『どろろ』を巡る冒険或いは私的備忘録

「どろろ」を中心に「手塚作品」の記事を掲載。カテゴリーは【書籍・舞台・表現規制・どろろのあゆみ・どろろに影響を受けた作品・「神話の法則の三幕構成」で解析する「どろろ」・ブラック・ジャック、ロボトミー抗議事件・ジャングル大帝、黒人差別抗議事件】

どろろのあゆみ【13】1994年:池袋ミニシアター上映

 1994年、池袋ACTシアターで旧虫プロ作品の上映があり、その中で幻作品として『どろろ』26話も上映。後に『どろろ』のみ一挙上映されました。
「ぴあ」などの媒体で宣伝されたこともあり、第一回の上映には劇場前が長蛇の列となりました。館内は通路も立錐の余地が無いほど立ち見客で埋まり、虫プロ作品と『どろろ』の人気の高さが伺える上映企画でした。

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 上映前に館長さん ( ? ) の御挨拶があり、
「この作品を上映するとひどい差別作品を上映したといって抗議が来ることがあるので~」云々との事でしたが、要約すると「滅多に見られない貴重な作品を上映します。付近には飲食店・民家もあるので深夜・早朝に騒がないで下さい、抗議が来るからね」という注意喚起だったような … ( 記憶曖昧 )
 当時の印象・感想としては、
「本当に危険な作品だったら “ ぴあ ” に掲載できないし、チラシも配布できないのでは …」だったので、お察しください。
 となりの女性客お二人は「芝居小屋の口上みたいだったねー」「あんな、おじさんいるよね」と、館長さんの挨拶も楽しかったご様子でした。
 その後2回目、3回目と上映時の人出は落ち着き、3回目には立ち見客もいませんでしたが、これは消防の指導が入ったのかも… ( … と思うほど、ばれたら消防署に絶対叱られる、と言うくらい立錐の余地も無く立ち見でした。都内の通勤電車もかくやの “ きゅうきゅう ” で、小さなミニシアターでしたし、空調があっても大変な状態でした )

 

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 第一回上映後には、リリーフランキー氏が「百鬼丸」を描いて「ぴあ」に寄稿。

 

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 また、1996年6月発行「どろろ草紙縁起絵巻・武村知子著」に、
百鬼丸縁起:P17 ー そこにあるものとしてまずは見なければならないだろうと思った。機会をとらえ、勇を鼓して、見に出かけた」
と、武村知子氏が書いており、氏も上映に足を運ばれた様子です。
( 休憩時間のお客さんの会話は聞くとも無しに小耳に挟まってくるものですが、興味深い小耳もあって、当時、思った以上に業界の方が足を運んでいた印象を受けました。また一話終了毎に主題歌を聞くことになるので、深夜も更けてくると何回も聞くことになるのですが、何回目かのオープニングで若いお嬢さんが “ また、ホゲタラだぁ~ ” と叫んで館内が爆笑の渦、の一幕もありました )
「ぴあ」に掲載されたことで多くの方が興味を引かれたのか、館内には若い方も多く見かけ華やかな賑わいを見せていました。

 1994年にACTシアターで虫プロ作品とともに『どろろ』が上映されるプログラムが組まれた経緯は不明ですが、この一挙上映で、改めて『どろろ』は再発見されたと思います。

 この後、
1998年1月25日発売 『どろろ』LDボックス
2000年6月21日より 東映ビデオシリーズ『どろろ』全6巻発売。 
2002年11月21日には DVD 『どろろ・Complete-BOX』発売。
2001年には学習研究社から鳥海版『小説・どろろ』が上梓。
と、関連商品・書籍の発売が続き、
 2004年9月には、
 SEGAから『どろろ:DORORO』PS2版ゲームが発売。
 同年に『新浄瑠璃百鬼丸』が紀伊国屋ホールで上演となります。

「青少年に有害な書物の排斥」運動は継続し、マンガを含む創作物の規制は年を追う毎に厳しくなっていましたが、1970年代後半の「手塚治虫復活」から評価の高まりを見せていた手塚作品は1989年に先生が身罷られてから、1990年代に入って、さらに評価が上がっていた時期でした。
( 1990年7月20日 ~ 9月2日「東京国立近代美術館」で『手塚治虫展』開催、同美術館で漫画家初の美術展 )
 1990年代以降、サブカル誌で取り上げられるのと並行して、
 上手く表現できないのですが … 先生の評価は歴史上の偉人になり、作品もPTA推薦のような文脈で語られることが増えました。1950年代の悪書追放・焚書騒動で手塚作品がやり玉にあげられ「手塚治虫は破廉恥漫画家」と言われた時代があったことが嘘の様ですが、時代は変わっていました。
 その変化と連動して『どろろ』の評価も変化し、商品化・メディアへの露出が増えてきた側面はあると思います。

どろろのあゆみ【12】1990年代~

 1991年のバブル崩壊後、株価・不動産価格の下落により金融機関に多額の不良債権が発生。これにより、過剰な企業融資の見直しが行われ、金融機関の「貸し渋り貸し剥がし」と言われる行為が横行、企業の大量倒産を招く結果となりました。
 この負のスパイラルは「失われた10年」と言われる長期の不況を招き、金融機関自体の倒産も相次ぐ結果となりました。この影響により、団塊ジュニアと呼ばれる層は「就職氷河期」を迎え、多くの派遣労働者ニートが発生、この問題は長く尾を引いて今も日本の課題となっています。
 これら経済の冷え込みに加えて、
 1995年に「阪神淡路大震災」発生。同年に「オウム真理教」による一連のテロ事件勃発。不況と重なって社会不安の強い年代でした。
 また、1997年「神戸児童連続殺傷事件」発生、1990年代後半は未成年による凶悪事件が多く、これにより少年法は厳罰化へ向かいます。( これらの事件時に創作物の影響がメディアで語られる事は相変わらずでしたが、この時期以降はコミックも含めて、ゲーム・映像作品もやり玉に挙げられる事が増加した様に思います )
 そのような社会情勢を背景に、
 アニメでは1995年に『新世紀エヴァンゲリオン』が放送開始。社会現象ともいえるヒット作となり、同年11月公開された『攻殻機動隊-GHOST IN THE SHELL-』は米国ビルボード週間売り上げ1位を記録 ( 1996年8月24日付 ) する等、国際的に日本のアニメーションが評価を高めた年代でした。 
 また、1995年には「Windows95」がMicrosoftからリリースされ人気を博し、一般家庭にパソコンが普及される原動力になりました。この時期よりインターネットも浸透し、1999年には「2ちゃんねる」が登場しています。

