幼かった僕が「泥棒」のことを舌足らずに「どろろお」と呼んだのを父親はヒントにしたとか。これは、記憶に定かではないので真偽のほどは分かりません」

【 虫ん坊:手塚マンガあの日あの時・第27回 】

「『どろろ』について、家族の間でいまだに謎なのが「どろろ」の語源についてなんです。父はこれを「ぼくの子どもが、どろぼうのことを片言で “ どろろう ” といったことからできた」と書いているんですが、実際にそれを誰が言ったのかが分からないんですよ。ぼくが言ったのなら父は「子どもが」とは書かずに「息子が」って書くと思うんです。じゃあ親戚の子どもかっていうと、それも思い当たるような年齢の子はいないんです …」

と、タイトルの謎は、やはり謎のままの様子です。

昆虫つれづれ草

【昆虫つれづれ草 著:手塚治虫 小学館Lapita books】

 ー手塚治虫、虫の博物誌ー

f:id:moke3:20210306200145j:plain

『昆虫つれづれ草』は手塚先生が旧制中学時代、御学友と一緒に昆虫についての小論をまとめて発行していた小冊子で、装丁・挿画、構成の巧みさとこだわりも凄いのですが、先生の早熟な文才と当時の ( 旧 制 ) 中学生の教養の高さに驚かされます。

 天才は早熟だと言いますが、これを1~2週間で清書、装丁・製本までやって仕上げていたそうなので、いやはや天才とは本当に恐ろしい ( 栴檀は双葉より芳しというやつでしょうか ) 漫画は「インセクター」と「ゼフィルス」の二編が収録。

 また、巻末に先生の旧制北野中学時代の同級生「林久男」さんインタビューが掲載。40数年ぶりに偶然書庫から発見された経緯、戦時下の記録も含めて、読みどころも多く、少年手塚治虫のみずみずしい感性に驚嘆せずにはいられません。

 序盤の「昆虫と神話」で記紀神話に登場する昆虫について論じたり、引用される文献も神話・古典・民話と多岐に渡っていて、手塚作品の豊かな物語のしっかりした土台はこの辺りにあるのでしょう。

amazonで安価になっていたので、虫が苦手じゃない方にはお勧めしておきます。( 2021年3月現在 )

 

 

 関西キー局で再放送された『手塚治虫』特集番組で拝見したのだと思うのですが、この林久男氏が、インタビューで、

「手塚君に心酔している友人がいて、いつも3~4人で遊んでいた」

「手塚君は女の子によく構われていた」

 と、当時の思い出を語っておられて、

 これを聞いて思い出したのがNHKの手塚治虫 ( 追悼?) 特集番組。

「同窓会で『この○○に登場するキャラクターの名前は私 ( の旧姓 ) でしょう? 珍しい名前だから偶然じゃないよね』 って手塚君に絡んで困らせちゃった、うふふ……」

 と、インタビューを受けて「手塚治虫」との思い出を語っていた上品なおばさま。

 

 手塚先生、小・中学生時代にモテていたのでは?

 ご本人の自覚は無かったと思いますが、

 先生の昔の写真を見ていても思うのですけれども、こんな小柄で可愛くて頭良くて面白いことを思いつく、ちょっと気弱な男子が居たら女子は構っちゃうと思うんですよ。

 モテモテとか、憧れの的とか、きゃーきゃー言われたじゃなくて、

「構われていた」

 と、言うのが先生には申し訳ないのですが、

 微笑ましくていいなあ、

 と、

 思う所存で御座います。

手塚治虫昆虫図鑑 

f:id:moke3:20210227153710j:plain

手塚治虫昆虫図鑑 手塚治虫・小林準治 ( 解説・構成 ):著 講談社+α文庫】

 《 漫画の神様手塚治虫は稀代の昆虫好きだった。その膨大な作品群の中から、あるときはリアルに、またあるときは漫画的に昆虫が登場してくる140作品をセレクト。昆虫を通して、手塚ワールドの新たな魅力を発掘します 》 -BOOKデータベースより