 1990年代に入ってからも、
 手塚作品の再発見・再評価は続いており、サブカル誌での手塚作品紹介は増えていました。( 1980年代後半のバブル時代にはサブカル誌だけでなくマンガ誌も多く創刊され、その影響は1990年代に入っても続いていました。私はバブルの恩恵を全く受けない場所にいましたが当時を振り返ると、1991年以降もバブルの残り香のような物はあって、経済は徐々にやせ細るように衰退していった印象です。そして1990年代も後半 ~ 2000年代前半になると廃刊・出版社の倒産が相次ぎ、後年「あの本買っとけば良かったあぁぁ…」と呻くことになるのです … )

 

 これは 【 i-D japan:1992年・12月号 特集:サイボーグになりたい 】
どろろ』の紹介記事

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 なぜ「エマニュエルさん」の隣なのか …

 

どろろのあゆみ⑥」で紹介した、
「ぶーけ」で『イティハーサ』連載時に水樹和佳子先生のアシスタントをされていた漫画家さんが「幼稚園の頃、水筒が “ どろろ ” で女の子っぽくなくって、恥ずかしかった」みたいなエピソードを紹介、「ぶーけ」に記事として掲載されていました。
の元記事が出てきたので掲載。

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「ぶーけ」本誌は処分してしまったのですが、これだけスクラップしていたようです、
九月乃梨子先生の《 “ どろろ ” というアニメがもう一度見たいのでビデオが出ていたら教えて下さい 》という、告知板だったのですね、

 旧アニメの映像は幼児期にはトラウマものだったのでは … と、思うのですが
 1990年代には、旧アニメ『どろろ』を幼少期に視聴していたテレビマンガ世代が20歳後半 ~ 30歳代に成っていた頃で、
 九月先生の様に、大人になり改めて『旧アニメ・どろろ』を観たいと思った方は多数いらっしゃった様子です。

 次回は1994年の池袋上映の様子を纏めたいと思います。

どろろのあゆみ【11】どろろとサイバーパンク

 1970年代には米ソ・デタントにより一時東西冷戦の緩和が見られましたが、80年代に入り、ソ連アフガニスタン侵攻により状況は激化。しかし東欧諸国の革命により社会主義勢力の衰退と言う形で冷戦は終結に向かい、1991年ソ連の崩壊により幕を閉じます。
 しかし、アジアでは北朝鮮大韓航空爆破事件、中国の天安門事件など、冷戦構造の継続を思わせる事件が起きており、国際社会は不安定な時期でした。
 また、原子力発電の普及が進んだこの時期、1986年4月「チェルノブイリ原発事故」発生。日本でも反原発運動が盛んになります。
 この時期の日本は、第二次オイルショックを経て、経済は安定成長期に移行。
 1985年のプラザ合意以降、円高ドル安は進行し、この時の金余りから日本経済は「バブル景気 ( 1987 ~ 1991 )」へ突入します。
 1980年代後半は経済の華やかな面とは裏腹に不安定な国際情勢が影を落とし、何処か「世も末路線」といった厭世的な雰囲気も漂っていました。世紀末までのカウントダウンもあって終末ブームは続いており、それはこの時期の創作物にも影響が見られます。
 マンガではニューウェーブとして大友克洋先生が注目され、サイバーパンクが新しいSFとして人気を博し、電脳社会の到来を予感させる時代でした。( 1982年6月『ブレードランナー』公開 )

 この1980年代後半から1990年代にサブカル誌のサイバーパンク特集などに『どろろ』が取り上げられているのが散見されるようになります。

 

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週間SPA(扶桑社):記事

 

サイバーパンクとは 】
 1980年代に入り、自然科学の理論に基づいた従来のSF、これを厳密化したハードSF、非現実な要素を加えたスペースオペラや、サイエンス・ファンタジー、これらに対するカウンターとしての思想運動が発生、それを体現する小説に盛り込まれた要素・スタイルの呼称。
( “ サイバーパンク”という単語は、1980年、ブルース・ベスキ氏著作の短編タイトルとして登場。その後、1985年にSF誌の編集者であり評論家であったガードナー・ドゾワ氏によって作風を示す新語として用いられ、SFのサブジャンル・思想・スタイルを示す言葉として定着 )
 典型的なサイバーパンク作品では、従来のSF作品の持つ非現実性のカウンターとして、リアルな現実性が意識され、現実性を体現するテーマとして人間心理の描写に力点が置かれた作品が多いことが特徴となります。
 さらに心理描写においても、より現実性を持たせる為、社会心理学の「対立・葛藤」の発展形と看倣される「構造・機構・体制」に対する反発 ( いわゆるパンク ) や反社会性を作品主題のもう一つの軸として多用し、これらの内包する「社会や経済・政治などを俯瞰するメタ的な視点」を背景として描写に加え、既存のSFとは一線を画することで成立しているSFジャンルです。
 多くのサイバーパンク作品がありますが、これらには共通点があり、1988年のテーブルトークRPGサイバーパンク2.0.2.0.』を制作したマイク・ポンスミス氏は、
サイバーパンク作品に登場する主人公たちは、基本的に社会的に弱い立場となっています。そんな中、彼らが新しく発見した技術や誰も使ってないような古い技術、再利用された技術などを組み合わせて、巨大勢力と戦い、自由を勝ち取る内容のストーリーが展開されます 》と説明しています。

 “ 百鬼丸 ” はサイボーグとして、これらサブカル誌内の記事で取り上げられていますが、「主人公は社会的に弱い立場」「新しく発見した技術や誰も使ってないような古い技術、再利用された技術を使用」「巨大勢力 ( 構造・機構・体制 ) との戦い」「自由を勝ち取る」など、原作『どろろ』のストーリーにはサイバーパンク的な要素が多く、
主人公の一人 “ 百鬼丸 ” が “ 和製サイボーグ ” といえる存在だったこと以外に、これらの類似が記事に取り上げられた理由だと考えられます。

 

 

ーそのような意味においてカネコアツシ氏の『サーチアンドデストロイ』はテーマ・アレンジともに着眼点の良いリメイクだったのではないかと思います。リメイクと言うよりは『どろろ』の骨子、テーマの流用と言う感じはしますが、

 

 

どろろのあゆみ【10】表現規制とオタクバッシング

 1988 ~ 89年に起きた「連続幼女誘拐殺人事件」犯人逮捕により、一連の報道は過熱。マスコミは特異な事件として連日報道、マンガ・アニメなどのメディアが犯罪の誘因と視聴者に印象を与えかねないフレームアップも有って、その影響は今も続いています。

 この事件直前には、最高裁が青少年条例により有害と指定された「図書」の販売規制を合憲と判決。そして1980年代末までに長野県を除く全都道府県で青少年条例が制定されるなど、創作物を取り巻く環境が厳しくなっている中、事件の発生を受けて、1990年の和歌山県住民運動を発端とする “ 有害コミック規制運動 ” の動きは大阪にも波及。この時期より“青少年に有害なコンテンツ”の追放運動は全国で急速に進み、有害と指定された創作物の表現・販売規制は強化されていきます。

 この様に「有害図書」と見做された創作物の表現規制・排斥の動きが多方面に及んでいた時期、
 1991年、男性向け同人誌を委託販売していた都内の書店 ( コミック高岡・漫画の森:新宿店・書泉ブックマート ) の店長及び書店員が「わいせつ図画販売目的所持」で警察の取り締まりの対象となり、また美少女系同人サークルも摘発を受けました。この他にも印刷業者を含む総計75名が逮捕または書類送検される事件となり、同人界のみならず出版業界にも大きな影響がでました。
 これら一連の流れの中、「コミケ幕張メッセ追放事件」勃発
 幕張メッセを管轄する千葉西警察署に届けられた拾得物に無修正同人誌が含まれていた事態を重く見て、同警察署は「コミックマーケット準備会」と「幕張メッセ」に事情聴取を行いました。
 この事情聴取を受けて、既に準備会によるコミケの開催告知、サークル申し込みは済んでいた状況でしたが、幕張メッセは使用拒否を準備会に通告。
 コミックマーケット史上最大と言われる開催危機が訪れます。
 これを受けて「コミックマーケット準備会」は「晴海東京国際見本市会場」に会場使用を依頼、見本誌のチェック・印刷会社への協力依頼を含む充分な対策を取ることで1991年8月の『コミックマーケット40』は予定通り開催されましたが、その後も「コミックシティ中止事件」など、同人界への余波は続きました。

 また1991年に目を向けると、
 出倫協が “ 成年コミック ” マークの制定、「コミック特別委員会」を設置。
 自民党有志議員がポルノコミック対策議連を結成、法規制を示唆。
 これらの動きを受けて、出版大手三社が指定コミックスを出荷停止、絶版、回収。
 と、この時期から漫画を含む創作物の規制はさらに厳しくなって行きます。
 

 そして翌年の1992年、これらの動きに反発して有志の編集者・有名漫画家が「コミック表現の自由を守る会」を結成。
 出版社もコミック誌を中心に、法規制反対を訴える「コミック表現の自由を守る会」の意見広告を掲載するなどの運動を展開。この広告掲載は大手出版社十数社、四十誌以上が参加する大きな運動となりました。
 この「コミック表現の自由を守る会」の活動により、表現規制を容認した報道を行っていたマスコミも表現規制に慎重、あるいは批判的な立場をとるメディアが出てくるなど、動きに変化が見られました。

 しかし、1992年3月26日「コミック表現の自由を守る会」世話人のひとりである山本直樹氏のコミックス『Blue・光文社』が、東京都の「不健全図書」として告示。守る会の世話人を狙ったかの様な指定に波紋は広がり、光文社労組は廃棄などの自粛を批判し、会社を追求する事態となりました。
 また、政府は事業税の見直しの中で “ 文化的出版物 ” と “ 非文化的出版物 ” を選別し、非課税対象と課税対象の書籍を線引きしたいと書籍協会に提案します。出版社への事業税減免撤廃の経過措置延長と引き換えに出版業界に「さらなる自主規制」を要求する。政府の出版業界への圧力と取られ兼ねない、いえ、圧力であったと思います。

 この様に業界へ表現自粛を求める動きは継続し、
 そして、1999年5月に「児童ポルノ禁止法成立」が国会で可決。同年11月1日施行となります。
児童ポルノ禁止法」は、児童を性的搾取・虐待から守り、児童の権利を保護することを目的とする法律でしたが、出版業界・オタク界では、絵画・コミック・アニメ・ゲームなどの創作物も取り締まりの対象となるとの情報が流れ、市場にも混乱は広がります。当ブログの【 どろろに影響を受けた作品・ベルセルク 】でも少し触れましたが、大手書店の中には法律施行後、問題があると思われるコミックスを店頭から排除し、「児童ポルノ法が施行されました。当店は法律を尊守します」との内容を店内に掲示するなど、過剰な自粛が見られました。その後、混乱は徐々に落ち着きますが、表現規制表現の自由を巡る問題は、今も続いています。