 手塚作品を昆虫という切り口でまとめた一冊。

どろろ』もいくつか取り上げられているのでご紹介します。

 

f:id:moke3:20210227153141j:plain

 マイマイオンバのモデルとなったドクガ科の「マイマイガ

 

f:id:moke3:20210227153235j:plain

 どろろの昆虫食、トノサマバッタ?を焼いて食べているシーン。

 

f:id:moke3:20210227153328j:plain

琵琶法師が仕込み杖で蠅を一刀両断する場面。

主役はハエでは無いのですが、

《 ハエの翅の付け根をよく見ると、細く棒状にくびれ、平均棍が描かれている。これが、ハエを描くうえで最も肝要な部分で、ハエの一番の特徴なのだ 》

と、紹介された正確な描写に手塚先生のこだわりが感じられます。

 

f:id:moke3:20210227153405j:plain

 どろろ助六と「ミノムシ」の様にぶら下がる場面。

 地味な虫である「蓑虫」は手塚作品でも登場が少なく、登場してもミノムシモドキ、ギャグカットと紹介されていますが、

ー 枕草子・第41段 -

《 蓑虫いとあわれなり。鬼の生みたれば、親に似てこれもおそろしき心あらむとて、親のあやしき衣引き着せて「いま秋風吹かむをりぞ来むとする。待てよ」といひおきて、逃げて住にけるも知らず、風の音を聞き知りて、八月ばかりになりぬれば「ちちよ、ちちよ」とはかなげに鳴く、いみじうあはれなり 》

《 蓑虫はとても趣深く感じる。鬼の ( 生んだ ) 子なので、親に似て恐ろしい心を持つだろうと、( 親が ) 粗末な衣装を着せて「秋風が吹くころに来るので、それまで待っておれ」と言いおいて去ったことも知らず、風の音を聞き知って、八月になると「父よ、父よ ( あるいは乳よ )」と心細く鳴くのは、しみじみと不憫で趣き深い 》

 ・「蓑虫の声を聞きに来よ 草の庵」と、芭蕉の俳句が有名ですが「蓑虫」は秋の季語で、多くの俳人歌人が題材にしており「蓑虫」の異名「鬼の子」「鬼の捨子」こちらもよく題材になっています。

 ・蓑は異界との往復の装備で、祭りの来訪神は蓑をまとっていることが多く、秋田のナマハゲも蓑を装備して現れる。

 と「ミノムシ」に関するアレコレを列挙してみると、どろろ助六の浮浪児二人がミノムシ ( 鬼の捨て子 ) の恰好をしているのも偶然では無く、なんらかの暗喩があるのではないかと考えてしまいますね。

 

 また、手塚作品では「虫」「植物」「鳥」で季節の変化を表していることも多く「手塚治虫文庫・どろろ ( P17 )」でツバメが子育て中、( P61 ) でマルハナバチ (?) が描かれているのを見ると、アニキは5月中頃~6月下旬生まれの様ですね、牡牛座かふたご座? 

f:id:moke3:20210227153458j:plainf:id:moke3:20210227153556j:plain

 

 手塚治 “虫” 作品では「虫」が作品世界の暗喩、象徴に使われていることが多く、読書のお供にこの一冊を添えることで、より深く手塚ワールドに浸れるので、おすすめしておきます。架空の昆虫も含めて適当な描写が無く、特に先生がこよなく愛した「チョウ目鱗翅目」の章は充実していて楽しいです。

 

 本書のP226・オオホシオナガバチ

《「人間昆虫記」の主役、十村十枝子の生き方を見ると、ここにヒメバチを登場させたのは、さもありなんと思わせる。手塚治虫だけが持つセンスを感じさせる、恐ろしい象徴である 》

は、本書を読むまで気が付かなかったけれど、気が付くとゾクゾクする、象徴的な暗喩でした。小さくて地味なハチなのですが、その華奢なシルエットが女性的で寄生と言う習性とともに印象的な昆虫ですね。

表現規制と都市伝説

※怪談注意

 

 冬の北海道で踏切事故が発生、はねられた女子高生は上半身と下半身が完全に切断されたが、寒さの為に切断部分の血管が収縮し数分間生存していた。上半身は下半身を探して息絶えたという。この話を聞いた人のところには三日以内に下半身の無い女性の幽霊が現れ、逃げても時速150キロの高速で追いかけてくるので逃げられない。「地獄へ帰れ」などの追い払う呪文を唱えないと恐ろしい目に会う。

 多くの場合女性が事故にあうが、まれに男性とされるバージョンもある。

 切断面が凍結したため死亡まで時間がかかったとされるバージョンもある。

 

 突然何の話か? 表現規制と何の関係が? 