 以下、自主規制の事例を少し、

覚悟のススメ』 山口貴由:著
週間少年チャンピオン 1994年:13号 ~ 1996年:18号まで連載 
覚悟のススメ』の登場人物が「4鬼!」と言いながら手で数字の4を示す仕草が「差別表現 ( 四 つ ) に見える」として編集部から作者に確認が入り、編集部が関係機関に相談し「問題なし」との回答を得たにも関わらず、最終的に修正されました。
ゴーマニズム宣言』内で小林よしのり先生が取り上げたこともあり、表現の自主規制として有名な事例。

『BLEACH -ブリーチ-』久保帯人:著
 週間少年ジャンプ2001 ~ 2016年の38号まで連載 
 アニメ・2004年10月 ~ 2012年3月まで放映
「志波空鶴」という、コミック原作では右腕の肩より下がないキャラクターが、アニメ放映時には義手を装着して登場。身体表現に配慮した為と思われます。

 この時期、特に槍玉に挙がっていた性的表現以外にも、部落差別問題に関連した表現、身体障がい ( 欠 損 ) 表現と多岐に渡って業界の表現自粛が行われていた形跡が伺えます。
 ネーム段階のチェックで修正される表面に出ない自主規制は以前からあったと思いますが、この時期以降さらに多くなったと思います。
( 私は、創作物の適切な配慮やゾーニングは大切だと考えていますが、過剰な規制で創作物に関わる業界全体が委縮してしまう事も、創作者の表現の自由が制約を受けることも問題だと考えています )

 さて、
 ここで話を『どろろ』に戻します。

 1980年代に入り、
 1984年にっかつビデオフィルムズから『どろろ』ビデオソフト発売。
 1987年以降の『魍魎戦記MADARA』シリーズのヒット、
 1988年JICC出版から『どろろゲームブック発売。
 1989年『どろろ』PC版ゲーム、発売。
 と、
どろろ』の再発見・リメイクが続いていた1980年代後半、
 この時期、サブカル誌に【 手塚治虫特集 】『どろろ』の記事が散見されるようになります。
( 1980年代後半はバブル景気もあり、多くのサブカル誌が創刊されていました。また、旧アニメ放映時からのファンや『どろろ』放映時に幼児であった視聴者の年齢がさらに上がっていた事も理由に有りそうです )
 この “ 再発見 ” の流れは継続するかに見えましたが、
 上記の様に、1989年「埼玉幼女誘拐殺人事件」以降、出版業界を含め創作物全体に自主規制が強く求められる様になります。

 私見ですが、この事件後の過剰ともいえる業界の「表現自粛」で『どろろ』の再発見・リメイクの動きは鈍化したのではないかと考えています。
 東映ビデオ『どろろ・3巻 どろろと百鬼丸・3巻、全6巻』2000年発売。
 これなどはもっと早く発売されても良かった映像商品だと思うのですが、1984年のにっかつビデオフィルムズ『どろろ・全2巻』ビデオソフト発売から16年以上の時間を経て販売されています。
(『どろろ』LDボックス、1998年1月25日発売・『どろろ』DVD Complete-BOX、2002年11月21発売 )
 また『どろろ』のPS2ゲームソフト化も、この事件が無ければ “ 再発見 ” の流れに乗って、もう少し早かったのではないか? と考えます。


 

 1950年、岡山県での「図書による青少年の保護育成に関する条例」制定を嚆矢とする「不良出版物絶滅運動」への流れは1980年代、90年代を経て今も続いており、創作者・創作物を愛する多くの人に関わっている問題です。
 2019年3月「表現の自由を守る会」の山田太郎議員が、組織の支援なくSNS・インターネット上を主戦場として活動を行い、目標を超える540,077票を得票し当選、支援を続けてきた赤松健氏 ( 漫画家・日本漫画家協会理事 ) は「オタクが票田になる可能性を示した」とコメントを寄せました。
 若いオタク層の票が山田太郎議員を国会に送り出せた意義は大きく、今も戦っておられる多くの創作者の方々、先人の努力に頭が下がります。
 そして、この流れは手塚先生が何時の時代もその先頭にいて、マンガの社会的な地位を上げようとしてくださった事と繋がっているのだと思います。
 

 機会があれば1950年代の「不良出版物絶滅運動」についても纏めたいと思っています。

どろろのあゆみ【9】

 1970年代、第二次世界大戦後の経済成長がオイルショックにより終わりを迎え、米ソ冷戦も緊張緩和を見せる中、1973年には泥沼のベトナム戦争が終了します。これによりアメリカの軍事力の限界が露呈、ニクソンショックによりドル支配にも陰りが見えはじめます。中国が代表権を得る、イラン革命、と国際社会に多極化が見られる様になり、一つの時代の終了と新たな始まりを予感させる時代「戦後からポスト戦後へ」の到来でした。
 日本は高度成長が終わりを告げ、経済は安定成長に移行。
 1970年には大阪万博が「人類の進歩と調和」をテーマに掲げ開催されています。
 1970年の安保闘争を意識した学生運動が、前年・1969年の東大安田講堂占拠事件の失敗で衰えを見せる中、大衆の異議申し立て運動に、ベトナム反戦運動・環境問題・ウーマンリブなどの政治運動が現れ、人権意識の高まりに伴う運動も活発になってきます。
 また、戦後の消費主義・科学への期待など明るい雰囲気の中で成長した世代が、しらけ世代と言われながらも、この時期に青春時代を迎えます。この世代からは、その後のオタク文化を担う人材が多く輩出されており、これらのオタク第一世代がその後のオタク文化を牽引していく事となります。