と、面食らわれたと思います …すみません。

 ご存知の方は「アレ」かな、と気が付かれたでしょうか、

 これは都市伝説「テケテケ」です。

 バリエーションが豊富で複数のバージョンが有り、線路事故後に上半身が見つからず、その後付近で高速で這いよる上半身だけの男あるいは女を目撃する。交通事故で自動車の下敷きになった人を引っ張り出そうとするが下半身が轢殺されており……

と、この二つが巷間に流布されている「テケテケ」誕生エピソードです。

 1990年代には人気の都市伝説で、児童たちの間で広く語られるうちに、学校バージョンも出現しました。

「一人の女の子(男の子)が忘れ物を取りに学校に戻ると、もう遅い学校の窓に人影が見える。人影は窓の縁に手を組んで外を見ており、忘れ物を取りに来た子は自分以外にも忘れ物を取りに来た子がいるのかと校舎に入って、その窓のある教室をのぞくとその子には下半身が無く、上半身だけでテケテケ追いかけてくる」

と言うのが学校怪談として有名なもので、こちらを聞いた方も多かったのではないかと思います。

 最初に紹介した「高速で追いかけてくる怪異」が都市伝説として広く巷間に流布した結果、怖い話が好きな小学生児童によって、出現場所が「学校」名前が「テケテケ」と設定され、さらに妖怪としてのキャラが立ち、人気の学校怪談として定着した様です。

  さて、1990年代には不安な世相を反映してかテケテケのような都市伝説が良く流行った時期で、民俗学者常光徹先生が児童書「学校怪談」を上梓、子供たちの心を掴んでヒット作となり、1995年には映画化されてシリーズとなりました。

 当然、当時流行の都市伝説であった「テケテケ」も映画「学校怪談」1~3に出演していますが、都市伝説の「テケテケ」描写とは大幅に異なり、映画中ではコメディタッチの妖怪となって登場。もはや下半身が無いという設定も無くなり、鎌を手に「あぐら」をかいて宙を飛んで登場します。

  何故かというと、

 1989年の「連続幼女殺人事件」以降、強くなった「表現の自主規制」の波を「テケテケ」もかぶってしまったんですね。

 「下半身を欠損」した少女の怪異、

 怪異であっても、都市伝説というファンタジーであっても、「人の形をして身体の一部を欠損」している時点でOUTです。

 あぐらをかいてしまっては、もはや「テケテケ」ではないと思うのですが、映画の中では高速で追いかけてくる妖怪という属性のみ残して登場しています。

 

f:id:moke3:20210124132634j:plain

  

 本来はただの都市伝説、怪談話であったものが「場所」と「名前」を与えられて、よりはっきりとした怪異・妖怪となり、メディアに持ち上げられて知名度が全国区になり、「表現規制」というメディアの大人の事情で人としての形を失う…… と「テケテケ」の辿った歴史を考えるとなんだか物怪の哀れを覚えずにはいられませんが、

 その後、2009年にはそのものずばり「テケテケ」というB級ホラーとして復活、こちらでは本来の形に戻って下半身の無い少女として描写されています。

 

 以前より有った「表現の自主規制」「オタクパッシング」は1990年代に吹き荒れ猛威を振るいましたが、2000年代に入って徐々に(LGBT・ジェンダー問題など、新たな裾野は広がり、依然として有るものの) 緩和?されていると感じます。

 それが良いことなのか、如何なのかは時間の経過を待たなければならないのでしょうが……

  メディアで叩かれにくくなったのは、さらなる人権意識の高まりにより、身体の欠損も個性と捉え、もはや欠損を隠す必要は無くなった時代背景と、

 時代の変化とともに「オタクカルチャー」評価の上昇、幼少時からマンガ・アニメ・ゲームが豊かに有る環境で育った「オタク」がライフスタイルとなっているライトオタク層の増加、海外でのジャパニーズサブカルチャーの人気上昇、etc……

 まあ、ぶっちゃけてしまえば、この時代、オタクカルチャーは「ビックビジネスに成り得る」「お金になる」ことが、大きな理由のひとつなのでしょう。

 

 