 終末と新たな始まりを感じさせる世情の中、
 1973年、手塚先生が漫画家生活30周年を迎えたこの年、虫プロ商事に続いて、虫プロも倒産し、マンガ・アニメ史に於いても一つの時代が終了しました。
 この年にはベトナム戦争終結、出版では小松左京氏の『日本沈没』が大ヒットし、翌年映画化。『ノストラダムスの大予言』も出版され大きく話題となり、終末・オカルトブームが到来しています。
 戦後の少年マンガ誌とともに成長してきた世代は入れ替わりつつありましたが、この時期には、次の世代がマンガ読者として定着し「週刊少年ジャンプ」は次世代の読者の取り込みに成功、この頃より部数を大きく伸ばしています。
 また1973年に手塚治虫漫画家生活30周年記念企画として『ブラック・ジャック』が「週刊少年チャンピオン」で連載開始。当初は数回の連載で終了する企画でしたが、徐々に人気が加速、手塚治虫復活を遂げるヒット作へと成長します。
 1974年には『W3』事件以来疎遠となっていた「週刊少年マガジン」に手塚先生が『おけさのひょう六』を発表。その後マガジンで『三つ目がとおる』連載開始。超古代史・オカルトが注目を集め始めていた時期で、これもヒット作となります。
 1977~83年には『スターウォーズ』が世界的に大ヒットし、その影響でSFブームに、この流れは後の大衆文化に大きく影響を与えます。また同時期に『宇宙戦艦ヤマト』のヒットでハイティーンを巻き込んだ、第二次アニメブームも本格的に始まります。

 そして、1980年代に入ってからもマンガを掲載するメディアは増加、これにより趣味・嗜好によるマンガジャンルの細分化はさらに進んでいきます。
 80年代前半には吾妻ひでお先生が人気作家となり、ロリコンマンガがブームに、
 手塚作品では82年『プライムローズ』連載開始。
 また、ニューウェイブと呼ばれた時代の旗手たちが80年代初頭に現れ、この流れはその後サブカルと呼ばれた大衆文化に結実していきます。
 マンガでは大友克洋先生が脚光を浴び始めた時期がニューウェイブの始まりでしょうか、『宇宙戦艦ヤマト』から始まった一連のアニメブームが若者文化 ( サブカルチャー ) として認知され定着したのも70年代を経て80年代でしょう。現在のサブカルは80年代に各ジャンルのベースが確立されており、それはアニメ・オタク文化にも言える事だと思います。
 

 また、スペースインベーダーの流行からゲームブームが一般化、1983年7月15日任天堂が家庭用ゲーム機「ファミリーコンピューター」発売。
 これによりテレビゲームが若者文化として本格的に定着。1986年には『ドラゴンクエスト』がスクエアエニックス ( 旧エニックス ) から発売、社会現象ともいえる大ヒットとなります。
 その翌年、1987年『魍魎戦記MADARA』連載開始。
どろろに影響を受けた作品」でも紹介しましたが、この一連の “ MADARA・SAGA ” と呼ばれる作品群は1980~90年代オタク文化の一面を代表する作品で「運命の双子」「前世・転生もの」( この連載一年前に『ぼくの地球を守って』が連載開始、オカルトブームもありヒットしています )「過剰な描き込み」「創り込まれたバックストーリー」「膨大な裏設定」など、当時の流行が盛り込まれています。また『魍魎戦記MADARA』の同人界を巻き込んだメディアミックスによるヒットは革新的で、その後のオタクコンテンツのマーケット展開に影響を与えたと思います。

 さて、
『魍魎戦記MADARA』連載開始から一年後の、1988年に「どろろゲームブック」発売、翌年には、1989年「どろろ・PC版」ゲーム発売。
と、当時 “ 新大陸 ” であったゲーム業界で『どろろ』関連商品が発売されます。
 私見になりますが、この『どろろ』再発見には『魍魎戦記MADARA』で、大塚氏が「“どろろ”が元ネタ」とあちこちで喧伝して下さったことも大いに影響があったのではないでしょうか、

 後年、
《 妖怪に奪われた生身の体を一つ一つ取り戻す、という「どろろ」のストーリーの骨子を流用してファミコン漫画のシナリオを書いたら単行本が250万部も売れた。
( 中 略 )
どろろ」のリメイクを試みている、他にも同じことを考えている漫画家を何人か知っている。しかし、僕のファミコン漫画を含めて「どろろ」は越えられない、複製は複製でしかない。オリジナルとしての手塚治虫に及びようがないことを引用者である僕は知っている 》
と、大塚英志氏が語ったように、『どろろ』と言う作品のリメイクを試みようとしている創作者は今も昔も多くいらっしゃった様子です。

どろろ』リメイクには差別用語・身体表現などの表現規制問題が絡むため、1980年代後半になっても厳しい状況の中で「ゲーム」という新しい分野でのリメイクが試みられたのではないかと考えられます。

 しかし、
 手塚先生が身罷られた1989年、出版界・オタク界を含めて創作物を扱う業界全体を激震させる事件が起こります。

 

 1988 ~ 89年「連続幼女誘拐殺人事件」
 この事件の直前に、最高裁は青少年条例で有害と指定された「図書」の販売規制を合憲と判決。80年代末までに長野県を除く全都道府県で青少年条例を制定。
と、青少年の健全育成を大義名分に創作物の規制が加速していた時期でした。
 ゲームやマンガ・アニメを含む創作物を取り巻く環境が厳しくなっている中で起こった、この事件により、創作物の表現・販売規制は因り厳しいものとなって行きます。

どろろ』成分は少なめですが、続きます。

「どろろ」に影響を受けた作品  第四回  『ベルセルク』

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【 あらすじ 】
 母は虐殺され、その遺体が吊るされた木の下で主人公 “ ガッツ ” は生まれる。
 母の遺体の下で産声を上げていた “ ガッツ ” は、傭兵部隊の隊長ガンビーノに拾われ成長。彼を可愛がってくれた義母は病で死に、信頼していた義父に裏切られ、彼は部隊から出奔し、「剣」のみを寄る辺として傭兵に生活の術を得る。
 傭兵として放浪の旅路の果て、自分より強い “ グリフィス ” と出会うことで、常勝の傭兵部隊「鷹の団」の一員となり、仲間を得て束の間の平穏が訪れるが、再び運命の歯車は回りはじめ、彼と仲間を地獄へ導く。
 …そして “ ガッツ ” の壮絶な復讐の旅路が始まる。

 

ベルセルク』は1989年から【 アニマルハウス 】で連載開始。その後、白泉社発行の漫画誌ヤングアニマル 】にて現在も連載中のダークファンタジー、既刊は現在40巻、( 休載も多く、休載期間が年単位になることもある )

 2002年には第6回手塚治虫文化賞マンガ優秀賞を受賞。
 1997年・2016年にテレビアニメ化、2012~13年にかけて劇場アニメ化。

 2002年の第6回「手塚治虫文化賞マンガ優秀賞」受賞時に三浦健太郎先生が《 手塚作品で一番好きなのは『どろろ』。かなり影響を受けていますね。そのほか自分の好きなマンガや小説のごった煮の中から、この『ベルセルク』という作品は生まれてきた。暗くて、ドロドロして、妖怪めいたものが出てくるファンタジーがやりたかったんです 》と語っています。
 生贄として魔物に捧げられるが辛くも生き延びる、欠損した身体を武器で補填、暗く陰惨な世の中を彷徨する、など主人公を構成する要素に共通点があり『どろろ』の影響が見られます。この作品での “ どろろ ” に相当するキャラクターは2人、「トリックスター」としてお調子者の “ 妖精パック ” と、気が強く男装の「鷹の団」千人長で「ヒロイン」の “ キャスカ ”
( この辺りのキャラクターの配置は見事 )
 自身の生を取り戻そうと『踠く者』の物語でもあり、得るものと失うものの物語でもある、良質の人気ダークファンタジーです。

 また、ダヴィンチ増刊の【1億人の漫画連鎖 ( コミックリンク) 】でも、『ベルセルク』のリンク作品として『どろろ』が挙げられています。
どろろは一見『ベルセルク』とは関わりのない作品のように思えるが ( 特に絵柄から )、宿命的な出生や、身体の欠落と武器化、闘う動機、モンスターハンティングなど、多くの点で “ 裏ベルセルク ” ( 手塚先生には失礼だが ) と呼べる作品である。その時代の「ヤバイぜ」というところをかすっているのも価値観 》と紹介されています。

 

 1999年に石原都政下で「児童ポルノ禁止法」が成立、書店がこれに過剰な反応を見せて自主的に問題があるとした漫画を店頭からは撤去。( 紀伊国屋事件 )
 この時『ベルセルク』は不適切な描写があるとして撤去されています。
ベルセルク』以外では『バガボンド』『あずみ』等が撤去されました。
 このような芸術的に評価の高い作品も撤去された事で、当時は大きく話題になり、表現の自由を巡って様々な議論を呼びました。
・『バガボンド』『あずみ』は文化庁メディア芸術祭マンガ部門で受賞
・『ベルセルク』は手塚治虫文化賞マンガ優秀賞受賞

 1989年の青少年条例による「有害図書販売規制」から「児童ポルノ禁止法」までの行政の動きは、1950年、岡山県での「図書による青少年の保護育成に関する条例」制定を嚆矢とする「不良出版物絶滅運動」への流れをなぞっている様で、この歴史が繰り返されているのを実感します。
 青少年の健全育成を大義名分に繰り返される漫画アニメなど創作物の表現規制という、この半世紀、創作者が晒されている問題の風上にあった作品。
 そういった意味でも『ベルセルク』は『どろろ』とリンクしている作品のような気がします。

「どろろ」に影響を受けた作品  『第三回 KID-鬼童ー』

 

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藤原カムイ作品集・クリップ 】平成2年9月16日発行 株式会社スコラ に収録。
「スピリッツ」に連載されていたが「スピリッツ」が隔週から週刊化後に「FOR・YOUNG」へ移動。しかし再開後「FOR・YOUNG」が2号で廃刊、そのまま途中で連載終了となる。

 

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【 あらすじ 】
 地殻変動で中国と日本が陸続きとなり、二つの国が一つの大国となっていた遠い未来? ある時期より感染症が流行し始めた、この細菌に感染すると血液が汚染され遺伝子が破壊される。主人公「KID」の両親は日本から中国に招かれ治療方法を研究していた研究者。
 そして「KID」の母親は特殊な血液を持っており、その血液に含まれる抗体で血清を作り患者を治療する為に自身の血液を提供していた。
「KID」が母の胎内にいる間も研究は継続され、母はより多くの人を助けたいと予定より多くの血液をこっそり提供し、その結果「KID」は身体を欠損して生まれ、培養液の中で成長、後に「KID」は父から機械の体を与えられ自由に動けるようになる。
 しかし、出産時の母の死や自身の出生に疑問を抱いていた「KID」は父に恨みを持っており、父を殺して研究所を逃走する。
 逃走先の街でも暴れる「KID」は老師と孫娘のミウリンと出会う。
 機械の体で暴れ回る「KID」は強かったが老師の功夫には敵わず取り押さえられ、老師の下で修行を始める。

 

 お話は『どろろ』に着想を得て『西遊記』をベースに展開する予定だったそうですが、天竺への旅が始まる前に「FOR・YOUNG」が2号で廃刊して終了してしまいます。
「FOR・YOUNG」に移ってからは、
 母親と同じ抗体を持つ彼の血液を狙う町の有力者が現れ、その手下に狙われたり、 
 死んだと思われた父がサイボーグ化して登場、 
 彼と同じ人工心臓を持つ美少女ミウリンとのあれこれー
 と、装いも新たに盛り上がりを見せた再開だったのですが、
 良い所で終了しているのが惜しまれます。
 最後に《『雷火』が終わったらもう一度充分な取材をして再開するつもりでいるので、記憶の片隅にでもとどめておいて下さい。何年先になるかわかりませんけど 》
と、藤原カムイ先生が結んでいますが、
 望みは薄そうです、残念 …

 

「どろろ」に影響を受けた作品 第二回 魍魎戦記MADARAシリーズ

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 【 魍魎戦記MADARAシリーズ 】
 1989年8月30日:角川書店発行 著者:田島昭宇大塚英志