※「表現の自主規制」とは、使用したとしても(法律化されてはいないので)処罰されないが、公共の利益に反したり、社会通念的に不適当と思われる表現を行政に拠らず、創作者個人・団体が自律的に規制することですが、各業界の暗黙の了解で成り立つ部分が多く、同調圧力の強いこの国では、法律などの外的規制で律せられるよりも、創作者個人が内的な価値観の変化を強いられることになり、裏を返せば「表現の自由」への侵害となる問題でもあります。

 

 

『AKIRA』と『it』の相似

 2019年、奇妙な同時多発を見て「長々オタクをやっていると面白いことがあるものだ」と感じたので、雑感を纏めてみます。

 まあ、単なる偶然で、その様に感じたのは私くらいでしょう。理屈と膏薬はどこにでもくっつくものですし、しばし由無しごとにお付き合いください。

 

 新アニメ『どろろ』が放映されていた2019年、二つの映画が話題になっていました。

 キングオブホラー “  スティーヴン・キング  ”  の『it -  “ それ ”  が見えたら、終わり』と、世界の “ 大友克洋 ” の『AKIRA』です。

 どちらも名作で、おすすめです。

『it - イット -』は映画も良いですが、小説を是非、御一読下さい。

 以下、あらすじと雑感を少々、結末に触れる部分もありますので、ネタバレが嫌な方は回れ右でお願い致します。

 

 

『it- “ それ ” が見えたら、終わり』

 主人公と、その仲間 “ ルーザー  (  負け犬  )  クラブ ” と自分たちで自嘲気味に名乗る子供たちは「いじめられっ子」で両親や成育歴に問題を抱えた被虐待児たちです。

 彼らと町に巣くって子供を喰う化け物ピエロ「ペニーワイズ」との戦いを書いたこの物語は、映画化されてヒット作となりました。モダンホラーですが、ビルディングスロマンとしての側面も優れており、それが高い評価につながったのでしょう。

 この作品の舞台となる「デリー」という町は怪物の災禍に定期的に見舞われており、町の人々はその難を逃れ生き延びた人々の子孫です。

 なので、事無かれ主義が徹底しており、子供たちが虐待されていても、住人が見て見ぬふりをするシーンが小説にも映画にも何度かあります。怪物は餌を得るためにこの町にかりそめの繁栄を与えており、町は豊かですが、怪物が目覚める23年ごとに子供たちは怪物に食われて犠牲になります。

 第一部では子供たちが戦って「ペニーワイズ」を撃退し、怪物は眠りにつきますが、退治することは出来ませんでした。

 第二部で大人になった彼らは、自身の持つ課題 ( 幼少期からの虐待による心的外傷 ) と対峙しながら困難を乗り越えて怪物を倒します。

 怪物が蜘蛛のような姿形で出産間近の母であったというのも何やら暗示的。

 そして、怪物が退治された後に繁栄していた町を崩壊が襲います。

 この辺の描写は容赦なく、かりそめの繁栄はかくも脆かったのだと思い知らされます。「ルーザークラブ」のメンバーは子供のころからの課題に蹴りを付け、成長し、それぞれの人生を歩みだします

 失うものもあり、得るものもある、いいエンディングでした。

 

 もう一つの作品『AKIRA』は大友克洋先生原作・監督の名作です。

 2019年は劇中で舞台となった年で、それを記念して、リバイバル上映、コンサートなど多くの催し物が開催されました。

 

 さて、この物語には老人のような容姿の “ ナンバーズ ” と呼ばれる子供たちがいます。親に売られ実験体となった彼らは「超能力」を持ちますが弱弱しい存在です。

 また、実年齢は中年ですが、実験体とされた為に “ 成長できなかった ” 彼らは老人にも子供にも見える容姿に描かれます。親に売られ、国家に食われている成長できなかった子供たちです。 -そして、物語の最後に都市は大崩壊を迎えます。

 子ども ( 未 来 ) を喰って繁栄している都市あるいは国家は崩壊してしまうのです。

 

 新アニメ『どろろ』も魔神が “ 百鬼丸 ” を喰って国が繁栄している設定でしたが、崩壊は訪れませんでした。最後にどろろが「金だよ」とか言うんですけど、武力や魔神の力よりまし ( ? ) かもしれませんが “ マネー ” がそれらにとって代わる世の中は本当に良い世の中なのか、疑問です。

 大国・大企業が文字通り “ 人の尊厳、自由 ” を奪って、経済の力でねじ伏せているのを見ると「金が力」も明るい未来に結び付くとは考え辛い気がします。

 

  まあ、「Not for me」案件なのですが、

 私は物語の筋の悪さは否めないし、創作者としてのセンスも?だと思いました。

 

 『子供たちを犠牲にしてかりそめの繁栄を得ていた都市の崩壊』

 2019年に、これら3つの作品が同時多発したのは面白い偶然だと思いませんか?

 

 

とんぼの本『手塚治虫:原画の秘密』

f:id:moke3:20201116140424j:plain

とんぼの本 『手塚治虫 原画の秘密』

発行:新潮社 著:手塚プロダクション・森晴路

『切り貼り、描き直し、ボツ…「漫画の神様」の苦闘の痕跡は、すべて「原画」に刻まれていた。門外不出の原画・下描き類がいま語る、手塚漫画の秘密とは?』

 

 原画・カラー原画を多数収録。

 切り貼り、修正、書き直し、没原稿など制作過程が分かる様に写真で詳細に掲載。単行本未収録原稿も多数掲載があり『どろろ』では、

 冒険王1969年9月号、単行本化でカットされた「醍醐景光・縫の方」の会話シーン。

 冒険王1969年5月号付録から単行本化の際に設定変更の為、全面カットされた『冒険王版』が一部掲載(「百鬼丸」の魔神に奪われた身体48ケ所で作られた人間が「どろろ」で「どろろ」を殺して体を取り戻すか「百鬼丸」は悩み苦しむという設定があったがカットされた)

 週刊少年サンデー1968年4月21日号、単行本化でカットされた見開きタイトルページ。

  が、収録されています。

 その他、手塚作品のシノプス・設定画・下書きなども多数紹介され、幻の『燈台鬼』の未発表ボツネームも掲載されていて、ファンには親切設計 “ ありがとう新潮社さん ” な一冊。

 

 新潮社さん “ とんぼの本 ”  で「原画の秘密」シリーズを続けて下さらないかしら、手塚プロダクション監修の「お蔵出し」を是非、少年マンガ編・青年マンガ編と、カテゴリー毎に分けて、大判サイズで …  ( 強 欲 )

『金目童子』 著:高橋葉介

 『金目童子』 著:高橋葉介

 朝日ソノラマ:ハロウィンコミックス 

f:id:moke3:20201114155141j:plain

【あらすじ】

 出産時に母と死別した「金目童子」は孤児として拾われる。しかし、彼を拾った養父母は人でなしで虐待されて育つことになる。養父母の折檻で両目を失い彷徨っていた童子は、山中で母の霊と出会う。そして、母に神通力を宿す目を与えられ、実の父を探すように助言される。

 こうして不思議な金の目をもつ「金目童子」はあてどない旅に出る。道中出会った少女「銀姫」と僧侶「紫銅」が仲間となり、三人の妖怪退治の旅は賑やかに続く。

 

 怪奇と幻想、奇妙な諧謔味。

 独特の作風で知られる高橋葉介先生のコメディ「妖怪退治道中物語」少年が主人公の妖怪退治もの。

 道中、仲間になる「銀姫」は妖怪「単眼鬼」を山に封じるため鎮魂の鈴を鳴らしていた少女なのですが、この「単眼鬼」はふもとの村に福をもたらすために生贄にされた子供たちの怨念の集合体で…

 とか、

 脇役に、かっこいい、腕っぷしが強いお坊さん、

 最期の敵が〇〇とか、

 どこか『どろろ』を思わせる妖怪退治譚。

 最期は大団円で綺麗にまとまっていますが、この設定とキャラクターで珍道中をもう少し長く見たかったかな。

『夢幻紳士-冒険活劇編-』が好きな方にはオススメ、

 

 

f:id:moke3:20201114155244j:plain
f:id:moke3:20201114155306j:plain
f:id:moke3:20201115115356j:plain