 光と闇の宿業を背負って生まれた2人の少年、摩陀羅( マダラ )と影王( カゲオウ )を軸に展開する転生譚。
 主人公マダラが強大な力を持って生まれた為、父である金剛国帝王ミロクは八匹の魍鬼にマダラの身体を分け与え、マダラを川に流す。
 マダラを乗せた蓮の花はニソの杜にたどり着き、マダラは失った身体をギミック ( 錬金術で造られた義肢 ) で補い、優れた錬金術師であるタタラに育てられる。
 マダラが15歳の誕生日、村に金剛国侵攻隊が攻め込み戦闘となり、マダラのバトルギミックが発動、マダラは戦士として覚醒する。自身の身体を取り戻し、ミロク帝を倒して人々を理想郷アガルタに導くために戦士マダラの旅は始まる。

 

『魍魎戦記MADARA』は 1987年 ~「マル勝ファミコン」で連載開始。連載当初からゲーム化を目的としており、その後、漫画・小説・コンピュータ RPGOVA・ラジオドラマ -と、多くのシリーズが展開されました。

『魍魎戦記MADARA』には、時空を超えて転生した魔王を追いかける為に主人公が108回転生する …  という設定があり、
 この設定により派生した膨大なシリーズを補完するために、同人作品も転生譚の一つと捉えて、優秀な同人作家にも積極的に声をかけ、作品を描いてもらうという斬新かつ危険な企画が採られました。この大塚氏の目論見と企画は成功し、多くの派生作品も含め『魍魎戦記MADARA』はヒット作となりました。
 今ではイベントでの作家スカウトはそれほど珍しくありませんが、当時は画期的な企画で、同人界も巻き込んでのメディアミックスはこの『魍魎戦記MADARA』が始まりと言って良いと思います。

《 ぼくがまんが原作を初めて手がけた「魍魎戦記MADARA」の主人公、マダラが手塚治虫先生の「どろろ」の主人公・百鬼丸の「盗作」であることは『物語の体操』の中で告白しましたが、それ以外の『マダラ』の登場人物も実は元ネタがあります。例えば身体の半分を引き裂かれてそこに人工身体を埋め込まれたカオスのアイデアは『鉄腕アトム』のあるエピソードが元になっています。ウランちゃんが悪者に真っ二つにされ、そっくりの半身をくっつけられて二人になっちゃったというエピソードが実はカオスというキャラクターの元なのです 》
と【 キャラクター小説の作り方 】のなかで大塚氏が語ったように、この『魍魎戦記MADARA』の骨子は『どろろ』から流用されたものです。

 

 

 でも、大塚先生、未完な所まで似せなくても良かったのでは、
 108回の転生と言うのが多過ぎたのではないかと思うのですけれども、

 

 

 

それと、Nさん、
貴方の『MADARA』のデータ吹っ飛ばして … ごめんなさい。
笑って許して頂けましたが、
私は、今も時々思い出して胃のあたりがきうきうします。

どろろのあゆみ【8】虫プロ斗争ニュースから

どろろ』制作・放映時期の前後は「虫プロダクション」と言う制作会社の疾風怒濤の時代で、この倒産前後の騒動も旧アニメ『どろろ』が幻作品となった一因なのでは?
と思いましたので、考察も交えて記事を纏めてみました。


虫プロ斗争ニュース・抜粋 】

昭和43年 ( 1968 ) 3月31日 
1億5千万円の負債返却の為、アトム・ジャングル大帝リボンの騎士他10作品を10年間、全権利をフジテレビに譲渡。

昭和48年 ( 1973 ) 7月
虫プロ商事倒産、負債4億5千万円。
同年8月、虫プロの取引銀行である大和銀行が1億5千万円の債権回収に動く。
同年11月5日 虫プロ倒産。

昭和48年 ( 1973 ) 8月1日
ヘラルドとのフィルム権利譲渡に関する覚書。
3500万円の負債のカタに、虫プロの全作品の全権利を、ヘラルドに永久に譲渡。

昭和49年 ( 1974 ) 1月30日
ヘラルドにフィルム資産の返還を要求提出。
同年3月20日ヘラルドとの団体交渉
ヘラルド「倒産の責任は無い、フィルムの返還は認めらない」
同年3月30日大和銀行交渉妥結。
手塚氏の土地売却により、大和銀行は1億3千万円の債権を回収。
同年11月27日ヘラルドとの交渉。
ヘラルド側、フィルムの一部返還を認める。
・フィルムの三分の一をヘラルドがとる、3500万円の債権は放棄。
・全フィルムを組合に渡し、債権はフィルム収益から回収。

昭和50年 ( 1975 ) 6月20日
ヘラルド交渉。ヘラルドがフィルムの全面返還を原則的に認める。

昭和51年 ( 1976 ) 1月23日
労組とヘラルドでフィルム返還に関する覚え書が成立。条件は以下の通り、
・TV3本 ( リボンの騎士あしたのジョー・国松さまのお通りだい )、長編3本 ( 千夜一夜物語クレオパトラ哀しみのベラドンナ ) に関してはヘラルドが協定調印後の三年間、その権利を有し、その後労組に戻る。その間の利益は、双方で50%づつとする。

昭和52年 ( 1977 ) 7月22日
組合・清算人・ヘラルドの三者和解成立。
同年12月1日 虫プロダクション株式会社としてスタート。


 私見になりますが、
虫プロ」アニメ作品の版権が最終的に何処に有るのか決着するまで、虫プロ作品の再放送やキャラクター商品化・映像商品化は利益の分配なども含めて微妙な問題で、この一連の動きがアニメ作品『どろろ』の再放送・映像商品化に微妙な影を落とす、ひとつの要因ではなかったか?と考えます。 
(「どろろ」の最初の映像商品であるライリー商会の8mmも「虫プロ」再建後、昭和52年以降 )