『猟鬼博士』に収録されている『影一号指令』の本郷さんも蟹頭で「あのキャラクター」に似ているのは気のせいだと思うのですが…

他にも『影男』に四肢を武器や機械で補填したダークヒーローが登場したりします。

街場の現代思想 -手塚治虫の天才性ー

f:id:moke3:20201103061643j:plain

【 街場の現代思想 】 2004年7月6日発行:NTT出版 著:内田樹

 「あとがき」、あるいは「生きることの愉しさ」について P227 -より

手塚治虫が天才であることに異論のある人はいない。だが、彼が「どのように」天才であるかについてはさまざまな解釈があって必ずしも意見は一致しない。私は手塚の天才性はなによりもその「さかさまのストーリーテリング」にあると考えている。手塚は重大な問題については、ほとんどつねに「現象の図と地を入れ替えて考える」人だったからである》《ふつうの人間に保証されているはずの基礎的なリソースをすべてそぎ落としたあとになお「残るもの」があり、それを拠点として人間がおのれの存在理由を構築できることがあるとすれば、それこそが人間性を担保する「最後のもの」に違いない。それは何か?》

 『鉄腕アトム』のテーマは「人間性とは何か」という問いかけだ。何が人を人たらしめているのかという問いかけを物語として昇華するために、手塚治虫は「人ならざるもの」、ロボットを主人公にした、それこそが手塚治虫の天才性であると内田氏はいう。答えが無い困難な問いに、類まれなる想像力で挑み続けた天才、それが手塚治虫であると、

  大塚英志氏の『アトムの命題』は「親に呪われ、その生を否定された子供はどのように成長すればよいのか?」という答えのない問いかけを含んでいる。

 「あとがき」、あるいは「生きることの愉しさ」について P227 -より

《「死んだ少年の代理表象」であるところの「成長しないロボット」が、彼にとっての創造主=神である天馬博士に「無価値なもの」とレッテルを貼られ棄てられるという、これ以上はない絶望的状況に投じられたところから手塚は物語を始めた。自分が自分であることの意味を支えてくれる一切の条件を奪われたものは、その全的喪失から、いったい何を足がかりとして自分が存在することの意味と尊厳を奪還してゆくことができるのか?手塚はそう問いを立てたのである》

  これは、こうも言い換えられるだろうか、

どろろ』という物語は「親に呪われ、生を奪われた」子供が、子供にとっての「しあわせの国」である「両親」に捨てられ流されるという、これ以上はない絶望的状況に投じられたところから物語が始まる。全的喪失を纏ったものの成長とは何か?

  本来ならば子供は幼児的万能感を満たされた後に母子分離を果たし、母と自分は違う人間であると気が付いて「しあわせの国」を失う、

 成長とは一種の「失楽園」だ。

 しかし、失うものすらも持ちえぬ「親に呪われた子供」はどう成長すればいいのか?

 その絶望的状況から『どろろ』の百鬼丸の物語は始まる、

 欠乏は物語を動かすエンジンで「大きな欠乏」は物語を動かす大きな力になる。

 とはいえ、この全的喪失は大きすぎないか?

 エンジンがピーキーすぎて車体がどうにかなる危険を胎んではいないか?

 しかも天才はさらに仕掛けてくる、

 もう一人の主人公も「大きな欠乏」を抱えている。

 彼女にとって「しあわせの国」であった両親は、彼女に過剰な期待を寄せて依存する。彼女に掛けられた「呪い」は両親への思慕の情が大きければ大きいほど、両親の期待に添いたいと「彼女を縛って」しまうものだから、

 然りとて、この二人の主人公は残酷な戦国の世を彷徨いながら、他者に依存することなく「生 ( 成長) 」への道を、あがいて進むのだ。

「おいらだって人間だ」と、

 

どろろ』に限らず、手塚作品では「人間性とは何か」「人に成るとは何か」

が問いかけられていることが多く、特に『アトムの命題』を強く背負ったキャラクターが出てくる作品にはその傾向が強い。

 答えの無い問いかけは「考え続けるしかない」

  読者に、

「これはマンガだけれど、マンガと言う手法で僕は君たちにメッセージを送っています」と、問いかけ続けた天才のメッセージを少しでも受けとることが出来たら ー

 ー 思考し続けるしかない。

 答えはいつも「時空不連続体をすり抜けて」しまうのだけれど、追いかけ続けたい。

  そして、

 居住まいを正し背筋を伸ばして、臆する気持ちを抑えながら、

「やあ、先生、この作品について私はこう思うんですけれど …」

  このブログはそんな私的なブログです。

 内容のアレコレはいいっこなしで、よしなに

 

 最後に満面の笑顔で、

「せんせい、おたんじょうびおめでとうございます!」