 時系列だとー

昭和44年 ( 1969年 ) 旧アニメ『どろろ』は虫プロが経営失速し始めた時期に制作。
( 昭和43年、負債1億5千万円返却の為、フジテレビに10作品の権利譲渡 )
         ⇓
昭和48年 ( 1973年 )『虫プロ倒産』他の虫プロアニメ作品とともに版権が微妙な状況に、
また1970年代前半より人権意識の高まり、→ 作品へのクレーム
1970年代から、マンガ・アニメの表現規制・自粛も強くなってくる。
1970年代前半から急速にカラーテレビ普及、白黒作品の再放送は減少。
         ⇓
昭和52年 ( 1977年 )『新・虫プロダクション』株式会社スタート


 と、
 旧アニメ『どろろ』は時代の急速な変化の中、版権問題も含めてタイミングが悪かった不遇な作品と言えるのではないでしょうか?
 ただ、逆に考えると『バンパイヤ』や『どろろ』は、この端境期だからこそ「テーマ、表現も含めて」制作・発表できた作品、と言う事も出来ます。

 虫プロアニメ作品の版権、フィルム資産は虫プロダクションとヘラルドの間で協議が続き、最終的には虫プロダクションに返還される形で決着しています。( 現在「手塚治虫」原作の作品については手塚プロダクションに権利を委託していることが公式HPで告知されています )


 この協議の期間、フジテレビが一時的に権利を預かっていた事が『虫プロ』アニメ作品散逸を防いだと考えると『ぼくのマンガ人生・手塚治虫著 -葛西健蔵さん、苦境時代の手塚治虫を語る-』のアップリカ創業社長・葛西健蔵氏が10年ほど手塚作品の版権を預かって守って下さったエピソードと合わせて、ファンには奇跡のような僥倖に思えます。

どろろのあゆみ【7】

 昭和50~60年代にかけて
どろろ』に関して流布されている風説が幾つかあり、当時から気になっていたので、
私見になりますが、推理・考察も含めてご紹介したいと思います。

「 “ どろろ ” は不人気の為、打ち切られた」「封印作品であった」
原作マンガ・旧アニメともに、今もネットも含めて、あちこちで語られる噂です。
しかし、FC活動、アニメ誌での取り扱い、当時の商品展開を見ていると不人気作品とは思えません。
 私が『どろろ』を一人のファンとして追いかけていたからかもしれませんが、
キャラクター商品や、各アニメ誌に掲載される『どろろ』関連の記事を頻繁に見かけていたこともあり、再放送が難しいことで「幻作品」ではあったが、熱心なファンは多く存在する「長く愛されている作品」と言う方が「封印作品」と言うより、しっくりくる様な気がします。
 実際に『どろろFC』の会員数は最盛時には3桁に上り、創立時の昭和55年 ( 1980 ) には本放送から10年以上が経ち、プロダクション主導のFCでは無いことを合わせて考えると凄い会員数だと思います。
 また、1970年代以降のアニメ誌のお便りコーナーでも『どろろ』のファンアートやコスプレ写真を見ることがあり、本放送から10年以上たっても新しいファンを獲得していた印象です。
( 1980年代のコミックマーケット百鬼丸とカムイが仲良く歩いているのを見たことがあります、当時は男性レイヤーさんによる『百鬼丸』が多かった印象です。アニメ誌でもコスプレ投稿写真を見かけました )

 もう一つの噂話は、
「『どろろ』のビデオソフトが発売されないのは手塚先生が『どろろ』を映像商品化しないように言っていたから」
 この噂は「にっかつビデオフィルムズ」からビデオソフトが発売される前に聞いたので、昭和56年~58年頃の噂だったと思います。
 この噂に関しては当時から懐疑的な印象がありました。
 と言うのも、昭和54年にすでに8㎜フィルムが販売されており、
「ビデオソフトがダメなら、そもそも8㎜フィルムの販売も駄目なのでは ー」と当時の私は感じていたので、
 その後は「にっかつビデオソフト・全2巻」を皮切りに10年ほどの時を経て、ビデオソフト・全6巻、LD、DVD、と定期的に映像商品が発売されています。

 この噂の元となったのは、
ユリイカ』昭和56年10月27日発行に掲載された
【 対話・二十世紀の印象・手塚マンガの方法意識 】手塚治虫・巖谷國武士 
ではないか? と思いましたので、気になった箇所を抜粋してみます。

 

巖谷「そこがすごいってことを僕は繰り返し書いてるんですが(笑)。
そう言えば畸形の出てこないマンガってないですね、手塚マンガには」
手塚「いや、最近はなるべく避けてはいるんですけどね ( 笑 )」
巖谷「まあ、ちょっとリアリズム的にやっておられるけど」
手塚「いやぁ、危ないからですよ」
巖谷「危ないですか」
手塚「危ないですよ、やっぱり恐いですね」
巖谷「うーん、とすると、またそういう時代になりつつある ……」
手塚「十年ぐらい前からもう大変になって来てますね。
だから『どろろ』のアニメはあれはもう幻の映画で、絶対にリピートできないですよ。『どろろ』とか、『バンパイヤ』とかね」
巖谷「『バンパイヤ』もダメですか」
手塚「あれも一種の畸形人間ですからね」
巖谷「あれは名作だと思うんだけど」

 

 上記の   “ 絶対にリピートできない  … ”  の箇所が巷間に流布された結果、
 噂話の常で、伝言ゲームの拡大解釈もあり、
「『どろろ』のビデオソフトが発売されないのは手塚先生が『どろろ』を映像商品化しないように言っていたから」
と、変化したのではないかと思います。
 同様の噂話で、先生が鬼籍に入られてから、
「遺言になっているからDVD化はあり得ない」と言うものもありました。

ーしかし、旧アニメに関しては、
虫プロ斗争ニュース』に、
「昭和43年 ( 1968 ) 3月31日 1億5千万円の負債返却の為、アトム・ジャングル大帝リボンの騎士他10作品を10年間、全権利をフジテレビに譲渡」

と、書かれており、権利は倒産時に手塚先生の手を離れていたので、これも根拠のない噂であったようです。

 このような噂話が聞かれるのも、『どろろ』と言う作品が注目され、人々の興味を引く作品だったことの証左のような気がします。